休章 隠者
「ボクは人気者だからネ、一箇所に留まれナイんだ」
"灰色の賢者"ともあれば訪ねる人は多々いるだろう。力か知識か、その目的が何であれ人々は彼女を求めて殺到する。それから逃れるため、彼女は世界を旅しているという。
「セカイにはイロイロあるんだヨ。1000年旅シテも飽きナイ」
はるか昔、"大崩壊"以前よりもずっと昔だ。名も無き小さな村が一晩にして化物あふれる村になった。その村は閉鎖され、化物はその地域を治める大国が大きな犠牲を払って掃討した。その化物の存在は伝承となり、当時の親が子供を脅しつける文句となった。いい子にしてないと狼頭の化物がやってきて食べちまうからね、と。
そんな脅し文句も使い古され忘れられ、時間の波に消えたある日。繁栄を極めた大国にその化物が現れた。何処から現れたのか、その化物は一晩であっという間に食い尽くし、国を飲み込み滅ぼした。国境を接する隣国同士が協力して封鎖し、滅びた国の中に閉じ込めた。
国境は厳重に封鎖され、何代もの治世者が厳しく管理していた。"大崩壊"を越えてもだ。
「そのバケモノの国の封を解こうって300年振りにネ」
"大崩壊"によって荒廃した世界で生きるには共通の敵が必要だった。だから敵を作り上げるために、昔に封鎖した国境を越えて化物を征圧しにいこうと。そういう大プロジェクトがあったのだ。
この荒廃と貧困はあの封印された国のせいだと、広告によってすでに刷り込まれていた人々はこの計画に熱狂した。数多の志願兵が兵舎に列を作った。
「オモシロカッタよ」
"大崩壊"があった時点ですでに化物たちは死んでいた。いや、すでにもう国境を封鎖した当時から絶滅していたのかもしれない。
何もない、誰もいない土地を虱潰しに探しながら、いない敵を探して血眼になっていた。敵などいなかった。やはり本当の敵は隣の国だと戦争になった。その戦争も終結して長く経つ。
その国は戦争と和平を繰り返して今に至っている。たかがひとつの国だけでこれだけ語れる。この世界にはいくつもの国があり、その分歴史がある。この国だってそうだ。いくつものエピソードがある。それらをすべて語るには何日費やさねばならぬだろう。
「そうなんだ。……おっと」
ぴぴ、と黄炬の通信端末から通知が鳴る。どうやらぐだぐだと怠けている時間は終わりらしい。
呼び出しに応えて立ち上がる。それに倣って"灰色の賢者"も立った。
「おシゴトがんばってネー」
ひらひらと"灰色の賢者"は手を振った。そのまま彼女は転移装置に振れる。かちん、と光った装置は彼女を20階へ連れていく。それを見送り、黄炬も転移装置に触れた。
忙しそうな医局に比べ、こちらは静寂に満ちている。というより医務室が騒々しい。
何やら悲鳴と絶叫と鞭の打撃音が聞こえるのだが、いったいあの診察室では何をしているのだろうか。梠宵の過激さを知らない彼女は不思議そうに首を傾げた。
気になるが、用事はこちらだ。闇に潜むような重く静かな一角。ほんの少し血なまぐさい。そっと彼女は薬局の扉を開ける。からん、とベルが鳴った。
「やっほー。ヒサシブリ」
「…あら、いらっしゃい」
闇に溶けるようなドレスをまとったリグラヴェーダが何やら鍋を木の杓でかき回していた。赤黒く粘った液体は熱せられて、ぼこりと泡を立てていた。
いったい何を作っているのやら。聞きかけて止めた。どうせろくでもないものだ。
「手を貸したんですって?」
「お手本を見せたダケだヨ」
神を呼ぶにはこうするのだと手本を示した。最初から最後までお膳立てをしたわけではない。最後の取りこぼしを拾っただけだ。そんな主張にリグラヴェーダは肩を竦める。
「身内に甘いのは如何にかした方が良いわよ」
なんだかんだ理由と言い訳を並べて正当化して全肯定する。その甘さが"灰色の賢者"にはある。だからこそ招いた悲劇がある。何が賢者か。愚者極まりない。
「身内に甘いのはキミんトコロもデショ」
彼女の種族の掟を指す。絶対門外不出の種族であるが故に、少しでも表舞台に引きずり出されそうな同胞がいれば全力で阻止する。そのために村ひとつ、ひいては国ひとつ化物の闊歩する地獄に変えることも厭わない。
「まったく……それで、何か御用かしら?」
「んんー、ちょっと気になってネ」
気になること、というのは"零域"のことだろう。人を狼頭の異形に変える新薬。過去、彼女の種族によって狼頭の化物が闊歩する亡国になった地域。これらを繋げて考えてしまうのは仕方のないことだろう。
まさか、これらを仕組んだのは。そう思ってしまう。彼女の危惧にリグラヴェーダは首を振る。
「あんな紛い物と我々の"獣王の角"を一緒にしないで頂ける?」
あのようなものと同一視されては困る。一見似ているようで中身はまったく違う。
「デモ、ガワは似てたヨ?」
"零域"はそれそのものではないが、それを目指して作られたものだ。それはそのうち本物に迫るだろう。その時、絶対門外不出の彼女の種族はどう出るのだろうか。
「あら、そんなの決まってるわ」
リグラヴェーダは笑う。歴史の影に隠れるものを引きずり出すというのなら、引っ張り出そうとしてくる手を叩き切るだけ。
白槙はどうやら征服者の首領の首しか狩れなかったようだし、それに手本を示した彼女も"零域"の開発者まで殺せたかどうかはわからない。おそらくあの場から逃げ延びているだろう。そして新天地で開発研究を勧めているに違いない。
「まぁでも、その時は近いかもしれないわね」
からん、とベルが鳴った。




