Killing Love
それはかつて、人々を恐怖に陥れた連続殺人事件。
「血塗れのメアリー事件」と呼ばれるこの連続殺人事件は、一人の女性が一年の間に十数人もの男性を殺害したとされる。
殺された男性は全て、ラブホテルの一室で全裸の状態で、頸動脈を切り裂かれて死んでいた。
この事件を起こした女性、メアリー・キャスティアルは警察に自首し、逮捕される前にこう答えたという。
「私の愛はただの狂気だった。最愛の彼を殺してしまった今、私は生きている意味などない」
この物語は歪な愛でしか男を愛することが出来なかった、血塗れの恋物語である。
様々な人々が行き交う夜の街道で、メアリーは誰かを探すかのように自分とすれ違う男を見ていた。いや、品定めをしていると言っていい。
今宵のメアリーの格好は、肩ひもで吊るタイプで袖が無く、その深い谷間が見える胸元が大きく開いた黒いワンピースドレスを身に纏い、露出した肩を血のような赤いショールで隠している。
ブロンドのストレートヘアを腰まで伸ばしており、その青い瞳は獲物を探す動物のように細められている。
目を細めるという、ただそれだけの仕草だというのに、メアリーの姿をすれ違いざまに見た男性は、絶世の美女が居たとばかりに振り返り、またそそくさとどこかへ行ってしまう。
その様子を見ていたメアリーは、妖艶に微笑み、舌なめずりをする。
だが、彼女の御眼鏡に適うような男性はなかなか見当たらない。それでも、男から自分へ向けられる視線は、悪いものではない。むしろ、自分の中の何かが疼くほどだ。
「今日は私の好みに合う良い男は居ないのね…」
溜息交じりに吐き出す言葉。欲求不満が滲むようなその言葉が聞こえていたのか、メアリーの近くに一人の男性が近寄ってきた。
くたびれ気味のスーツに、アイロンをかけていないのか皺くちゃのカッターシャツ。手入れはされているが、古さの隠せない革靴を履いている。身長はメアリーよりも少し背の高い、何とも頼りなさそうな男性である。
メアリーを見る男性のその眼には、彼女とよからぬことをしたいという下心が透けて見えるようだった。
「お姉さん、一人かい? どうだろう。私とそこのバーで一杯飲んでいかないか」
男性が顎で指した場所は、意識して探さねば誰も気づかないような存在感の薄いバーだった。
入口にひっかけられている看板には、OPENとは書かれているものの、老朽化が進んでいるのか、文字が掠れている。
ただただ退屈を持て余していたメアリーは、一瞬だけ考え、口角を吊り上げる。ルージュを塗った形のいい唇が少しだけ開き、吐息が漏れる。
「いいわよ。退屈していたところだし、貴方は楽しませてくれるのかしら」
「ははは、それは分からないけれども、エスコートはさせてもらうよ」
「ありがとう。じゃあ、行きましょうか」
ごく自然な動作で、男性の腕に絡みつくメアリー。サービスとばかりに自身の豊満な胸を男性の腕に押し付ける。
押しつけられた胸の柔らかな感触に、男性の体がわずかながらに硬直する。その反応を、メアリーは誰よりも敏感に感じ取っていた。
ああ、この男なら楽しめるかもしれない。
そう考えただけで、メアリーは自分の下腹部が熱くなるような感覚を覚える。同時に、自分の内側で、黒い衝動が首をもたげていた。
バーに入った二人はカウンターに座ると、ここを経営している老マスターに男性はジントニックを頼んだ。
一方のメアリーは、何を頼もうか悩んでいるふりをする。すると男性は、
「マスター、この女性にはスクリュードライバーを」
と言った。
老マスターは男性とメアリーの顔を交互に見ると、何とも言えない表情をしながらハイボールグラスを二つ手に取り、頼まれたカクテルを作り始める。
「あら、あのマスターは何であんな顔をしたのかしら?」
「それはだね…」
そう言って、男は自慢げにスクリュードライバーのうんちくを語りだす。
相槌を打ちながら、メアリーはその退屈なうんちくを聞き流していた。そんな下らないことよりも、自分のこの欲求不満を解消したい。酒よりも、もっともっと楽しいことに酔っていたい。その欲求は強まるばかりだった。
男のうんちくが止まるころに、老マスターは作った二人分のカクテルをカウンターの上に置く。
「では、君の美しさに」
「私の退屈を癒してくれる貴方に」
『乾杯』
二人はグラスを打ち鳴らすと、ゆっくりと中の液体を喉に流し込んでいく。
このように男と酒を飲むのも慣れている。メアリーにとってちょっとした儀式だ。
これが、この男が飲む生涯最後の酒となる。その位の相手ならばしてやろう。という、メアリーなりの気遣いであった。
少しずつ酒を飲んでいき、メアリーと男性は下らない話を続けていた。
やがて酒が無くなり、氷だけになったころ、二人は老マスターに金を支払い、バーを後にした。
強めの酒ではあったが、メアリーにとっては一杯程度では物の数に入らない。だからと言って、泥酔するほど飲む気もない。
期待しているモノは、もう目と鼻の先にあるのだから。
「ねぇ…、私酔っちゃったみたい。歩いて帰るのも大変だから、どこかで休憩していかない?」
「じゃあ、近くのホテルに行こうか。大丈夫、優しくするよ」
「あらあら、一体何を優しくしてくれるのかしら」
酔っている演技をしながらも、メアリーは余裕の笑みを浮かべる。この先のことへの期待が、彼女の体を昂ぶらせる。
男性の体にしなだれかかりながら、二人は街道の外れにあるホテルの方へと消えていった。
ホテルに入ってすぐ、二人は服を脱いでシャワーを浴び、ベッドの縁に座る。
男性の顔を見ながらメアリーは蠱惑的な笑みを浮かべて、首に腕をからめると、彼の唇を奪った。
メアリーにとっては、何度も繰り返しているこの行為。初めての時のような頭が痺れるような感覚などなく、ただただ無味乾燥の虚しさだけが残る。
だが、唇を奪われた男性のその瞳には、メアリーを蹂躙したいという野生の炎が燃え上がっていた。
「んふ…。ねぇ、来て…。私ももう、我慢が出来ないの…」
「う、おお…!!」
怪しく、艶やかに細められた瞳。うっすらと上気し、紅が差したような白い肌。そして、耳元で囁かれる甘い吐息混じりの言葉。
あまりに強烈な誘いの言葉が全てを支配する。男性の理性は、そこで途切れた。
しばらくして、ベッドのスプリングが軋む音と、男女の荒い吐息がホテルの一室に満ちる。
時折聞こえるメアリーの嬌声が、男性の衝動をさらに掻き立てていた。
汗の匂いと香水や他の匂いが混じり、形容しがたくも何かの衝動を掻き立てるような匂いが充満する。
やがてひときわ高いメアリーの嬌声が響き、スプリングが軋む音が収まった。
「どうだい、満足できたかな?」
「ええ、そうね…。ただ、一つだけ満足できてないものがあるの」
息を整えながら、メアリーは気だるげに体を起こしている男性に甘く囁く。だがその囁きに混ぜ込まれているのは恋情や愛情などではない。
枕元に手を差し込み、それを引いた瞬間、メアリーの腕が異様な勢いで男性の首元目がけて閃く。
何が起こったか分からない男性。だが、その首元にはざっくりと大きな裂傷が出来ていた。
「こふっ!? ひゅっ…!!」
「満足は出来たわ。あなたのアレも、テクも、私好み。でも、満足できてないのは…」
喉元から大量の血を流し、悶絶する男性にメアリーは甘い声で話しかける。彼女がその手に握っているのは、よく研ぎ澄まされ、磨き上げられたナイフだった。
この瞬間を、メアリーは焦がれるほどに待ち望んでいた。
彼女の異常性癖。それは、自分と肉体関係を持った男を殺すことで快感を得ることだった。
未だ血が溢れ出る首元を抑えながら、男性は声にならない喘鳴を上げる。
メアリーは口元が裂けんばかりの歪んだ笑みを浮かべ、男性の頸動脈を一息に切り裂いた。
切り裂かれた頸動脈から鮮血が飛び散り、ホテルの壁を赤く染め上げる。
「死に逝くあなたの姿を、まだ見てないからよ。これで満足できたわ…」
男性の断末魔の痙攣を見ながら、メアリーは快感で体を震わせた。今にも絶頂を迎えんばかりの体を必死で抱きしめ、笑い出したくなるのをこらえる。
返り血を浴び、見惚れるほどの白い肌を真紅に染めたメアリーは、窓の外から覗く月を見る。
月光が照らす彼女の姿は、まるで彫像のように美しくも悪魔のように禍々しかった。
これが後に伝えられる「血塗れのメアリー」と呼ばれる、メアリーの犯行である。町を転々としながら、時には国をまたいで警察の手を逃れていた。
だが、そのメアリーにも、運命の時は訪れる。
前回の犯行から二週間後、メアリーはとある田舎町へとその身を寄せていた。
田舎町の宿屋で暮らしていたメアリーは深夜、あまりに寝つきが悪く、夜風に当たるために外へと足を運んだ。
深夜となると、この町では誰もが寝静まり、まるで町自体が眠っているように静かになる。
都会とは違ったこの街の雰囲気に、メアリーは心地よさもあったが、退屈さも感じていた。
男と交わること。そして、交わった男を殺してしまうこと。彼女にとって、それが当たり前のことだった。
交わった男の命を奪うこと、それは彼女にとってのあまりに歪んだ愛情表現である。
空に昇る半月を見上げながら、メアリーはじわりと体の奥で、黒い衝動が鎌首をもたげようとしているのを感じていた。
文字通りの一夜限りの相手を探そうか、そう思っていた矢先に、一人の男がメアリーに声を掛けた。
「こんばんは、お嬢さん。こんな夜遅くに何をしているのですか?」
「夜風に当たっていたのよ。どうも、今日は寝付けなくて…」
少し薄暗い月明かりに照らされているその男は、メアリーよりも頭一つ分ほど背の高い、三十代ほどに見える人物だった。
白髪混じりの黒髪に、こけた頬。だが、彼のそのはしばみ色の瞳はまだまだ若さを感じさせる強い光が宿っている。
清潔感の溢れる白いカッターシャツに、黒っぽいベスト、灰色のズボンを履いていた。
メアリーは品定めをするように男を頭のてっぺんから、足先まで男性にはばれない様に視線だけで見ていた。
男性は自分を見るメアリーの視線に気づき、何とも言えないような苦笑いを浮かべる。
「そんな風に見つめられては困りますね。私に何か付いていますか?」
「いえ。すみません、不躾で。いつもの癖なんです」
「癖なら仕方ないですが、次からは気を付けたほうがよろしいかと」
「説教臭いんですね、貴方」
出会い頭に自分の癖を注意され、メアリーは愛想笑いをしながら棘のある言葉を投げかける。
「ははは、いつもの癖なんです。私、行商をやっておりまして、相手の挙動には少し敏感なんですよ」
「へぇ、そうなんですか。この町にも行商で来ているのですか?」
「そうですね。しばらくはここに滞在するつもりですよ。貴方は?」
「私は…」
続きを言おうとして、メアリーは一旦言葉を切る。
馬鹿正直にこの男に言う必要はない。適当にはぐらかしておけばいい、そう考え、メアリーは言葉の続きを言うことにした。
「ただの観光ですわ。都会の雑踏にばかりいて、少々飽き飽きしていたところなんです。少しの気分転換になるかと思いましたけど、やはり私には都会が合っているみたいです」
「それは私も同じですよ。こんな静かさも心地よいですが、都会の喧騒の中で商売をやっている方が楽しめますから」
他愛もない会話を交わしていくうち、メアリーはこの男性に興味が涌いてきた。今までの男達とは違う、愛欲と殺意としての興味ではなく、この男のことをもっと知りたい。と言う純粋な興味だった。
「もしよろしければ、貴方のお名前を教えてもらえますか? ちょっと気になりまして」
「ああ、失礼いたしました。私はルーベン・アルスターと申します。そちらのお名前も、聞きしてよろしいですか?」
「ええ。メアリー………」
自分のファミリーネームを告げようとした時、メアリーは周囲に自分のことがニュースなどで知れ渡っていることを思い出す。
この男、ルーベンももしかしたら自分のことを知っているかもしれない。そう思ったメアリーは、宿屋で使った名前を告げることにした。
「メアリー・クラウスです。メアリーでいいですわ、ルーベンさん」
「メアリーさん、ですね。ありがとうございます」
ルーベンは優しげに微笑むと、メアリーに頭を下げる。
彼に釣られて、メアリーも同じように頭を下げた。男性に対して、あまり頭を下げるようなことをしなかった彼女にとって、それはとても新鮮なものに感じられた。
「さて、私はそろそろ宿に戻りますよ。すぐそこなんですけどね」
「あら、奇遇ですね。私もそこの宿なんです」
ルーベンとメアリーはお互いに見つめ合うと、何となくおかしくなって揃って吹き出した。
「はははは。それなら、エスコートしますよ。メアリーさん」
「ありがとうございます。静かな町とはいえ、物騒ですからよろしくお願いしますね」
二人は微笑みながら宿の方向へと歩いて行った。
この日から、少しずつメアリーの心は変化し始める。
ただただ退屈を持て余し、宿の中でぼんやりと窓の外を見つめるだけでなく、ルーベンの行商の手伝いをするようになっていた。
道行く人々と商談をしながら、楽しげに仕事をしているルーベンの姿を見て、メアリーは徐々に彼に惹かれ始める。
そんなある日、宿屋の食堂でメアリーとルーベンは共に食事をしていた。
大皿に盛られた湯気と食欲をそそる香りが漂う料理と、固めに焼かれたパンがバスケットに入れられている。
ルーベンは大皿の料理を小皿に取り分け、ナイフとフォークを使って料理を食べる。
彼のその優雅な仕草を見ながら、メアリーは何となく心の底からの微笑みを浮かべていた。
ルーベンと共に居る時間が増え、いつの間にか、心から彼を好きになっていた。それ故に、彼を見ているだけで微笑みがこぼれるようになっていた。
ルーベンは、ニコニコ笑いながらこちらを見ているメアリーと視線がぶつかり、不意にナイフとフォークを置く。
「メアリー、聞いてくれないか?」
「何かしら」
いつもにこやかな表情を浮かべるルーベンだが、今回はどことなく渋い表情を浮かべる。とても言いづらそうに何度か深呼吸をしつつ、メアリーと再び視線を合わせた。
「そろそろ別の町に行こうと思うんだ。むしろ、今回は長居しすぎたほどだ」
「そう…」
ルーベンの言葉を聞き、メアリーは俯いて努めて冷静さを保とうとするが、唇が震え始める。
彼と共に歩めないことは分かり切っている。だが、離別の恐怖がメアリーの心を支配していた。
男と体を交え、何度もその命を奪った自分が、これほどまでにルーベンと言う男性との離別を恐れるとは思ってもいなかった。
だが、不意にもう一人のメアリーが、メアリーとは正反対の赤い瞳を輝かせながら、頭の中でこう呟く。
『失うことが怖いならば、私の中で永遠にすればいい』
今まで封じ込めていた黒い衝動が、メアリーの中でとぐろを巻いていた。
解放の時を待ち望んで、今か今かとその瞳を爛々と輝かせる。
今にも暴れ出し、それには抗えぬと悟ったメアリーは自分自身の衝動に身を任せてしまう。
「それなら、ルーベン…」
顔を上げたメアリーのその表情は、かつての獲物を狙っていたあの妖艶な笑みと、諦観の入り混じった複雑なものだった。
「…私を抱いて」
それは、今までメアリーが感じてきた中で最も強い快楽だった。
男に組み敷かれ、体の最奥を貫かれる。何度も何度も繰り返してきたその行為だが、今までのそれとは比べ物にならないほどだ。
何度も唇を重ね合い、吐息が漏れる。
自分を見つめ、快楽に顔を歪めるルーベンの姿が、あまりにも愛おしい。
その彼の姿が愛おしいからこそ、メアリーの奥底にあるどす黒い衝動は、彼の命を奪いたいと荒れ狂う。
そして、ルーベンが絶頂に達しようとした時、衝動に飲み込まれたメアリーの手は床頭台に置かれていたナイフを掴み、彼の頸動脈を一閃した。
彼の首から飛び散る鮮血は何よりも赤く、彼女の体の奥底に放たれる白い熱は何よりも熱く。
頸動脈を切られたはずなのに、ルーベンはメアリーを抱きしめ、ほほ笑む。
「私は、君があの血塗れのメアリーだと知っていた…」
「ルーベン…!?」
「それでも、私は君に魅せられていた。初めて会ったあの日の月夜から。短い間でも、君と過ごしてきて、もっと君が好きになっていた。だからこそ、君に殺されることに、躊躇いはない。願わくは…、何らかの形でもいい……。君にしあ…わ…せ………」
最期の言葉を言い切る前に、ルーベンはいつもの微笑みを浮かべながら息絶えた。
自分にとって、最愛の男を手にかけた。メアリーは静かに嗚咽を漏らす。
自分は何をしていたのだろう。
自分の愛は誰かの命を奪うためのものだった。何かを与えることなど、何一つなかった。
自分が出来たのは、最愛の彼の命を奪うことだった。
次の日、メアリーは町はずれにある警察署に自首し、自身が行った全ての殺人をそこで自白した。
手錠をかけられ、神妙な表情でメアリーは刑事にこう告げた。
「私の愛情は、ただの狂気だった。彼を殺してしまった私に、生きる意味などない。だから、私を刑務所にずっと入れて欲しい」
その後、メアリーは裁判にかけられ、彼女の希望通りの終身刑を言い渡された。
刑務所に入ったメアリーは今も独房の中で一人、ルーベンへと想いを馳せている。
メアリーのその表情は憑き物が落ちたように陰りも消え、穏やかに自分の罪と向き合っていた。
自分の技量を試すための、ちょっとした試作品です。読んでいただければ幸いです。