無章 存在
彼には名前がない。どうして名前がないのかリグラヴェーダは大して興味がなかったが、彼にとってはとても重大な問題だった。
名前。個を示す記号。名前があることで物事は存在する。ならば名のない自分は存在しないものなのか。否。ここにいる。自分はここにいるのだ。ではどうして、名がないのだ。
その答えを彼は必死に探し求めていた。知識を求め、そしてその過程でたどり着いた世界の真実。扉で固く閉ざされたそれを紐解けば求めていたものがあるかもしれない。そう信じて。真実の到達を阻む扉に爪を立てる。
「リグ姉サン」
そのためなら目の前のこの化物に膝を折ることも媚びることもしてみせよう。彼は悠久を生きる女王にそっと近寄った。
暗い部屋で黒いドレスを纏ったリグラヴェーダはまるで闇に溶けるようだった。そのまま暗闇に紛れてしまうようなリグラヴェーダの白い肌をなぞり顎を掬ってこちらを向かせる。紫の目が真っ直ぐ見据えてきた。それは彼の血反吐を吐きながら地を這うような願いを上から見下ろしているかのようだった。
「オレっちの足掻きを見ているのは楽しいかい?」
「えぇ、とても」
それぞれの懊悩を抱える一級の中で一番努力していないように見せかけながら、その裏で誰よりも足掻いている。それが愛おしい、とリグラヴェーダは笑った。
彼だけではない。誰のどんな足掻きも見ていて楽しい。これだから人間は好きなのだ。いつ終わるともわからない終着点へ向かって報われるかもわからない努力を重ねる姿が好きだ。
「リグ姉サンからすりゃなんだって足掻きなんだろ?」
「そうよ」
彼女の種族の中でも、とりわけリグラヴェーダは長寿だ。"大崩壊"以前どころか、武具というものが生まれた時代よりもはるか昔から生きている。この姿で。頂点で完結してしまった彼女に寿命というものは存在しなかった。魔力というものが世界にある限りいつまでも生き続ける。不老不死といっても過言ではない。
「あの子の足掻きを見ているのが一番楽しいけれど」
「そりゃどういう意味だい?」
あの子とは誰を指すのか。彼の問いにリグラヴェーダが、あぁ、と声をあげる。機嫌が良くて少し口が軽くなってしまったのかもしれない。彼に教えていない情報を与えてしまった。そのせいでこの知識に飢える狼が食いついてしまったではないか。
「……だって、終わるはずがないんですもの」
武具をすべて破壊する。そのためにヴァイスは結成された。だがリグラヴェーダは知っている。それが永遠に叶わないことを。
正確に言うならば、いつか終わるのかもしれないが。だが当代で終わることはまずないだろう。次の世代に引き継がなければならないはずだ。この大陸だか国だかよくわからない無秩序な場所の外にも世界は広がっている。そこにも武具は眠っているしそれを用いる人間もいる。
それらから武具を譲り受け、時には奪い取り、そしてまとめて破壊する。そんなことがいつ終わるというのだ。何百年かかると思っている。
その計画を始めるために準備に1000年近く要しておいて、いざ実行の段階が数十年で終わるわけがない。
「…"灰色の賢者"のことさぁ?」
彼の問いにリグラヴェーダは笑みで返す。こういう反応をする時は彼の質問が正解であったことを意味する。
「終わらないのに、可哀想に」
真っ直ぐ彼を見つめてリグラヴェーダがそう言った。今まで話題にしていた"灰色の賢者"にではない。彼に向かってはっきりとそう言ったのだ。
リグラヴェーダは知っている。名がないという彼に答えを示す方法を。
玖天に聞いてみればいいのだ。ヴァイスの情報管理を一手に担う玖天は、この国だか大陸だかわからない無秩序に住む住民のデータを持っている。
そのデータは出生届と死亡届を基準に管理されている。子供が生まれた時、出生届を政府に届け出る。事故なり病気なり殺人なりで死ねば死亡届を政府に提出する。
政府は壁の中だし、壁にいるということは外界に関わる気などないので政府などあってないようなものだが、形骸化しているとはいえそういう制度なのでそういう手続きを取らなければならないことになっている。
そのデータを覗き見る権利がヴァイスにはある。非公式ながら認可を受けているヴァイスはその情報を自由に引き出すことができる。その権限を持つ玖天に問うてみればいい。自分の出生届は出されているのかと。
出生届が出されているのならそこに名前が記載されている。届けが出されていないということは名前はないということだ。社会から公式に認められた名前がないということだ。社会から公式に認められた名前がないのなら、彼の名前は無い。
無名だの何だのはただの呼び名であり愛称であり仮名だ。リグラヴェーダが集落から出た時に"リグラヴェーダ"と名乗るように。本来の名を無視して仮に取り付けた仮面だ。
そうやって簡単に結論を知る方法があるのにそれをしない。なんだかんだ理屈をつけて名前がない理由を探ろうとする。必死に遠回りをして結論から逃げることで決着がつかないようにしている。
出生届のないお前はただの存在し得ない子。"It"と呼ばれる子だ。名など無い。名など無いから答えなど無い。それなのに答えがあるという、ありえもしない仮初の結論のために理由を探して遠回りをする。
「その足掻きが愛おしいわ」