序章 幻惑
「はい、ストップですよ」
割り込んできた少年が瑶燐を止める。完成しかけていた詠唱が中断したことで魔力が霧散した。動力を失ったことで装置も止まり、武具が沈黙する。
「常時発動系以外での武具の発動は禁止。ついでに喧嘩もご法度ですよ」
緊急時以外で拠点内での魔法の発動は禁止だ。常時魔力を注ぎ、発動し続けないといけないようなものを除いて。それがヴァイスの規則だった。そうでなければ魔力持ちとそれ以外で絶対的な溝が生まれてしまう。争うのは結構だが、争うなら己の肉体のみでだ。それを破れば罰として半年ほど無給で働くことになる。
だめじゃないですか、と咎めたのは声変わりを迎えるかどうかの少年だ。黄炬に弟がいるならこれくらいの年齢だろう。眉にかかる程度の山吹色の髪の下の黒い瞳がきりっと瑶燐を睨む。
「だめですよ」
「…わかったわよ」
瑶燐は舌打ちして目を逸らす。ひとまずおさまったようだ。これで給料は守られた、と同僚の無給を心配していた霜弑は心中で安堵の息を吐いた。
「瑶燐もですけど捌尽もです」
「えぇ? 僕も怒られるの?」
何もしていないのに、と捌尽は口を尖らせる。自分の歳の半分程度の少年に叱られるだなんて。
確かに挑発はしたが口だけだ。それに乗って武具発動までして吹っかけてきたのは瑶燐で、咎められるなら瑶燐だけだろうに。
「しようとしていた時点で同罪ですよ。刀、抜こうとしてましたよね?」
「なんだ、ばれてたんだ?」
悪戯が見つかったのを誤魔化す子供のような笑みで腰に提げていた刀から手を離す。愛しい恋人を抱く腕の影でそっと抜刀しようとしていたのだ。
「あら、抜こうが関係ないわ。"あらゆる攻撃は私には届かない"んだから」
自信満々で瑶燐が笑う。その意味ありげな言葉の真意を黄炬が知るのはずっと後のことになる。だがそれより、忸王、早く帰ってきてくれ。切実にそれだけを思う黄炬である。
「茶番は置いておいて」
ごほん、と咳払いをして少年は黄炬に向き直る。
「五級統括。水葉といいます。これからよろしくお願いしますね、黄"姫"」
少年特有の無邪気さの笑みを浮かべる水葉は明らかにわざと間違えた。世間を知らない子供が礼を欠くように悪びれもせず堂々と。
たかが少年のなりではあるが彼も一級なのだ。あの面々に並ぶだけの実力があり、そして性根がある。
「黄姫、かぁ。じゃぁ姫ちゃんだね」
捌尽がとどめの一言を発した。
ことごとく一級にまともなやつがいない。唯一の良心は忸王くらいだと新入りが嘆くのはいつものことだが、しかしそれにしたって初見で圧倒することないではないか。年下の少年に馬鹿にされ、さらには年上からとどめを刺される黄炬を見て霜弑は今日何度目かの溜息を吐いた。かわいそうに。
「瑶燐さん! 水葉くん!」
そこでようやく忸王が戻ってきた。黄炬にとっては救いだろう。
感極まって泣きそうな表情の黄炬を見て、忸王は今まで何があったか察したようだ。霜弑とふたりにさせるのはまずかったかもしれない。おおかた霜弑と話す黄炬を見て捌尽が割り込み、通りがかった瑶燐が喧嘩を売って水葉が止めた。そんなところだろう。
「捌尽さんも。皆お揃いだね」
全員の目的が黄炬であるから実現した集合だ。釘を差したり馬鹿にしたりただの挨拶だったり、黄炬への目的はそれぞれのようだが。
「やぁ忸王。姫ちゃんの案内は順調?」
「うん。皆にここで顔合わせできたんなら後は無名さん紹介して、明日はテストついでに絖さんと顔合わせかな」
ところで、と忸王が首を傾げる。
「姫ちゃん、って何?」
名付けた水葉本人から由来を聞いた忸王は盛大に吹き出した。
「…笑うなよ」
「ごめ…っ、でも、あはは…」
馬鹿にされるわ笑われるわで不貞腐れる黄炬と、呼吸の仕方を忘れそうなほど笑う忸王。それらを見る水葉はこの愛称を正式に採用しようと心に決めたし、捌尽は正式に採用しそうなこの愛称で呼ぶことを決めた。勝手にしてくれと霜弑が溜息を吐き、徹底的に遊ばれる黄炬を瑶燐が憐れみの目で見ていた。
「はぁ…お腹痛い…」
ようやく笑いの波がおさまったようだ。忸王が目尻の涙を拭ってひと呼吸。
「…忸王、止めてくれ」
「はぁ、ふぅ……ごめんね、注意ぐらいじゃ止まらないと思うよ」
その程度で止まる常識人は一級にはいない。恐らく水葉によってこの愛称は一級の面々に広められるだろう。そのうち何人が実際にそう呼ぶかは知らないが、忸王は呼ばないでおいてやることにした。
「明日腹筋が筋肉痛になったら水葉くんのせいだからね。……あ」
忸王が雑踏の中にとある人物を目敏く見つける。
ちょうどいい、最後の一人だ。忸王は彼を呼ぶことにした。




