蛇章 鐘音
からん、とベルが鳴った。
からん、からん、からん。鐘の音は闇に響く。かがり火もない黒い外套の集団が鐘を鳴らし音もなく進む。それはまるで死神の葬列のようだった。
何処からともなく現れ、何処へともなく行く集団。これは彼女の種族が掟に触れる者を処断するための集団だ。各地に散った彼女の種族は、こうして鐘の音を合図に集まる。誰かわからぬように黒い外套で姿を隠し、同胞であることを示す鐘だけを持って。
それに鐘を持ったリグラヴェーダもまた加わった。蛇の女王よ、と何処からともなく囁かれた声が彼女を列に迎え入れる。
「久しきや、久しきや…」
「下がりゃ。蛇の女王のお渡りぞ」
囁きながらしずしずと進んでいく集団は迷彩魔法でもって姿を隠す。武具ではない。武具に刻まれた原初の魔術だ。武具ですら看破はできない。ただ鐘の音が響くのみだ。
はたから見れば何処からともなく風に乗って鐘の音がするだけだ。気味が悪いだろう。だが気味が悪いが故に触れられない。鐘の音を聞く者は、あれに触れてはならぬと本能が忌避する。
「女王が応うとは…」
蛇の女王。それがリグラヴェーダの種族内での異名であった。種としての頂点に到達してしまった彼女は、それゆえに女王と呼ばれる。王位があるわけではないが、頂点に達したことに対する敬意としてそう呼ばれる。
「妹君の死を聞いたぞな」
「いつの話よ。もう1000年以上昔じゃないの」
いくら長命とはいえ、さすがにそれだけの年月は久しい部類に入る。そんな以前の出来事をまるで昨日のように語る黒外套に苦笑する。
彼女の妹は種として完結することを諦め、目の前の幸福に食いついた。頂点に上り詰めるための研鑽を忘れて麻薬のような幸福に溺れ、そして死んだ。その時の冥福を今更祈る黒外套を軽くあしらう。
そんな雑談は今はあとだ。今必要なのは鐘の音を響かせ、掟に触れる者を処断することだ。妹の冥福などその後でいい。
「"黒の香"を持ってきたの。使う?」
「おぉ、"死者香"よりも強力な呪いの薬よ」
せっかく持ってきたのだから使おうではないか。さざめきのような声がリグラヴェーダから薬を取り上げる。
静かに進む集団はいつの間にかとある建物の前に来ていた。この建物の中に我々に仇なす者がいる。
「罰の始まりや、悲しきや…」
掟に触れる者に罰を。触れた者の身体を腐食させるという粉末の劇薬を音もなく撒いていく。風に乗って拡散するそれは、空気の流れに従って建物の中へと流れていく。
「塔刑でないだけましだと思いなさい」
早速効果を発揮し始めたのか、建物の中から動揺の悲鳴が聞こえてくる。阿鼻叫喚と化した施設を黒い外套の集団が鐘を手に取り囲んでいる。からん、からん、と鐘が鳴る。
これが人間ごときではたどり着けない領域だ。この魔の薬学は人間などには作れるはずもない。だから身の程を知っておとなしくしていればよかったものを。下手に高望みをするからこうなるのだ。
思い知れ。身の程を忘れて知識に溺れた欲望の末路を。鐘の音はすべてを浚っていく。撒かれた劇薬は人間だけではなく建物をも腐食させていく。そこにある機材も資料も、何もかも腐らせて無に返す。
「終わり――」
あとにはもう、何も残らなかった。腐食の劇薬はすべてを腐敗させて土に返す。そこにあったはずの建物は住民と機材ごと腐敗に沈んだ。跡形すら残らない。それをなした劇薬で黒く染まった地面が残るのみだ。
その地面をリグラヴェーダが軽く叩いた。土に魔力を浸透させて意のままに動かす。劇薬で染まった表面だけを一箇所に集めて小さな山を作る。それを手ですくって、元あったように小瓶に戻す。当然手は腐るが、彼女の人並み外れた回復能力が活動を可能にする。手が腐り落ちてしまう前にすくいきってしまえばいいのだ。
腐敗に触れ、ぼろぼろになった手で小瓶の封を閉める。それを懐にしまい、裾についた土を払う頃には彼女の手はみずみずしい女性のものに再生していた。
「戻りゃ、戻りゃ…」
闇に鐘の音を響かせて、黒い外套の集団は来た道を戻る。鐘を合図に集った集団は鐘の音を別れの合図にして散り散りになっていく。
リグラヴェーダもまた集団から離れ、拠点に戻る。自分で転移魔法を展開して薬局へと帰る。黒い外套を脱ぎ去り、帰還した旨を白槙に通信端末で伝える。
それらすべてが終わった頃、ふぅ、とようやくリグラヴェーダは一息ついた。これでひとまず、今回の征服者関連のことは片付いただろう。頭目は白槙が殺したし、"零域"の開発者はこうして処断した。この処断にヴァイスが関わっていないので何人かは消化不良感をおぼえるだろうが、種族の掟のことをどうこう告白する気はないので、リグラヴェーダがこっそり闇に葬ったということで納得してもらおう。
残る後始末は各地にいるかもしれない残党の処分と、襲撃されたことで破損した拠点施設の復旧と失った人員の補充だがどれもリグラヴェーダの範疇ではない。
あとはリグラヴェーダはじっと傍観していればいい。人間の努力を眺め、それを愛しいと思いながら。
「ドコ行ってたんさぁ、リグ姉サン?」
この知りたがりのやんちゃ坊主の相手でもしながら観客席から眺めていよう。そう思いながら、リグラヴェーダは来客を出迎えた。