第03話 比翼の玉壺氷(泥棒と警察)
話は大きく逸れたが偽物が十万そこらであっても惜しげもなく三千万出せる価値があったわけだ。いわく逸話か何かにそれ相応の理由があったらしいと推測できる。ユエン兄さんは逆木が持ちこんだ二つの壺について事前に知っていたのだ。
予知能力でも千里眼でもない。界隈では有名な代物だったが逆木本人は知らなかったのだろうか。
「もしかして三千万以上の値段がつくから買ったの? ユエン兄さんせこすぎる」
夕暮れた宵闇を歩きながら話しこむ。薄暗い空にはカラスが交差して飛びかっていて、電線のあちこちに飛来していた。集団でギャーギャーと獣らしい鳴き声をあげている。
ユエン兄さんの肩にかけた白虎の毛皮のせいか。獲物を付け狙うかのような異様な光景だったが、しかし田舎の山間には似つかわしい情景ではあった。
夕方の山裾の国道であるから、巣にもどる途中のカラスが集まってくるのも道理で、ただ単にこちらが寝ぐらのある縄張りを通りすがっているだけだった。
「楓子いまなんて言った?」
「だからユエン兄さんは――詐欺したの?」
カラスらに負けじと声を張った。
するとユエン兄さんは柳眉を僅かにつりあげた。
「じゃあさ、何処ぞのガレージやリサイクルショップで売っていたガラクタを三ドルそこらで買って、オークションにだして数十億の値がついたとして、知りながら口をつぐんだまま買った客がせこいと言えるかな。その客がやってこなければ結局はガラクタのまま一生をそこで過ごしていただろうね」
「その場合だと客人と店主が逆だから条件が違うと思うんだけど」
「僕は物の価値を知っていたが、逆木さんだって物の価値を知っていた。ただ何に対して価値の重きを置いていたか、そこが違っていただけだよ」
ユエン兄さんは自信満々に言ってのけた。
「ようするに詐欺ではない」
「うう〜ん……そうなんだ?」
カラスの鳴き声なんのその。ユエン兄さんは延々と話しつづける。生きている世界が違うようだ。煙に巻かれるとはこのことかと私は思った。
「逆木さんは足がつかないように、しかし手早く壺を金に替えたかった。壺翁の遺産の条件を知った後ですら壺の来歴なんて興味ないような人だよ。壺の正体なんて遺産を受け取るためのキーアイテム以外のなにものでもない」
「でもさ高値で売れるっぽいなら売るでしょう普通なら」
「普通ならね。お金に困ったことのない人の感覚なんてまったくわからないよ」
想像以上に骨董品に関わる人間は資産家が多いようだった。逆木もご多分にもれず貴族もかくやといった人種であろう。するとユエン兄さんの指摘はおかしい。
逆木は値を釣りあげる交渉を省いても即金を要した。金に困ったことのない人間がそこまで入用になるだろうか。つまり逆木は売却した時点では金に困っていたわけだ。
足がつかないように手早く……みなまで言わずとも想像に難くない言葉だった。
逆木は誰の了承も得ずにこっそりと持ち出して金に換えてしまった。下手に金に困ったことのない男だから、いっときの金欲しさのレベルが破格だった。
三千万が良識の範囲だったゆえの価値の見誤り。きっと壺も香炉も埃をかぶっていたものだ。ガラクタ。その程度のものだと思いこんだ。今となっては後の祭りである。
「バレた後が大変だと思うよ」
「どうとでも言うがいいさ」
ユエン兄さんは聞く耳持たず。どこ吹く風で口笛を鳴らしてカラスを煽っていた。
サイレンの反響が山向こうから遠吠えのように聞こえた。ユエン兄さんと並んでのらりくらり帰宅すると、家の垣根にそってパトカーが一台停められていた。やまびこのせいで勘違いしたわけだが、まさかサイレンの出処がここだとは思いもしなかった。
慌てて硝子戸を開けば、狭い玄関土間に警官が二人、母親を囲いこむようにして立っていた。母親の左頬には大きな青タンが浮かんでいる。私は驚きのあまり息をつめた。
何事かと眩暈を起こす。ビニール傘を流れる雨粒のようにザーッと血の気が引いた。ふらふらと敷居を跨げば、背後から両肩を掴まれて肩甲骨を押しこまれた。私は姿勢を正して母親と対峙する。今日ほどユエン兄さんが側にいてくれたことを感謝した日もない。
「お母さん顔どうしちゃったの……?」
「空き巣と鉢あわせしちゃったの」
「じゃあそれ殴られたの!?」
「違うわよ。これお店の特殊メーク」
母親は呑気なものだった。実際被害にあって怪我まで負っているにも関わらず部外者のような口ぶりだ。諸々の感情の渦巻きに耐えられず、声を荒げた私をあやすため警官のひとりが間に入って取りなすほど、大いに呆れはてた。
「御宅のお嬢さんですね。今は事情聴取中だから落ちついて。詳しい話は後ほどお母さんのほうからお聞きください。えっと……そちらの方は?」
警察官が怪しむのも無理からぬ話。コスプレのごとき民族衣装のうえ季節外れも甚だしい、白虎の毛皮をひっかけた国籍不明の青年が現れたのだから。ここは魔都にある違法賭博の一角かと錯覚できる。
とにかくユエン兄さんは愛想よろしく胡散臭い微笑みで会釈した。
「こちらのお嬢さんのバイト先の店主です。町の商店街で骨董店を営んでいます禹袁と申します。自分でもいうのもなんですか怪しい者じゃありませんよ」
「これは失礼。失礼ついでに不躾で申しわけないんですが、お兄さんはよくこちらにいらっしゃる? お嬢さんとは特別親しい間柄ですか? 彼氏?」
藪から棒に虚をつかれ「はあ?」と疑問の声をあげたのは何者でもない。私である。
ユエン兄さんは警察官の質問に淡々と答えていった。お兄さん呼びに機嫌を良くしたか。年齢の鯖読みとは御大層この上ない。
たしかにユエン兄さんは若々しい青年に見える。しかし現実は今相手する警察官とそう変わらない年齢なのだ。どっこいどっこいだというのが真実である。
警察官よる事情聴取の後、母親は被害届を出すことを渋った。
盗まれた物の有無を確認したが被害はなく、空き巣の侵入を許した時刻と母親の帰宅した時刻が同時であったこと、荒らされた形跡のなかったこと、侵入のさいに破壊された扉口や硝子などなかったことが要因であった。
今後なにかあれば通報して被害届を出すということで話はまとまった。
終わりに鑑識係の警察官によって指紋採取が行われた。私は生涯自分の指紋が警察によって管理されるとは露ほども思っていなかったのでショックを隠せずにいた。しかしこれは協力者指紋という形で一定期間がすぎれば破棄されるものだと説明を受ける。
警察官の話を聞きながら懸命に白い粉をふりまく背中を見つめて情報社会の欠陥を感じた。昨今DB化されたシステムによって照合作業は簡略化されているが、現場では人力でしか収集できない現実がある。どこもかしこも足腰丈夫でなればやっていけない世界だった。
こうした事情が先述の彼氏応答に繋がっていて、家に度々訪れるユエン兄さんの指紋も採取されることになったのだ。家族三人分とユエン兄さんの分を引いた数、見知らぬ存在の指紋が出たらば当たり。それが空き巣犯のものだというわけだった。
しかし家中粉の海辺に成りはてても空き巣犯の指紋は採取できなかった。
代わりに猫の額ほどの庭先に大きな靴跡が残されていた。薄暗がりの湿気に飲まれた庭先の土は年中乾くことなく、地面を覆うような苔の絨毯が敷かれている。
ここに足を踏みいれると、僅かに浮きあがった苔ごと沈下して、湿気った地面に跡が残される寸法だった。
「ずいぶん間抜けな犯人だね。きっちり靴を揃えて脱いでるよ。土足で入れば気づかれると思ったのかな」
「でも手袋はしてたんだよね、指紋でなかったんだもの。庭のことまでは知らなかったみたいだから突発的に選ばれたかんじ?」
乳粥のようなドロドロした石膏が地面の凹みに流しこまれていく。
鑑識係の手作業を縁側の窓硝子越しに眺めながら、私達は照明紐のたもとで脈略なく話していた。石膏は釉薬に似ているなと考えていると、ぽつりと溢された呟きが耳にはいった。
「こりゃ革靴だな……」
空き巣は全身黒づくめのジャージ姿。毛糸帽をかぶった小柄の男。サングラスにマスク。手袋と靴下を履いていた。母親は帰宅して早々、今まさに侵入しようとした犯人とバッタリ顔をあわせたと言った。
如何にも犯人といった風貌に腰を抜かした母親は悲鳴をあげる暇もなく、犯人はまんまと逃げおおせたのだ。あくまでもいち証言である。母親の帰宅以前に侵入されている可能性も大いにあった。しかし先んじて述べたとおり指紋は見つかっていない。
田舎特有の危機感のなさで長いこと解錠されたきりであった縁側。そこ以外の侵入口は考えづらい。苔に残された足跡の謎もあった。ユエン兄さんの見立てでは「自然的に考えて靴跡に流動性がないなんて可笑しい」という着地点であった。
「靴跡の流動性? それがなに?」
「靴を脱いだり履いたりする動きって上からの圧力だけじゃないよね。逃げだす時なんかだと特に乱雑な動作になる。その時に揃えていた靴跡が崩れないなんて変だなあ」
「たしかに……脱いだ時の靴跡がきっちりキレイに残ったままなのはおかしいね」
「靴下で飛びだして靴だけ回収した後に逃げだしたら、その足跡が残るはずだけどないね。縁側伝いから玄関先のコンクリートの地面まで跳びはねたんならまだしも。でも跳びはねるほど急いで逃げたかった犯人が腰をかがめてまで靴を回収するかな」
「すごく冷静沈着で余裕をもって逃げたんじゃないの。空き巣のプロだったとか?」
「その空き巣のプロが足跡なんて残すかな。しかも革靴らしい。家人の帰宅時刻も把握していない。なのに縁側の鍵が空いてることは知っていた。じゃあ犯人はなにをしに来たのか。まさか足跡だけ残しに来たとか、ね」
侵入から逃走までの往復した足跡がない。鑑識係が仲間の警察官に告げていた。壁の薄い応接間からもれ聞こえてくる母親の困惑した要領をえない頷きに、私は不安を覚えた。
ただの未遂事件がちょっとしたミステリーに発展している。本当に犯人は逃走したのか。もしかしてまだ敷地内にいるのではないか。父親出張中の臨時母子家庭の夜更け。とりとめのない恐怖だけしかない。
「怖いんならユエン君に泊まっていってもらいなさいよ」
「ええ!? お父さんもいないのに、どこに寝かせるのよ?」
「完徹すればいいじゃない。朝までボードゲームでもしてなさいよ」
警察官か帰宅して早々粉掃除に明け暮れていた母親が、面倒このうえないといった様子で私を切り捨てた。年頃の娘に勧める案ではない。しかし見えざる恐怖に勝るものなし。
数十年来の信頼を積みあげてきた商店街の明星こと美青年のユエン兄さん。時折拙宅のご相伴に預かり、家族鍋を囲んだこともある。行事毎に駆けつけて親族席に堂々腰かけていた人だ。熱が出れば病院に付きそい、学童保育後の面倒もみた。
なればこそ母親のよせる信頼は万里の長城よりも果がなく厚かった。
父親の帰宅は週明けになる。遅ればせながら一報入れれば、是非泊まってくれとまで言わしめた。それがユエン兄さんという存在だった。
「楓子お夕飯遅くなったから夜食にでもしようか?」
「もう十時か。じゃあ胡麻油垂らした卵粥がいいな」
「白菜があるからミルフィーユ鍋にしよう」
「それならベーコンじゃなくて鶏ももね」
警察官の対応に気づかれした母親は特殊メイクの青タンを落とすやいなや、夕飯も食べずに寝てしまった。諸々朝に後回しで布団に潜りこんで身動きすらせず眠っている。
私はユエン兄さんと台所にたって白菜を鍋に並べていった。冷凍した鶏ももを薄くきって白菜に挟みこみ準備を整えた。
コンロをだして万年床の炬燵机で鍋に火を通す。煮立つまでの余暇をミステリーめいた犯人逃走事件について考えを巡らせることになった。
鍋蓋から細々あがる湯気に満たされた座敷で、対面したユエン兄さんはライヤンリーを統べる貴人のまま、優美な仕草で頬杖をついていた。
「百合子お嬢さんの特殊メイクって新色のアイシャドーのお試しだったんだね。でもなんでまた頬全体に塗ったんだろう」
「商店街のなかの化粧品専門店だから暇なんだよ。一応エステサロンも兼ねてるからオバ様たちのたまり場になってるんで、あんなお遊びでも売上には貢献してるみたい」
私の母親である百合子お嬢さんは某企業の美容部員である。長年商店街の端にある専門店に勤めて、地元密着型の営業術で生きてきた女傑だ。都会にあるデパートのカウンターのように仕事帰りのお姉様方相手ではない。オバ様方相手に磨かれた物怖じせず配慮なしの鋭いセールストークで店長になった。
極たまに店舗研修の社員がやってくる意外はひとり体勢である。営業がくる日をのぞき、暇を持てあました母親は度々特殊メークめいた化粧を施して帰宅する。なにがそこまで彼女を駆りたてるのか。わからないが、ただユエン兄さんほど人外でないにしろ、年相応ながらに若々しい人だった。
「あそこまで濃い発色のサムライブルーだから、きっと犯人は驚いたんだろうな」
軽く言ってくれる。下手をすれば怪我どころの話ではなかったのだ。
私はユエン兄さんを睨みつつ唇を尖らせた。
「それで逃げだしてくれたんなら万々歳だよ。もしも襲われてたら本物の青タンつくってたと思うんだ。まさか空き巣と鉢あわせるなんて……」
「空き巣が強盗殺人になるって話はよくあるから。これからはしっかり鍵をかけるように。成海さんが帰ってきたら三人で防犯の見直しするといいよ」
「気をつける。でもお父さん頑固だから言うこと聞くかな……はあ~」
私は重々しく頷いて鍋蓋に手を伸ばした。
その晩のことだった。炬燵布団に雑魚寝という姿勢で二人ボードゲームに興じながら、気がつけば寝てしまっていた。私は夢見が悪かったらしい。母親に声をかけられて目覚めた時分、酷い頭痛に苛まれていた。
炬燵机の狭さから窮屈な姿勢で身体を冷やした結果、体調はすこぶる優れない。それから発生した悪夢のせいで、歯ぎしりを繰りかえして顎まで疲れていた。
偏頭痛を堪えながら洗面所に立てば、先んじて歯磨きを済ませていたユエン兄さんとすれ違った。いわく「楓子と結婚する人はきっと寝不足で突然死するよ」と悪意ある予言をくだされる。歯ぎしりの当てつけだ。
体調不良からこれを見事スルーした私だったが、しかし朝餉をいただく頃になれば空腹感もあって怒りが再燃した。
しらす納豆をかき混ぜながら解脱の境地に立った。姑息な嫌がらせでもってユエン兄さんを困り顔にさせたことで溜飲を下げたのだ。醤油差しを回さずにいれば、ユエン兄さんはしおしおと項垂れて、付属のタレだけで朝餉をすませた。
「お父さん帰ってきたら指紋取るために警察署まで行かないといけないのよね。なんでまた見るからに貧乏な平屋なんて狙ったのかしら。迷惑このうえないったらねえ。どちらかというとユエン君のお店なんかのほうがお宝ありそうなのに……」
母親の愚痴を耳にして私は不安になった。
現在ライヤンリーにはお宝がある。まさに三千万以上の値打ちもの。謎めいた壺が二つも。危機感もなしに薬棚に放られている。
私は慌ててユエン兄さんに目配せした。一晩泊まるとは思ってもいなかったはずだ。ふと脳裏をよぎるのは曖昧な動作。出かけに店の鍵を締めただろうか。
まったく記憶になかった。
「あ!?」
ご飯茶碗が真っ二つに割れた。
これは虫の知らせか。はたまた不注意か。白米から溢れだした納豆の海でしらすが飛びはねる。そのまま私の口の中へ。しらすは迷うことなく舌先に向かって身投げした。
「嫌な予感しかしない……」
しおしお項垂れつづきのユエン兄さんを引きずって店に取ってかえす。おそらく今日は悪い方面で幸先がいい。つまり悪い予感はだいたい当たるように出来ていた。
路地奥で男が二人揉めていた。店先には派手な外車が一台停まっている。
私は男達を知っていた。月江院と逆木だ。逆木はボンネットに押しつけられる形で身動き封じられていた。背中越しに両腕を拘束され、関節を捻られているためか、少しも抵抗する様子はない。
「君達。この男に見覚えは?」
「あるよ。うちのお客様だね」
「泥棒までも客人とは恐れいったな」
調子のいい月江院の問いかけに飄々と答えるユエン兄さん。
私ばかり狼狽えて言葉もでなかった。目を点にして驚いていると逆木と視線があう。
「こ、これは誤解なんだ……」
「私に言われても……」
言葉を濁した私を押しのけて、颯爽とユエン兄さんが前にでやった。
逆木の釈明に月江院が眉根を顰めている。
「窓硝子を割ろうとした理由は?」
「割るつもりはなかった。足元にあった石をどかそうと思って手にしただけで……」
「じゃあなんだ。石を掴みながら店をのぞいてたのも偶々だっていうことか?」
わざとらしく両腕を揺さぶられて、逆木は静かに呻き声をあげた。
「まあまあ月江院。見間違いという可能性もあるから。君のためにもいったん落ちつこう。お互いに訴えられたら困るだろう。楓子なんか酷くびっくりしているよ」
月江院は「それもそうだな」と即時納得して、諸手を挙げるようにパッと拘束をやめた。解放された逆木は力尽きたままボンネットに寝転んでいる。そこに和解の形で腕を掴まれたので、ヨロヨロと足元覚束ないまま起きあがることになった。
「いやあ、早とちりしてすまなかったな」
「こちらも不審な行動をとって申しわけない……」
逆木の顔色はとても悪い。昏倒寸前と見てとれる。
胸部を圧迫されて呼吸を躊躇ったために、酸素の廻りが滯って頭もうまく働いておらず、少々呂律が怪しかった。店先で倒れられてもどうかと思う。
私は世間一般の風評を案じて男達を店内にはいるよう促した。