賢章 誘籃
「黄炬さぁ」
「うん?」
悪友と悪ふざけをしに行ったのかそれとも手合わせをしに行ったのか、微妙に怪しい昼下がりを鍛練場で過ごしたなぁと頬を掻く黄炬に、しみじみとした声が投げ掛けられた。
鍛練場の端に座り込み、ジュースのプルタブを引きながら今しがたまでふざけ合っていた黄炬の悪友は続ける。
「一級の奴らに気に入られてるよなぁ」
と、彼が呟くのも無理はない。何かの用事で鍛練場を通りがかった瑶燐が目ざとく黄炬を見つけ絡みに行ったのだ。悪友の彼には小銭を押し付けて飲み物を買ってくるようにと使い走りを命令して。
小銭を渡された彼がジュースを手に戻ってくるまで瑶燐は黄炬と和気藹々と喋っていたのである。そして彼が戻ってくるなり、お前に興味はないとばかりに会話を打ち切って立ち去ってしまった。
そんな扱いをされたら黄炬を妬ましく思うのは仕方ないではないか。一級に贔屓にされるだなんて羨ましい。
「いいもんじゃないぞ」
肩を竦めて黄炬は悪友に返した。羨ましいというがろくな目に合わないからこのポジションに憧れるのはやめておいた方がいい。
身内に甘い瑶燐や比較的温厚な霜弑が相手ならまだいい。水葉は容赦ない舌鋒を叩きつけてくるし捌尽は霜弑関連で暴れるし名無しの彼の言動に振り回されて疲れる。いいことばかりではない。ただの面白い玩具扱いだ。
決闘のことだってそうだ。黄炬の実力など二の次。死守しなければいけないのでどう守るかを議論している。手足を折って行動不能にした黄炬に護衛をつけて安全を確保してから捌尽一人で殲滅するとかいう過激な案も出ている。
そんな目に遭いそうだというのにどこが羨ましいのか。散々だ。
「黄炬はなー、なんか人に好かれるよな」
人なつっこくて素直な印象がそうさせるのか。黄炬の周りには常に誰かしらいる。名前の通りに人々の中心だ。そういう才能なのだろうか。
「だからって厄介な奴も呼び寄せてちゃなぁ」
ひやりとした空気が頬を撫でる。ある程度人通りがある医務室と比べてここは静かだ。この空間だけまるで氷に閉じ込められたかのようだ。
静謐さをたたえた沈黙が闇夜に横たわっている。ここを訪れるたびにいつもそう思う。それはこの部屋の主が真実を秘す氷の蛇だからだということを知っている。
この部屋の主に呼ばれ、"灰色の賢者"は薬局の扉を開いた。
「やっほー、リグ」
呼ばれたから来たがいったい何の用だろう。旧交ならつい先日暖めたばかりだし、特に意味もない雑談や世間話をするような間柄でもない。呼び出される理由と目的がわからない。
いつも通り、薬局の中は最低限の明かりだけが灯っていた。だというのになぜだか普段以上に暗く見えた。
きっとそれは、この部屋で作られたもののせいだろう。征服者の死体を材料に彼女は呪いの道具を作ったという。その使用目的は秘されたままだが、どうせろくでもないことに使われるに違いない。それが明日か来月か来年か10年後か100年後かは知らないが。
「少しだけ、検算しようと思って」
「検算?」
ぱちくりと"灰色の賢者"は目を瞬かせた。
検算とは、計算した数式が合っているかどうかを確かめるために行う計算のことだ。だがこの部屋で何の数字を扱うというのか。問いを口にしかけ、そしてはたと気付く。検算とは再計算のことではなく、今までの事柄を整理して状況を把握するという意味なのだ。
「検算は尊妹の口癖だったのだけど……それはいいわね、置いておきましょう」
「妹? リグの妹ってリズベールだけじゃナイの?」
それは"大崩壊"の前。"灰色の賢者"はリグラヴェーダらと名乗る女性と知り合いであった。そのリグラヴェーダはこの目の前にいる薬局の主ではない。薬局の主の妹分にあたるものだ。
ヒトならざる彼女の種族は掟が複雑で、ヒトの世と交わる時には専用の名をつける。出掛ける時にお洒落な服を着るように仮名を名乗る。本名は部屋着のようなもので、気心の知れた相手にしか晒さないものなのである。と、いうのが"灰色の賢者"の知識だ。
本名をリズベールという"リグラヴェーダ"はかつてこの薬局のように薬屋を営んでいた。どんな願いも叶えるという売り言葉で闇夜に潜む店の戸を叩いたのが彼女と"灰色の賢者"の初遭遇だった。そのリズベールの姉分にあたるものがこの薬局の主である。"大崩壊"以後、リズベールを経由して知り合うに至った。
そんな薬局の主リグラヴェーダが妹と呼ぶ存在がリズベール以外にいたとは。そんな気配などおくびにも出さなかったのに。まったくの初耳であった。
「血は繋がってないの。付き合いも縁遠くて。……ともかく」
妹と口にしてしまったせいで前置きが長い。尊妹の口癖を引用したら余計な前置きを挟むことになってしまった。
妹のことはさておき、リグラヴェーダは本題を切り出すことにした。検算の話だ。
「ナニを確めるっていうのサ」
これは話が長くなりそうだ。どっかりとソファに座って"灰色の賢者"はこれからの話題にそなえて身構えた。
何を確めることがあるのだろう。前提条件を並べ事実を列挙し物事を見つめ直す必要があるものなどないはずだが。こと自分のことに関しては、見落としがないか執拗に確かめているので検算の必要がない。かつて、致命的な見落としによって惨禍を引き起こした罪から物事を楽観的に衝動的に片付けるのを止めたのだ。
だから"灰色の賢者"はリグラヴェーダが何を検算したがっているのかまったく理解できなかった。だがリグラヴェーダがわざわざ呼び出し、検算などという言葉を用いたのだからきっと何かがあるのだろう。
何重にも身構えて"灰色の賢者"はリグラヴェーダの二の言葉を待った。
闇より暗いドレスの裾をずるりと引き、リグラヴェーダは"灰色の賢者"の対面に座った。薄暗い部屋に浮かび上がるくすんだ金髪はまるで絶望の前に垂らされた慈悲の糸のようであり、慈悲の糸に見せかけた破滅の入り口のようであった。
「……さて、検算を始めましょうか」