弑章 忘却
火葬場からたなびく煙を眺めながら、ぼんやりと霜弑は思考していた。
以前にもこういうように煙を眺めていた覚えがあるのだ。身内、あるいはそれに近い親しいひとの。誰だったか、それが思い出せない。
記憶喪失というわけではない。物心ついてからのことはしっかり覚えている。殺人が呼吸と等しい行為の世界で日々を繋いで生きてきたことをとてもよく覚えている。だがその記憶は途中で霞がかったように途切れている。気が付けばヴァイスにいて、気が付けば捌尽の隣にいた。だが、そこに至る過程がすっぽり抜け落ちている。
どうして忘れてしまったのだろうと、それを思い出すことを霜弑はしなかった。きっと何か理由があって忘れたのだ。忘却というものは心の防御反応だ。自らが傷つくことを防ぐ手段。それを取り払って傷を抉ることなどしてはいけない。してはならないから忘れたのだ。
忘れたままだからといって不自由などしていないのだから問題ない。それならば忘れたままでいよう。問題が起きたのならその時だし、今は何一つ問題など起きていない。だから記憶を凍結させたままで構わない。
そう、これでいいのだ。現在も過去も未来も。このままでいい。凍った記憶のままでいい。その氷を溶かしてはいけないのだと霜弑は思っている。
「霜弑。何考えているの」
僕以外のことを思考してはだめだよ。囁く声に思考を放棄する。抱き締めてくる腕に身を預けた。そうして何もかも捌尽に預けていく。意思も感情も。すべて凍らせて、殺す。
そうなるようになったのはいつからだろう。そうするようになったのはいつからだろう。そんな思考すら、もうどうでもよかった。
「捌尽…」
縋るように抱きしめる。これが歪んでいると瑶燐に吐き捨てられても構わなかった。歪んでいて結構。何が悪いというのだ。瑶燐には何も関係がないではないか。関係ないことに首を突っ込んでおいて罵る方が歪んでいる。
そもそも瑶燐とて人のことなど言えないではないか。ヴァイスのためなら手段を選ばない。その狂信の何処に歪みがないというのか。
「捌尽」
「なぁに?」
愛してる、と言いかけて止めた。ここにあるのは愛ではない。支配と依存だ。ただの妄執だ。愛などという単語は似つかわしくない。
「俺には、お前しかいないんだ…」
「そうだね」
それでいいのだと捌尽が微笑む。あぁ、これでいいのだ。このままでいい。歪んだままで構わない。捌尽さえいてくれれば。
縋る霜弑を抱きしめた。これでいいのだと何回も繰り返す。呪いのようだと捌尽は自嘲した。
実際に呪いのようなものだ。ひたすら繰り返して吹き込んで染め上げていく。それ以外のすべてを取り上げて捌き尽くして。
自衛のために記憶を忘却に投げ込んでしまった霜弑の、空っぽの部分に捌尽は寄生する。そこからすべて侵食していく。
「霜弑」
霜弑は知っているだろうか。これが実験ということを。殺しが日常の世界で愛も知らず育った捌尽の、愛情というものの証明の実験台であることを。
覚えているだろうか。過去、愛ゆえに壊れかけた霜弑へ、愛情というものを知らない捌尽が迫ったことを。
どちらも知らないだろうし覚えてもいないだろう。それらは取り上げてしまったのだから。残っているのは愛のかたちを知るものの満たされていない空虚な器。そこで行われる愛情存在証明実験。
それらを見抜いている瑶燐には歪んでいると罵られてしまった。実験には関係ないことなので聞き流してはいるが。
「愛してる」
しれっと言ってのける。ここにあるのは愛ではない。実験と実証だ。ただの証明だ。愛などという単語は似つかわしくない。
「僕は霜弑がいなきゃだめなんだ」
愛とはなんだろう。彼の者が自分の所有物であるという独占欲だろうか。本能的な縄張り意識に近いものだろうか。その実験のためにこういう態度を取っている。
違うというならまた別の仮定に基づいた態度を取るだけだ。それも違えばまた別の推測を試す。霜弑というもので延々と実験してやるのだ。
愛というもののあたたかさを知ればこの凶暴な殺意も止められる。忘却に投げ込んでしまったが、過去、霜弑は捌尽にそう言った。愛情で満たされれば凶暴な殺意も止まる。偉そうにそう言っていたのはいつの話だろう。
ヴァイスに来たばかりの時の話だ。その時霜弑には恋人がいた。女性のだ。安息のない荒れた世界から愛という安息を知った霜弑はやたら愛情について過信していた。この荒廃した世界を止めるには愛というものが必要不可欠なのだと言っていた。だからこそ、愛を知らない捌尽が愛を知ればその凶暴性も止まると信じていた。
それならば愛を証明してみろ。殺意を止めてみろ。そう迫って彼の恋人を斬り殺した。"徒桜"の最初の犠牲者だった。
自らの過信で大事なものを喪ってしまった衝撃で霜弑は壊れた。自分が間違っていた。愛ごときでは何も救えないと絶望して壊れてしまった。自己否定を繰り返し、忘却に忘却を重ねて残ったのは霜弑というかたちの空虚な器。
それを利用して愛情の存在証明の実験を始めた。まだ実験は終わらない。だから実験に必要ないものはすべて取り上げる。あんな女がいたことも、ことの発端も忘れさせる。忘れたままでいさせる。
「愛してるよ」
このままでいいのかと、時折ひどく不安そうな顔をする霜弑にそう言う。これでいいのだ。このままでいい。歪んだままで構わない。愛情という存在の証明の実験さえできるのなら。




