序章 凍天
「忸王は?」
食券をカウンターに置き、彼は忸王の姿が見えないことに気が付いた。
あの一癖も二癖もある一級の面々の中で唯一の常識人はヴァイスの台所の象徴だ。店長でもあり看板娘でもある。
それがいないのだ。珍しいことに。
「忸王ちゃんなら新入りの世話ですよ」
各施設への案内と紹介をしているのだと、忸王の代わりの給仕係が答えた。
新しく加入した人間がいる。しかも魔力持ちという。魔力の目覚めによって大事故を起こしてしまったが、今は比較的落ち着いて説明を受けているという。
「案内が終わったらそのうち戻ると思いますよ。…はい、注文の食事です」
どうぞ、と渡す。いくつかの皿が載った盆を無言で受け取った彼は適当に空いた席へと座った。それと同時に周囲が席を立つ。そそくさと去っていく周囲をよそに、彼は一口目を口に運んだ。
「ここが食堂。券売式のね」
それだけで伝わってしまうほどのわかりやすい食堂らしい食堂だ。説明などそれだけでいい。
食堂と聞いて思い浮かべる光景がそのまま目の前に広がっている。規模が大きいだけであとは何も変わらない。
聞けば、ヴァイスに所属する人間は皆ここで食事を摂るという。一級も五級も関係なくここに来る。故に上層部へのつながりを作る足がかりの場にもなる。
この場では階級などあまり関係ない。争いはご法度だがそれ以上の規則があるわけでもない。一級の面々に気軽に話しかけても許される。あの面子と渡り合えるならの話だが。
「本当は給仕の人は後でご飯を食べるんだけど…今日は給仕じゃなくて案内だし、一緒に食べようかな。私が席を取っているから、黄炬くんはご飯取っておいで」
食事時で盛況な食堂を切り盛りするのに忙しそうな部下たちを見、内心で謝りながら忸王が言う。
本来ならこの時間、忸王はあそこで注文をさばいている。忸王が欠けた負担がずっしりと重そうだ。間違えないようどうにか食事を配膳する姿に心を痛めるが、今は案内の任務の真っ最中なので部下たちには頑張ってもらうしかない。
「あれ。忸王ちゃん?」
忸王の姿を認めた数人が疑問を口にする。いつもならカウンターの向こうで看板娘となって働いているのに、どうして、と。
「うん。今は案内のお仕事中なんだ。だから皆、あんまりキッチンの人たち困らせないでね?」
お願いね、と可愛らしい少女のお願いに皆が頷く。このヴァイスの良心を悲しませるような真似はしてならないというのがヴァイスの不文律であった。
殺到する注文に慌てふためいている給仕の女性に差し出される注文の件数が減った。注文が違うと怒鳴り散らしていた男の怒号が引っ込んだ。
食事が来るのが遅いと文句をつけていた女が、好きなだけ遅れなさいと言い出した。
忸王のお願いひとつでこれである。どれだけの人望があるかわかる。
「ありがとう。…皆! 今夜はお客様としてチェックするからね!」
客の視点に立った監査だと思え。そう言う忸王の声に、はい、と部下たちは頷いた。
券売機で発券し、カウンターに出して番号札を受け取り、番号札と引き換えに食事をもらう。極めて単純でわかりやすいシステムだった。
もっと複雑な形式かと思ったら全然そうではなかった。券売式の食堂と言われてそれ以上説明が不要なほどの単純さであった。
利用する人数のぶん規模は大きいが、大きいだけで何も変わらない。
なんとか無事に夕食を手にした黄炬が雑踏の中に忸王を探す。人を惹きつける少女だ。人の輪の中心を探せばいるはず。
視線を走らせると、それらしき輪が見つかった。話しかけたくても話しかけられない、そんな雰囲気の輪の中で男と談笑している忸王がひとり。
「あ、黄炬くん」
こっち、と手招きされる。素直にそこに向かう。これが新入りか、という周囲からの視線が黄炬を撫でた。もう慣れたものなので適当に会釈しておく。
忸王が談笑していた相手は、黄炬よりもいくらか年上の青年だった。話している雰囲気からして、年齢差はあるが相当親しい間柄のようだ。
「紹介するね。三級の総括の霜弑さん」
その名の通りの冷たい鉱石色の目が黄炬を見据える。視界を阻害しないように流した灰色がかった銀髪の髪は、邪魔にならないように髪留めで左の前髪だけを留めている。
首元までしっかりと締まった襟と長い袖で体の線は見えにくいが男としては華奢な方に入る。あまり活発でないのか、肌は氷のように白い。
霜弑と紹介された青年はしばらく品定めするような視線を黄炬に注ぎ、やがて、不意に逸らす。よろしくお願いします、という黄炬の挨拶も目で応じただけだった。
「総括?」
「そう。三級を総括する人。リーダーみたいなものだね」
ヴァイスは縦に2つの勢力に分かれる。任務をもとに実際に活動する実働部隊。そして後方支援として拠点の運営を行う勢力だ。
掃除夫から事務員、調理師、雑用諸々。魔力を持たないものは五級として振り分けられて働く。小さな街に等しいこの拠点で生活を形作る。階級としては一番下だが、彼らを残ってはヴァイスは立ち行かない。
「で、魔力持ちは実働部隊として働く。一から四級まで格付けされてね」
そして目の前のこの気だるげな沈鬱な青年は三級の者たちをまとめあげている。いってみれば三級の責任者だ。
そう説明しながら忸王がコップの結露を指につけて水滴で机に図を描く。が、話すほうが早くて中途半端な図になってしまっていた。
「ということは他の階級も統括する人がいるってことか?」
「そういうこと。一から五まで。そして私や玖天ちゃんや…それぞれの施設の責任者。その十人が一級なの」
そして頂点に白槙を据える。それがヴァイスの構成だ。
幹部である一級より下は手足だ。そして五級はその手足を動かすための部品。それだけの人数でこの街の秩序を管理している。
「実働部隊の側の一級の人たちはそのうちご飯食べにここに来ると思うから…そしたらその時に紹介するね」
魔力を持たない五級担当はともかく、一級から四級まで統括者の誰かは魔力持ちである黄炬の直属の上司になる。黄炬が一級になることはまずないだろうが。
それが来るまではのんびりここで談笑でもしながら食事をしていよう。そういえばまだ忸王は食事を取りに行っていない。行ってくるね、と忸王は席を立った。
監査が来たぞ、と茶化すような声に調理場に程よい緊張が走る。
後には黄炬と霜弑が残された。周囲は何故か遠巻きの輪を作っている。霜弑を避けているようだった。
上とのつながりを作るために上層部の人に話しかける人もいるとさっき言っていた。それを実行する人がいない。一級とつながりを作ろうという人間はいないのだろうか。それもそうだ。あんな連中と渡り合いたくはないだろう。黄炬も願い下げである。
だが黄炬は今後のために聞いておかねばならない。一級の誰かは直属の上司になる。どんな危険人物と当たるか知っておきたい。
「あの、他の一級の人たちって、どんな感じなんですか?」
瑶燐は一級だと名乗っていた。施設の案内の時に出会わなかったから彼女は実働部隊の側なのだろう。彼女も黄炬の上司候補だ。
その瑶燐と一緒にいたよく名前の変わる男もおそらく実働部隊側。つまりあれも上司になるかもしれない。
きちんと知っておかねば黄炬の安全に関わる。どうかこれ以上とんでもないものが出てきませんように、と願いながら質問した。
「そうだな…」
同僚をどう説明したものか。霜弑が考えながら口を開いた矢先。
「僕の霜弑に何してるの?」