断章 始動
彼もまた爆音を聞いた。
「あーららぁ、始まったさぁ」
困ったように彼は頭を掻く。その口調や動作に慌てている様子は一切ない。必ず返り討ちにすると信じているからだ。玖天や梠宵、絖や忸王が、ではない。リグラヴェーダだ。彼女がその長い時で培った魔力は強大だ。一瞬ですべてを開放すれば拠点もろとも、否、この国の半分程度なら容易く消せるだろう。
それほどまでの強大な魔力がある。だから大丈夫だ。それは絶対の信頼。
「それに、アンタもいるさぁ」
振り返った彼の視線の先には。
「ボク? ボクはヴァイスにナニもしないヨ」
"灰色の賢者"がいた。
「しっかし、驚いたさぁ」
いつものように任務に出て標的を片付けていたらこの通り。いきなり背後から呼ばれ、振り返ったら彼女が、"灰色の賢者"がそこにいた。神出鬼没なのはいつものことなのでそこは突っ込まない。
「へぇ、キミが驚いただって? ジョーダンじゃナイネ、キミにそんな感情あるノ?」
賢者は嘲りのように口端を吊り上げる。名もなき彼はその名を体現するような生き方をしている。感情も思惑もすべてを笑みの下に閉じ込め、雲のように掴みどころなく存在している。
真実を持たない。それ故に真実を求める。失った名を取り戻すかのように、彼は知識を求めた。
世界の真実、"大崩壊"の真相、"灰色の賢者"の素性。ありとあらゆる知識を求めた。その過程でリグラヴェーダが亜人であることも知った。
そしてその結果、彼はこうして賢者に近付くことができたのだ。
「なぁ。そろそろ教えて欲しいんさぁ」
彼は賢者に近付いた。だが、そこまで。真実はまだ賢者によって閉ざされたままだ。あと一歩で彼はすべてを知られるというのに。
「リーダーとアンタの関係、そろそろ教えてくれたっていいさぁ?」
白槙と賢者の間には何かある。それが彼の読みだった。でなければわざわざ力を貸さない。
はるか昔に失われた転移装置の機構を組むなどしない。転移の技術は"大崩壊"の魔力の環境変化によって失われた。それを今の環境に合わせて作り直すなどと、何年もかかるだろうことを賢者は白槙のために行った。その手間を惜しまなかった理由は何だ。
彼の疑問に、賢者はへらりと笑う。
「ナイショ」
悪戯っぽく笑って、左の人差し指を口元に当てる。どうやらまだ教えてくれる気はないらしい。
彼は仕方なく追及を諦めた。深く突っ込もうとすればするほど賢者は口が固くなるということを今までの経験で知っている。
「あ。デモ、ひとつ教えてアゲルヨ」
口元に当てて秘密と示した人差し指をぴんと立てて1を示す。
珍しいことだ。彼女がそんなことを言うなんて。彼は思わず身を乗り出した。
「ボクはヴァイスにナニもしナイ。…ケドネ、白槙にはナニかしてアゲル」
意味深に呟いた賢者は立てた指を2に変える。
「アト、2時間、ネ」
そう言うと賢者はぱちんと指を鳴らす。瞬間、彼女の姿は消え失せた。転移魔法だ。
たったあれだけの動作で空間転移をやってのける。その実力に彼は舌を巻いた。まったく、とんでもない。
「さぁて、俺っちも動くさぁ」
まずはこちらだ。着信を示す振動を続けている端末を取る。
「あいあいー。何さぁ?」




