任務 終点
過去の"零域"は大量摂取しなければ異形に変わらなかった。ただの肉体強化薬だったからだ。決められた用量内なら薬は自然に分解され後遺症は残らない。
だが、それではだめなのだ。圧倒的な力を持つヴァイスに対抗するためにはそんな安穏とした用法ではだめだった。異形にならなければならなかった。そのために大量摂取が必要ならばそれを濃縮して一錠にすればいい。
そうして作られたそれは彼らが現代の文明の力と信じて疑わないもの。過去の遺物である魔法を凌駕すると信じているもの。
「…あれを知ってなお、"零域"に手を出すか」
一度潰された夢を見て、愚かにもまた繰り返すのか。人の形を捨ててまで。愚かしいことだ。仲間を食らう異形の姿を見て、霜弑は吐き捨てた。
「…"ラグラス"」
再度大剣を床に突き立てる。冷気が空気中の水分を凍らせ鋭い氷柱を作り出す。そして氷柱を異形の頭蓋と心臓に突き刺した。どす黒い血が飛び散った。その間わずかに数秒。
「あれって…」
「…"零域"と呼ばれる薬だ。人を異形に変える」
状況に知識が追いついていない黄炬にそう説明する。大量摂取がどうだのは説明するだけ無駄だろう。どうせ黄炬は覚えられやしないし、奴らはそんな段階などすっ飛ばしているようだから。
「…油断するな。あれくらいじゃ死なない」
すぐに立て直してくるぞ、という霜弑の忠告は怒りの咆哮で掻き消された。急所を氷で貫かれてもなお立ち上がる異形に驚いた様子の黄炬に、化物だから当たり前だ、と返す。
「現実離れしすぎだろ!」
冗談じゃないと黄炬がわめく。それならどうやって倒せばいいのか。
「…黄炬、お前の武具は何だ」
多少傷つける程度では無理だというなら、灰まで燃やせばいい。白い炎で飲み込んでしまえ。外れた肩を庇いながらゆっくりと立ち上がった黄炬に火球を作るよう請う。燃やせ、という言葉に従って創生される火の玉。異形へと着弾した。炎が爆ぜる。すべて灰燼に帰した。
今更嫌なことを思い出した。帰りの道中で黄炬はようやく理解が状況に追いついた。
やれ、と言われて素直に従って、向かってきたから反撃をして。そしてその結果、人を殺してしまったことを。"零域"とかいう薬で化物になったあれは人間のうちに含めないとしても、何人殺してしまったのだろう。また、どれだけ犠牲にしたのか。
「…甘いな」
ぽつりと霜弑が呟いた。甘くて甘くて生ぬるい。殺さなければ殺される。ここはそういう世界だ。殺したことを後悔している暇などない。
「なんで」
そう平気なんだ、と言いたげな黄炬に答える。そんなことを言っていられる環境で育っていないから、と。彼の生まれ育った場所は黄炬の生まれ育った362-5区画よりも外周の位置だった。この国は外周に行けば行くほど治安が悪くなる。外周ぎりぎりの場所で生まれた霜弑にとって、殺人は呼吸に等しい行為だった。
「その汚泥の日々から救ってくれたのが…」
「捌尽さん?」
「……いや…」
誰だったろう。もはや名前も顔も覚えていない。汚泥を啜る日々からすくい上げてくれたのは誰だっただろうか。ぽっかりと空いた空虚な記憶。
「…なんだったかな…」
虚無感の代わりに根を張る執着の愛。愛で絡められて虚ろな記憶は事実を歪める。目を閉じ耳を塞ぎ五感のすべてを奪う執着は根深い。
思い出せない記憶。だがそれでいい。忘れたということはさほど大事でもないのだろう。
「…俺は捌尽さえいればいい…」
絡みつく愛で締め潰してくれれば。




