旦那様は神様。
マナのオアシスを挟むように、東側と西側に小高い砂の丘がある。
ほぼ、山。
オアシスから見えるのは両側の山の中腹で、片方の山の山頂へ登ったところでオアシスの反対側にある山が遮り、まるまる地平線を見渡すことは出来ない。
今、その砂の山と山の間、オアシスがある場所に高々とした水の山が出現していた。
頭上へ押し上げられるように急流に押し流されながら、セアラはマルテを抱いたまま水の山の『山頂』の水面へ顔を出した。
顔を出し、ぷかぷかと浮かびながら景色を見た。
水の山の山頂からの眺望は360度が全て砂漠が続く夜明けの地平線で、地平線に覗いた太陽の光が眩しい。
セアラは一瞬、朝陽の眩しさに目が眩んだが、はっと水底を覗き込んだ。
マナは!?
光の届かない水底は暗く、透明度の高い水の底に微かにオアシスの街並みが見えるだけだった。
泣きそうになるセアラへ慌てた様子のマルテが、
「セアラ!あれ!」
オアシスの南を指差した。
砂漠に隊列を組む兵の列がオアシスの目前まで迫っている。
騎馬も歩兵もそれなりの数が居るのは確認できた。
遠目に、旗手が掲げてひらめく旗に見覚えがある。
最近それを見たのは王都ブラキカムだった。
賊はイレット王の手の者なの!?
ここでセアラは何が起きたのか察した。
税を取るとは言われたが、オアシス丸ごと取りに来るような真似をするとは、と驚く。
本気か脅しかはわからないけど、さすがにこれはやり過ぎだわ
セアラが南から来る兵の姿をしっかりと認めた直後、マルテを抱いたままのセアラの体が水面へ吐き出された。
すとんと水面に座り、そのまま水の斜面を勢いよく下り始める。
降りていく方向はオアシスの南側、兵が迫る方向だった。
二人はぎゅっと抱き合って、言葉にならない声で絶叫しながら滑り降りて行く。
一呼吸の絶叫が途切れて息継ぎをする瞬間、セアラの耳にはたくさんの絶叫が届いて来た。
はっと周りを見ると、そこら中でオアシスの住人が水面を滑り降りていた。
住人どころか家畜やオアシスに棲みついている生き物はすべて水の外へ吐き出されているらしい。
絶叫する人やラクダ達がそこら中で押し流されて行く。
もはや、カオス。
セアラの少し離れた位置を滑り降り降りる女の姿に見覚えがある。
斬られた使用人だった。
流されるままに滑り降りていて、体を動かすそぶりはまったく無い。
無いが、使用人の体の状態にはっとした。
右肩から右脇腹と右腕が氷漬けになっている。
まさか
セアラが体を傾けて手を伸ばし、使用人の体を掴まえようとすると、セアラの体が使用人の方へ滑り寄って行く。
少し勢いよく滑って行き、使用人にぶつかりながら掴まえてみると、失血で顔色は紙のように白くなっているが彼女の息があった。
マナが止血したんだわ
ほっとして、彼女の固まっている腕の氷に触ってみるが、不思議とまったく冷たくないし溶ける気配もない。
マナが何かしたのは判るが、肝心のマナがどうなっているのかわからない。
深々と刺される所を見てしまった。
刺された直後にマナの体が弾けて飛び散ったようにも見えた。
周囲が現れた水に瞬時に水没してしまったので、マナがどうなったのかまったくわからない。
思い出してセアラの体が硬直した。
無言のセアラの腕に力が入り、セアラが抱くマルテが不安げにセアラへ抱き着き返す。
「セアラ・・・。」
勢いよく滑り降りる風がセアラの耳を擦る音に混じり、マルテの細い声がセアラに届く。
セアラはずぶ濡れになりながら押し流されて水の山肌を勢いよく滑り続けたが、山裾へ辿り着く辺りで急速に速度を落とし、ふわりと砂の上へ降ろされた。
続けて水の山の内部から吐き出されたオアシスの住人や家畜達も、次々に水の山裾へ無事着地した。
山裾の周囲では、少し水を飲んでしまった者達がそこかしこで咳き込んでいたり、無事に辿り着いた者も立ち尽くして水の山を仰ぎ見ている。
高い。
皆が呆然と遥か彼方に水の山の頂を仰いでいた。
セアラも呆然と水の山を見上げていたが、ハッと我に返り、マルテを砂の上へ降ろして水の山へ引き返す。
山裾の水の中へ腰までざぶりと浸かり、屋敷へ(マナの元へ)戻ろうとするが、深い水が進路を塞ぎ前に進めない。
水の中へ目を凝らしても、オアシスの外周にある土塁の壁がかろうじて見える程度で水没しているオアシスの街の中がどうなっているかなどまったく予想もつかなかった。
マナの元へ行きたいのだが、
何もできないなんて
子供のように半べそを掻きながらそこへ立ち尽くして居ると、セアラの背後でマルテの声が上がった。
「母さん!こっちだよ!」
「みんな無事かい?」
オアシスの住人の安否確認に回るマルテの母シアが、飛び込んできたマルテを抱きしめた。
セアラはシアの声に反応して勢いよく振り返り、
「シア!マナが刺されたの!」
取り乱したセアラの剣幕に、何か腑に落ちたようなシアは、
「ああ、それでコレかい。まいっちまうよね。」
ずぶ濡れの衣類の裾を迷惑そうに絞る。
オアシスの宿屋と飯屋を任されているシアは、泊り客の朝食の準備で厨房に立っていたのか貫禄たっぷりの胴回りに前掛けを掛けて根菜を握っている。
シアの様子は、厨房仕事の途中で困ったアクシデントが起きた、程度のものだった。
まったく動じていない。
シアの反応は、もう、これしか考えられない。
セアラは怪訝な顔で、
「・・・もしかして、以前にもあったの?」
訊くと、シアは大きく頷いて、
「以前の寂れたオアシスだった頃にね、盗賊団が根城にしようと屯してたんだけど、その時もマナが刺されたんだよ。あの時はここまでの水量じゃなかったんだけどね。全部水浸しさ。」
溜め息を吐いた。
シアの心配は、もはや水没した厨房の惨状なのだろう。
ほぼ、解決したが、セアラの最大の心配なこと、
「マナは?その時マナは大丈夫だったの?」
セアラは半信半疑でシアへ問いかけたのだが。
セアラの背後にある水の斜面から、自分を刺したマケルクの剣を左手にぶら下げて出てきたマナが、
「どうやったら大丈夫じゃないのか、私も知らないんだよ。」
と、申し訳なさそうに答えた。
マナはまったく濡れていないし、まったく怪我も無い。
いつも通りにのんびりそこに居た。
セアラは弾かれたようにマナに抱き着いて、
「やだ!無茶しないで!」
絶叫に近い声量でマナへ『お説教』して泣く。
マナは震えながら泣き続けるセアラを優しく右腕で抱きしめて、
「ごめん。コツは覚えたから、もう大丈夫だよ。」
と。
セアラは一瞬、
コツ???
引っ掛かったが、マナが無事だった事に安心しすぎて今はもうどうでもよかった。
とにかくマナの胸で息が上がる程、泣く。
二人が寄り添って居る様子に、離れて見ていたマルテはハッと思いついたようで、
「お水が甘くなるんだよね?」
と、キラキラした目で隣に立つ母親を見上げるが、シアは溜め息を吐いて水の山を見上げ、
「水が引かないと竃で焼き菓子が焼けないよ。」
水没しているであろう営んでいる飯屋の厨房を思ってぼやいた。
セアラの泣いて乱れていた呼吸が落ち着いた所で、
「セアラ、この後始末は私に任せてくれるかい?」
と、マナは少し離れた所に出来ている人垣を見ていた。
グスグスと鼻を鳴らしながらセアラがそちらを見ると、無事だった使用人が知らせたのか、オアシスの男衆が例の賊を逃がさないよう取り囲んで騒々しい様子だった。
みんな水の山を滑り降りる時に、オアシスの南から迫る兵の隊列も見ている。
どこの国かはわからないが、どこかの国がセアラを押さえて兵をオアシスへ引き入れようとしていた事は容易に想像がつくのだ。
皆が浮足立っていても仕方がない。
セアラはマナへ視線を戻し、
「どうするの?」
「イレット王への『伝言』を持たせてみんな帰ってもらうよ、今なら私の方が説得力があるだろうからね。」
そう言ってセアラの額へ口元を寄せると、取り囲まれているマケルクの元へ。
人垣の中で胡坐をかいて座っているのは二人、他は朦朧としながら蹲って呻いていた。
座る一人はマケルクだった。
近付いてきたマナに気付いて顔を上げたマケルクの視線は、畏怖交じりの警戒が濃く、殺気もあった。
マナはマケルクの前にしゃがんで、
「後日、こちらからイレットに税の目録を送るから、君は兵と一緒にブラキカムへ帰りなさい。」
神様らしい物言いをしてみる。
ここまで大事になっているのに、マナが何も無かったかのように税の話をするのでマケルクは拍子抜けして怪訝な顔になった。
順当な流れからすると、オアシスの人々が指揮官のマケルクを人質として盾にし、兵と争うと思われたのだが。
マケルクの怪訝な顔に、マナは静かに首を振って、
「私は、一度に兵全員を水瓶に出来るんだよ?」(たぶん・・・・)
と、ハッタリを。
唖然とするマケルクに手を貸して立たせ、左手にぶら下げていた剣を返す。
そしてダメ押しに、口元だけに笑みを作ってみせて、
「離れていても、私には関係無いのだからね?」
『イレットを水瓶にする』
イレット王を人質に取った。
『コツは掴んだ』ので、出来る。
がっくりと肩を落としたマケルクを伴い、マナは重症の賊をオアシスの男衆に運ばせてオアシスを目指して来た兵の元へ届けた。
そして、そのまま送り出す。
無抵抗な兵達を送り出した後、オアシスの方から走り出てきてマナへ飛び込んで来たセアラを抱きとめた。
◇◇◇◇
三日ほどかかったが、オアシスからやっと水が引き、片付けも終わってすべてが元通りに回り始めた頃。
シアの飯屋へ、馴染みの男が小奇麗な身形の男の客を連れてきた。
その客の白髪交じりの髪と顔の皺具合から察するに初老といったところで、服装から身分もそれなりの様に見えるが、砂漠のオアシスの街には珍しく旅装束でない。
店で出迎えたシアには縁の無い人種だった。
品が良い。
学がありそうで、物静かなタイプ。
馴染みの男が小奇麗な客へ、『ここは飯が美味いです』とか『女将さんが頼れるから困ったら声を掛けるといいですよ』とか、耳障りの良い事を言うので大サービスで上等の酒を出してみたりもしたのだが。
二人の口ぶりから、馴染みの男は小奇麗な客に小使いとして雇われているようだった。
自慢の料理をずらりと並べてやると、しばらく二人は酒を注したり注されたりしながら楽し気に会食しているようだったので放置していた。
シアが空いた皿を下げに寄った時、馴染みの男が品の良い客の話を神妙な顔で聞き入っていて、
「変な話もあるもんですね・・・。」
首を捻っていた。
シアはふと気になり、
「何の話だい?」
訊くと、
「女将さんならそんな不思議な話も聞いた事があるんじゃないかい?」
と、振って来たので、もう一度『なんだい?』と返すと、
「なんでもブラキカムの王様が三日間ずっと口から水を吹出して、話も出来なかったらしいんだ。」
馴染みの男の話に、シアは持っていた空皿を落としそうになるが、男は続けて、
「そこらじゅう水浸しなんだけどね、王様も溺れるわけでもなく寝込むわけでもなく、ただひたすら水を吹出していたんだと。」
話しているうちに面白くなったのか、最後の方は男の顔が王をからかうような面白がるような、野次馬状態になっていた。
シアはセアラから例の賊との一件についての大まかな話は聞かされている。
『コツを掴んだ』とは何の事だろう、とセアラが首をかしげていた。
コツをつかんだってのは、コレの事かい?
イレット王の命を奪う事無く、水を吐き出すだけの気持ち悪い時間を三日間も過ごさせる『嫌がらせ』のコツだったのだ。
シアにはマナの仕業なのは判り切っているのだが、
「・・・・まぁ、不思議なこともあるもんだね。」
と、感心した風を装ってふんふんと頷いてみせた。
上等の酒が回って少々舌の回りが良くなったらしい品の良い客が、
「私も驚きましたよ。あのような病は見たこともありませんでしたからね。」
にこにこと話を続けたので、シアは客の握っている空いた盃へ酒を注いでやりながら、
「おまえさんは?」
問うてみると、品の良い客はまたにこにこと、
「このオアシスで務めることになった医師でございます。」
そう言って、王命でオアシス勤務になった医師は上等の酒へ口をつけて飲み干した。




