第04話 比翼の玉壺氷(呪いの壺)
応接間であるライヤンリーの小部屋にて――
男達は土曜休日を潰してまでも集う理由があったらしい。
台湾商家の椅子に着くやいな、秘めるほどの小声で話をはじめたのだった。
私はユエン兄さんに頼まれて、店内の古物が一寸も身じろいでいないかを確認した。小部屋から距離をとって棚から棚、壁から壁まで暇を持てあましながら歩いた。男達は声をひそめたつもりでいるようだが、支柱の欄間からしっかり漏れ聞こえている。
私はしばらくすると収納箱に腰かけて耳をすました。
「逆木さん、こちら例の月江院氏です。昨日中に連絡をいれたところ是非会いたいと。まさか昨日の今日でやってくるとは思っていませんでしたが。それで怪我のほうは?」
「いや然程のことは……怪我もないので。そもそものきっかけは此方だから。店先で石なんか拾って硝子戸に近づいたら誰だって怪しむさ。月江院さんの対応はもっともだ」
逆木は常時様子をうかがうような声色に意識を集中させていた。それは質疑応答の相手であるユエン兄さんに向けたものではない。隣席した月江院に向けたものだった。
果たして真実勘違いだったのか。部外者が口を挟むことではないが、私は納得しかねていた。逆木の弁明はちっとも理解できない。言いわけじみている。冤罪でもって押さえつけられた。これで揺さぶられない精神はない。怒ってもいいほどだ。
月江院の行動にそって考えれば、逆木は拘束されるに近しい行動を取っていた。はたから見れば十二分に怪しかったのだろう。
「では二人とも穏便に済ますということでよろしいでしょうか?」
「もちろん。逆木さんがそれでよければ。俺こそ願ったりかなったりだ」
「こちらこそよかった。月江院さんへの誤解がとけたのなら幸いです」
ユエン兄さんの取りなしで二人は小卓越しに握手を交わした。
支柱の隙間から小部屋を覗きみて嫌な汗をかく。ユエン兄さんが胡散臭い微笑みを浮かべていたのだ。さながら世をすべる全能感があった。
時に選ばれた美しさを前にやむなく平伏するのごとし。そんな風に私は怖じけづいて、そっと視線を逸らした。
ユエン兄さんは骨董屋ライヤンリーの店主である。陳列された古物を支配して、店内通路を造りあげた唯一無二。気分ひとつで売り買いが決まる。
「これはいよいよ三千万の支払いがチャラになる予感……」
壺購入予定の常連客とは月江院のことだ。
察するにユエン兄さんは昨日中に連絡を取りつけたのだ。それも店を出るまえに。
逆木の条件に興味を示した月江院は、日を跨いですぐに店まで駆けつけた。そうして正当防衛のうちに硝子戸の破壊をとめた。不審者が逆木本人だと知らぬまま。
現場を知るのは当事者だけだが、結果この状況におちいった。
月江院は難航していた金策に光明が差しこみ、壺とはべつに一期一会のアンティークと言わしめた骨董品を手にする機会を得た。逆木の不法侵入が事実であっても喜んで目を瞑るはずだ。逆木の様子からしても同様のことが言える。
ユエン兄さんが商談を切りだすと逆木は頭をさげた。一連の事情を説明した後に、地主の次男坊ゆえに将来似たことになる可能性を否定できず、月江院は眉尻を垂らして憐憫の眼差しを向けた。それは気の毒になと声までかける始末。
「しかし逆木さんの爺さんはなんでまた七面倒臭いことをしたんだ。だったら死ぬまえに言っておけと俺は思うが。常人だったら遺産争いなんてわざわざさせるか?」
「まあそこは年を召した御老輩であるから若者の常識ではないだろうね。ましてや孫子の代まで遊んで暮らせる資産家だから。相続税だってばかにできないのにね」
ユエン兄さんの憶測に、月江院は肩をすくめた。
「だからこそ生前から綿密にやり取りしておくべきだったことだろう?」
「本人が最期にそうしたかったんだから何も言えないよ。いくら家族でも」
それでも逆木は苦笑するだけだった。歪な家庭環境はごまんとある。逆木は鬼のように様変わりした親類を目にしていた。逆木の祖父はとっくの昔に気づいていたのだ。よもや大金に惑わされた息子達の本質を知らないはずがない。
長い人生は他者への善良を火にくべる。死ぬのならば後は野となれ山となれ。そうして自分勝手に楽しいことを思いつく。それを老獪というならば、逆木の祖父は性悪だったが終わりは清々さっぱりとしていた。
残される家族のことなんてちっとも気にかけていなかった。つまり相続人は誰でもよかったし誰であってもよくなかったのだろう。
「血の繋がりなんてあっても、人生の終わりにはみんな部外者なのさ」
ユエン兄さんの言葉になんだか胸がきゅっとなった。
遺産問題は当人にとって死んだ後のことだが家族にとっては在世中の出来事。
正式な相続人が「指定した壷を用意できた者」という遺言であっても、特定の相続人の名前がないのであれば、民法上の条件を満たしていようが内容が不明確であるとして無効になり、指定相続分の義務は発生しない。
そういう可能性だってある。
にも関わらず弁護士のいうまま血眼になっている。無事に目的の壺を手にいれたとしても簡単にことは済まされないだろう。遺言内容に不明確でおかしい部分があると明かしてしまえば無効にできるのだ。では何故はじめから無効にしないのか。
恩恵を受けるはずのない人間がチャンスを与えられている状態だ。そこに本来の法定相続人が無効を訴えないことが不思議でならない。我先に家探しに励むよりも、納得できないと声をあげるほうのが有意義である。
沈黙は金雄弁は銀。あえてそうしない理由がある。
まるで逆木家全体に不都合でもある気がしてならなかった。
「う~ん……」
私はひとり首をかしげる。だいたいがおかしい。
提示されたユエン兄さんや月江院にたいする条件からして、逆木はまとまった現金を相続するつもりでいるようだ。しかし「自身の骨を納める壺を指定した。これを叶えた者が逆木家を継ぐことができる」という発言は抽象的すぎた。
そもそも発言者によって意味あいが違ってくる。弁護士が発したものなのか、遺言書の文章そのままなのか、逆木が説明するうえで簡略したものなのか。ここをハッキリとさせなければ三千万は帰ってこないに等しい。
ユエン兄さんは壺本来の価値を黙殺していたが、それを詐欺だと言いはしてもやはり長年付きあいのあるライヤンリーには儲けてもらいたい。
生まれた家が生まれた家だ。相続税の対策くらいしているだろうと思わなくもないが、逆木はユエン兄さんと月江院の一連のやりとりに反論してこなかった。果たしてほんとうに遺産相続の金銭問題でもめているのか訝しくなった。
だんだん雲ゆきが怪しくなってくる。
収納箱に腰かけて云々考えてみたが答えらしいものは浮かんでこない。
そうこうして唐突に、月江院の叫びが店内に響きわたった。
私は慌てて小部屋にかけつける。
「三千五百万だって約束しただろう!?」
「心苦しいけどあの壺にはそれ以上の価値があったんだ」
「嘘つけ! そういう冗談やめろよな」
「嘘? まさかそんなことしないよ」
口ぶりに迷いはなく、いけしゃあしゃあと否定するものだから驚いた。
唖然として支柱に身をよせていると話の矛先がこちらに向いた。
「昨日のうちに調べなおしたんだよ。ねえ楓子。そうだったよね?」
「うう~ん……うん。逆木さんが帰ったあとにね」
どうやらユエン兄さんは壺本来の価値について真実を話すことにしたらしい。
まずまず道徳的に喜ばしかったので頷いてしまった。
それからのち逆木と月江院は顔色を悪くした。かたや端金のために壺を手放した。かたや資金難のために壺を諦めざるを得ない。双方仕方のないことだった。
「これは僕の査定ミスかな。逆木さんが無心にやってこなければ、あの壺の付加価値は低いままだったかもしれないね」
「ぬけぬけとだな……逆木さんに悪いと思わないのか? 返品しちまえ」
ユエン兄さんは横目にちらりと逆木の様子をうかがった。
「そうだね、返品してもいいかな。月江院は逆木さんから買うといい。そうして壺はどちらかを骨壺として一生墓のなか。ひとつ欠けることになる」
「……それは嫌だな」
月江院は骨董品蒐集に貪欲すぎた。
二つの壺は無論のこと、金策を用いて一期一会のアンティークまで購入する腹づもりなのだから、いくら地主の次男坊でも立派な浪費家だろう。
蒐集行動にどれほど大金をかけるつもりなのか。全国津々浦々放浪する放蕩息子の金の出処が謎である。徳川の埋蔵金でも探し当てたのだろうか。
「楓子やこっちにおいで」
ユエン兄さんの呼びかけにハッとした。
大金塊の浪漫に思いはせていた意識が浮上する。
立ちつくす私を見かねてか、小部屋にはいるよう手招きされた。
小卓越しに大陸由縁の四脚が並んでいる。そのうち二脚が揃いで入手した椅子であり、残り二脚が別ルートでやってきた古い時代の椅子であった。前者にはユエン兄さんと月江院が腰かけていたので、空いた椅子を使うほかはない。
その椅子は背もたれが長い。しかし、なに分にも年代物の木製なので深々腰かけるのは憚られる。いつ頃のものなのか不安になるのだ。ユエン兄さんに尋ねても、いつも意味深長にはぐらかされるので、増して怖くなった経緯がある。
私は肩身をすぼめながら浅く腰かけた。
居心地の悪さから愛想よろしく逆木に笑いかける。
「あの気が回らなくてすみません、今からお茶いれましょうか?」
「いいや大丈夫。急に押しかけてきたのはこちらだし遠慮しておくよ」
にべもなく断られて見るからにガッカリする。
私は逃げだすこと叶わず、体勢維持を余儀なくされた。
「評価額と仕入額は違うだろう。付加価値が二割にもみたないっていうのは、まあこの際どうでもいいんだけどさ、ここが運命のわかれどころなんだ。逆木さんはその壺の本来の価値をわかっていない。だから今後その壺は世に出回ることはなくなる。レンタルなんて聞こえはいいけど返ってくるとは思ってないよ。だって逆木さんは君とは違うから」
ユエン兄さんは率直に言いきった。本人を前にしながら。
骨董品保護をうたう蒐集熱心な月江院とは裏腹に逆木はガラクタを売りにきた存在である。二人の価値観は相反している。それは明白だった。
日頃からライヤンリーに通いどおしている月江院とは違って、逆木は店主であるユエン兄さんの為人を知らないまま壺を売却した。
遺品を渡すに相応しい相手であるか見極める暇もなかったのか、そうした手間暇を惜しむ人間と、惜しまない人間では骨董品に対する扱いはまったく異なる。逆木にとって遺品の壺は雑器でありガラクタでしかなかったのだ。
しかしこれには一考の余地がある。逆木は反論の声をあげた。
「袁君がいうように借りるだけで済む話じゃない。月江院さんがいるのは重々承知だ。きっかけは遺産の相続だが……故人の願いを叶えてやりたいという思いもあるんだ」
やはり返すつもりは毛頭ない。そうと口にしないだけ常識がある口ぶりだったが、しかし言いたいことは微塵も変わっていない。ほら見たことかとユエン兄さんは胡乱げな視線を投げかける。月江院は驚きのあまり鳩が豆を食ったように目を瞬かせていた。それから時間のずれを置いて小卓を叩きつけた。
「おい逆木……約束やぶるなよ。そうとなれば弁護士連れてくるからな」
もはや敬称はない。逆木は言葉を詰まらせると俯いてしまった。
ライヤンリーへの不法侵入未遂の容疑が、ぐっと深まった瞬間だった。
だがここでとどまるところを知らないのが店主の性分である。
ユエン兄さんは素知らぬ顔で二人を取りなしながら話をつづけた。
「とにかく逆木さんには一度話を聞いてもらって、それから壺本来の価値を知ってもらいたいんです。今後のことはそれから改めて三人で話しあいましょう。ついでに楓子も今後のためにちゃんと骨董品の知識を吸収していくといいよ。将来役に立つからね」
いったい将来の何処で役立つんだろう。ともあれ私達三人はユエン兄さんに注目した。
「あの磁器の壺は薄緑色。青磁のだせる一色だけど、玉を模したはずの色味にしては濃い。青磁の色っていうのは翡翠をさした薄緑色であったはずなんだけど、古くから白緑こそが秘めたる淡い青磁色とされてきた。では玉を模していた青磁の色味がこうした淡いものになった理由は何処にあるのか?」
「え……でも翡翠ってカワセミって読むよね。カワセミって真っ青なはずだけど」
私は青磁の色に思いはせる。しかしない知識は絞りだせなかった。無言のまま首をふれば、隣りあった月江院も「さてな」と呟いたきりである。
「もちろん時の支配者である貴人の言葉によるものだ。雨過天青という言葉がある。雨あがりの白い雲間の空の色、灰色を帯びた薄い青空、これが本来の青磁の青色なんだよ」
翡翠と言えば頭に浮かぶのは透明感のあるエメラルドグリーンの勾玉である。薄い青空に翡翠は関わっていない。こじつけじゃないか。
私は知らず知らずに眉根を寄せていた。
「うう~ん……カワセミが由来なら納得できたものを」
「楓子これにはちゃんとした理由があるんだよ。翡翠というものは薄緑色だけではないんだ。青緑から黄緑、深緑に薄紫まで多彩な色がある」
「そういう色ならパワーストーンのお店でみたことあるよ」
「ここが複雑なんだけど、中国では硬玉のジェダイトにかぎらず軟玉のネフライトも玉と数える。それこそ清朝以前までは軟玉こそが本物の玉だとされていたから、今の扱いとはまるで逆だったのさ。そうすると色味はもっと複雑化するんだよ」
「へえ~」
つまり翡翠には種類があったようだ。祝事の節目を皮切りにプレゼントには事欠かないユエン兄さんだが、アンティークの宝石類などは一度足りとて選ばれたことはない。未成年の私に有名所以外の宝石の知識がないのも無理からぬ話だった。
「すなわち翡翠の色は薄緑色だけではない。そうして軟玉の翡翠には青色もある。これを碧玉という。だから青磁は必ずしも薄緑色ではない。軟玉を愛した時代と場所が違えば青磁は一色にかぎらないんだ。これが中国の玉と青磁のお話」
複雑怪奇な中国。霞みの向こうに浮かびあがる果てしない歴史のなかで、数多ある王朝がいくつ滅びていくつ築かれたか。神話世界が地続きであり現実に干渉している国だ。失われたものが多いぶん残されたものも多くある。
美しいを愛でる心は変わらずに、それが多種多様に変化して草木や土に埋もれていく。文献をあさり墓を掘りおこし器の窯郷を探らねばわからぬことが多い。
いつかユエン兄さんが教えてくれた話である。
焼造の窯址から欠片をあつめて研究する。これにて絶えてしまった技術と向きあう。ただ完全に失われたものは詳らかにされることはなく、再現できない製法があるからこそ欠片の埋まった窯址にいたるまで価値が残りつづける。
玉の話にもどるが、軟玉ありきで青磁が造られたのなら、経過途中で色味を極めたことで白緑に到達したことになる。すなわち青磁独自の美意識であって、翡翠から逸脱した色味であろうが軟玉の色には違いないのだ。
「そもそも釉薬で玉の色をだすのに試行錯誤していたからね。はっきりとした色っていうのは決まっていなかったし難しいものだったんだよ」とユエン兄さんはいう。
「硬玉の翡翠を模していなくても、製造方法が青磁であれば、それは青磁である。この薄緑色の壺はちゃんと玉を模した青磁なんだ。それで対になっている玉器の壺は翡翠から磨かれた宝の塊だから、これをもってして青磁であるとも言える」
「それで……つまりは?」
着地点はどこにあるのかと言葉の先を求める。
「つまりは玉器ありきで造られたから、この二つの壺は揃いの色、揃いの形になったんだ。きっと逆木さんのお爺様が骨壺に指定したのは假玉の器の方だと思うよ」
私には意味がわからなかった。逆木はどうだろう。
「なぜ断言できるんだ!?」
ぐわんと椅子の脚が揺れた。壊れでもしないかとハラハラする。
小卓に乗りあげんばかりの勢いで立ちあがった逆木に、ユエン兄さんは表情ひとつ揺らがさず、それこそ普段どおり微塵も変わらない調子で話をつづけた。
「僕が同業者から聞いた話なんだけどね、でっかい玉を磨いて造られた壺がある。その壺が造られたのは大昔も大昔。殷王朝と周王朝の時代のもので、畏れおおくも恭しく高台裏に饕餮文が彫られていた、呪術用の祭祀道具だったと」
「うわ……呪い系……?」
何故だがオカルトな方向に話題が逸れはじめていった。
「それは中原をめぐる戦いのなかで失われてしまって、清王朝の時代に硬玉の翡翠で造らせたというレプリカだけが現存している。と言われていた。しかしこの壺は清王朝滅亡後、接収された宮廷コレクションには含まれていなかった。存在自体が眉唾ものだったのさ」
殷王朝と周王朝の頃といえば紀元前だ。三千年以上も大昔の出来事である。モーゼが海を割り、ツタンカーメンが王家の谷に葬られた時代のことだ。
それだけ時間が経っていれば国諸共消えてしまっていても不思議ではない。誰かが秘匿したまま歴史の表舞台にでてこなかったという可能性もある。
そうやって考えてみると、古代の骨董品は現存することが奇跡なのだといえる。
「ところが戦後さる民家から琮とされる玉器が二つも発見された。ときは高度経済成長期、これを破格の値段で買取った人物がいたらしい。その後の所在は行方知れず。しかし話はここで終わらない」
ユエン兄さんは神妙な顔つきで語った。
「この琮こそ、饕餮文が彫られた壺のレプリカだったんだよ」
「本来、祭祀道具の壺は一つだけだった。これが清王朝のときに二つ造られた。理由はわからない。しかし二つを引き離して所有してはいけない。という決まりがあるらしい。これから比翼の壺と呼ぶことになった」
「でもなんでまた? 片方だけ持っているとどうなるの?」
「片方だけ持っていると呪い殺されるそうだよ、ソウだけに」
「…………」
場違いな駄洒落に笑いだす人間はいなかった。それでもユエン兄さんは調子づいて同じ言葉を繰りかえす。私は空気感に堪えきれずうつ伏せてしまった。
しかし遂に逆木だけが「アハハ……」と笑った。若干声がうわずっていた。
話しぶりからして十中八九間違いない。清王朝時代に研磨されたその壺は、現在ライヤンリーにある。しかも一つは十万もしない偽物なのだ。どう考えても決まりに反している。
薬棚にしまわれたエメラルドグリーンの玉器は一つだけ。一対のものではなく真贋の器となりはてていた。壺翁の遺産である揃えの壺は片方本物で片方偽物だった。であるからこそ先人の忠告どおり、呪いの壺として成立していた。私は嫌な予感に苛まれた。
もしやのオカルト話。壺の呪いが逆木家を乱したのではなかろうか。たしかに故人は囚われていた。争いの呼び水には違いない。もっとも呪いが本物であればの話だが……。
曰くつきの器物を骨壷にしたいと願うなんて常人ではない。しかし逆木の祖父は死後のことなど一切考慮しない人物である。上記二つと、諸説と逸話と伝来の価値からして、彼が骨壷に望んだのは比翼の壺である。その確率がおおいに高い。
ところがユエン兄さんはここで反対の意見を持った。
逆木の祖父が求めているものは假玉の器、つまり偽物の青磁の壺であると言った。
「壺の呪いが本物なら……彼はその呪いを一代かぎりで終わらせたいと思うかな。いわゆる秘密は墓まで持っていく人ではない。殊勝な人であることに変わりはないけど、僕だったらもっと相応しい器を骨壺にしたいと思うなあ」
生前付きあいでもあったかのような言い草である。
まんじりと小卓を囲んでいた三人で、おやと顔を見あわせた。
「ユエン兄さん、お爺さんのこと知ってるの? だから壺のことも知ってたんだ」
「そうだよ。だって逆木さんの持ちこんだ紹介状はお祖父様がしたためたものだったからね。彼は昔からライヤンリーの常連客だった。でもまさか件の壺を持ってるなんて知らなかったけどさ。教えてくれてもよかったのに」
「はああ~……」
小部屋にいる誰よりも私は呆れかえった。
どうやら逆木も初耳だったらしい。
「あれは顧問弁護士の三ツ境から渡されたもので……」
「そもそも壺の是非を判断するのだってそいつなんだろう。しかしよくわからんな。売りたければ売れってことだったのか?」
月江院の問いかけに逆木は首を振る。
「紹介状を貰ったのは遺言状公開前で三ツ境はなにも……」
「そうか。なら前もって誰かしらに弁護士経由で渡すよう言われてたんだろうな」
男二人は云々身近な存在として近状を相談しあっている。
似た者同士というものは出自がもっとも重なる場合があるそうだが、清貧の身分からしてみれば顧問弁護士が家系の身近にある生活など全然さっぱりわからないものだった。大人になれば必要になる人生がやってくるのかもと考える。
いや、そんなことない――ユエン兄さんを横目にちらっと見た。
一方小部屋の主といえば軽薄につきた。清廉静謐な顔のせいもある。素っ気なければ素っ気ないぼとに度を増している。飄々たる風貌で頬杖をついているのが様になっていた。
「ねえ楓子――」とユエン兄さんに袖口を引かれる。
手のひらを衝立にして耳元でこっそりと囁かれた。まるで秘密をうち明けるような無邪気な仕草だった。私はユエン兄さんの側ににじり寄る。
「そのような壺であるものが如何様にして一つ青磁に成りかわったのか。知りたくない? 僕はね、そうした古物の謎を心底知りたいと思っているんだよ」
「いやとくには……呪いの話きいた後にそんなこと言われても……」
ユエン兄さんは呪われた壺を三千万で購入した。知っていながら大金をかけたのである。
片方を偽物と見抜いたのだから、呪いの決まりだってわかりきっていたはず。
現状呪いの対象者は購入者である。それで当人は一切関与せずといった心積もりなのだから。いくら信憑性に欠ける話とはいえ危機感がない。金銭面においても無防備だ。
ものに対する執着心がなければ何年もこの仕事はできない……。とはいえ極端すぎるのだった。おそれ入谷の鬼子母神、なさけ有馬の水天宮である。私は今後この好奇心が悪手に回らないか不安になった。呆れこそすれ嫌ったことは一度たりとてないのだ。
商売で失敗して痛い目にあうユエン兄さんの姿は見たくない。だって彼は家族にも等しい。もう十六年あまり、生まれてからの長い付きあいなのだ。
ところで――なんの確証があってあの壺を琮のレプリカだと鑑定したのか。
いわく高台裏に一文字銘文が刻まれているからだとユエン兄さんは言った。
「冠の字だよ。部首以外の冠から一字とって掘ってある」
「えっと、どういうことなの?」
「饕餮文を漢字で表現してるんだ。饕餮の部首は食、冠は號と殄。號は号の旧字体。口部と丂部で叫びを表し、人部と彡部で人間を表し、そうして字体は殷王朝末期にかけてみられる金文に形が寄せられている。これを号と㐱に分けて高台裏に掘った。双方の壺に一文字ずつ。だから揃わなきゃ意味をなさないのさ」
なるほど。私は手のひらを打った。
要するに絵ではなく記号に発展したもの、中国初期の漢字を残したのだ。
「それでなんで件の壺だってわかったの?」
「あれほど立派な硬玉の翡翠に金文の銘文なんて趣味の造りだろう。それに青磁が後から造り足されたものであるとわかった上、高台裏にある文字をあわせて饕餮文だなんて、これはもう琮のレプリカだとしか言えないだろう」
「まさにって感じに揃えてるね……」
「それに彼が所持していたことがなによりの証明になると思うよ。逆木家のお祖父様はね、火龍の血統を持っているのさ」
「龍ってドラゴンじゃん。そこまでいくとファンタジーだよ」
私は雲をつかむような話に仏頂面で返した。
ところがユエン兄さんは満足げに頷くのだ。
「そうだよ。楓子の生きる世界とは異なる、確執と陰謀のお話なんだ」
そうして嬉しそうに微笑んだ。