逃章 逃走
征服者の内通者が逃亡した。内通者というのはもちろん伯珂のことだ。黄炬はすぐに理解した。
やはり伯珂は征服者の内通者だったのか。あの伯珂が。事あるごとに飯を奢り、わからないことはすぐに教えてくれるいい先輩であった伯珂が。報告書というものに頭を悩ませていた自分につきっきりで指導してくれたのに。その中で不明瞭なことがあれば一緒に資料室まで出向いてくれた。
年齢は離れていたが、離れているが故に父親のように接してくれた。もし黄炬に父親というものが存在していたならこういうものだっただろうとさえ思っていた。
その伯珂がまさか。ではあの事あるごとに黄炬に話しかけていた態度は。研修中の身で一級と行動をともにする黄炬から一級の面々の情報を得るためか。報告書の手伝いをしてくれたのは。情報を管轄する玖天にどの情報が行き渡っているのか知るためか。調べ物に付き合ってくれたのは。ヴァイスが保管する資料を知るためか。
すべては内通のためだったのか。直面した現実に愕然とする黄炬の通信端末に新たな通知がもたらされる。仮に発見した場合、即刻殺害、と。
動揺はほんの少しだけヴァイスを揺らした。
内通者がいたというのは公開された情報から明らかになっていたことだが、それがまさか伯珂だとは。あの人が良くて面倒見がいい古株であるあの伯珂が。しかもそれがあの征服者の。
事態を受け入れられず動揺するもの、愛着がそのまま憎しみに暗転するもの。反応は様々だ。黄炬は前者だったが、瑶燐は明らかな後者だった。
尋問のため厳重な警備の中に置いたが、それを振り切って逃げ出すとは。警備の中に内通者がいたに違いない。文字通り全員処分してやった。
「…征服者の人間なら殺さなきゃ」
彼らによって家族を奪われた忸王は薄暗い声で呟く。これ以上奴らに楽園を崩されるわけにはいかない。皆に愛され可愛がられる平穏な世界を壊されるわけにはいかない。絶対に。
何のためにここまで苦労したと思っている。ようやく安息を得られる楽園を作り上げたというのに。この楽園が壊される前に、それをなそうとする者は殺さなければ。楽園を崩す者が征服者であるなら。伯珂が征服者の人間であるなら。殺さなければ。
「忸王ちゃん、なんか軽く食べられるもの欲しいな」
「あ、はーい! それならパンが余ってるのでサンドイッチでも作りますね!」
ほの暗い覚悟を呟いた忸王は一転、普段の天真爛漫な態度を繕う。小腹がすいたと訴える団員に明るい声で応じた忸王はキッチンへ身を翻した。
「あのコもおっきくなったよネェ」
その様子を"灰色の賢者"が眺めていた。その正面で黄炬は、はぁ、と困ったように相槌を打つ。
いつも通りに昼食を取っていたらいきなり彼女が現れ、あろうことか相席をしてきたのだ。相席は構わないのだが、彼女が黄炬に何の用があるのかわからない。困惑する黄炬に構わず、"灰色の賢者"はまるで隣の家子供の成長を懐かしむような口調で続ける。
「コドモの成長って早いヨネェ。白槙も50年くらい前は年相応に泣いてばかりだったのにネ」
「…50年?」
は、と不思議そうに黄炬が訊ねる。白槙はどう見ても三十路を過ぎたあたりの壮年だ。実年齢より若く見えるという容貌でもない。むしろ苦労がたたって実年齢より老け込んでいるという可能性のほうがしっくりくる。
それが50年前は年相応に、とは。ということは白槙は今六十路以上か。まさか。そんな年齢にはどう見ても思えない。若く見えるだとかそういう設定を差し引いてもだ。
それにヴァイスは黄炬が生まれる前より存在していた。それが今の地位を獲得したのは、世の中の老人が若者だった時代だ。結成はもっと前になる。
だから白槙はヴァイス頭目の2代目、もしくは3代目くらいだと思っていたのだが。
「あぁ、知らナイ? 魔力持ちはネ、あんまり年、取らナイの」
"大崩壊"で世界のバランスが崩れたからだろうか。"大崩壊"以降生まれ、覚醒した魔力持ちの者は、そこから老化がほぼ止まる。停滞具合は内包される魔力の度合いによるが、外見と中身の年齢が徐々に伴わなくなる。
不老というわけではない。何十年も経てばさすがに老ける。白槙は20歳の頃に魔力に覚醒し、"灰色の賢者"の手引きでヴァイスを結成して今に至る。この間に50年近くが経ち、外見は10年ぶん老けた。
「…じゃぁ一見子供に見える奴も」
「ナカミは年寄りかもネ」
一級の面々の中で一番わかりやすいのは成長期という盛りの時期で魔力に目覚めて老化が止まってしまった水葉だろうか。少年の見た目をしているが実年齢は。
「誰が年寄りですか」
あることないこと言わないでください。会話をひっそりと聞いていた水葉が割り込んだ。
12歳のままで停滞しているとはいえ、完全に老化が止まって久しいわけではない。実年齢を述べても黄炬よりぎりぎり年下だ。やや過ぎた童顔でぎりぎり通る。
「それに覚醒しても普通に成長して年を取ることだってありますし…」
瑶燐がそうだ。魔力の目覚めは彼女がまだ10にも満たない頃。そこから白槙に引き取られて今まで10年少々。時間の経過相応に成長し年を取っている。リグラヴェーダとかいう規格外はともかく、他の面々も順調に年を取っている。
老化が停滞するほうが稀なのだ。魔力持ちだからといって誰もが老けないわけではない。老化が停滞するほど強い魔力を持たなければ止まらない。それが白槙だ。
「成長が止まるなんて例に当てはまるのはリーダーと僕と絖くらいですよ」
空間を自在に生成するという強力な効果を持つ武具を扱う絖は、それに見合う魔力を持つ。彼はヴァイス結成からあの外見年齢のままでいる。梠宵に出会って"犬"となってからはその古株の威厳も台無しだが。
水葉もまた定形を持たない変幻自在の"ドッペルゲンガー"を操るがゆえに強い魔力を有する。武具を複写するという芸当はその複雑さから相応の魔力が必要となる。
「安心してください、どうせ黄炬は老けますよ。姫ちゃんですから」
姫と揶揄されるほど、か弱な存在。扱う武具も大したものではない。にっこりと水葉はそう言い放った。
逃げ出した。だがそこで終わるわけにはいかない。荒廃した世界に君臨する歪んだ人間たちからなる組織を潰さなければならない。殺さなければ。殺さなければ。
だが、それをなす力はもう残されていなかった。あとはもう、残党として狩られるのを待つしかなかった。
それならば、せめて。
「…倒れるなら正面からがいいよな」