旦那様、本気で怒る。 後編
一般的な大きな屋敷であれば、朝の始まりに使う部屋は限られている。
その屋敷の主人と使用人が使う寝室と、家事が行われるバックヤード、食事をする食堂、主人が身だしなみを整えるための部屋。
それらがおおよそ朝から人が居たり入ったりする部屋。
客間や応接室など毎日の掃除はするけれど、屋敷に滞在する客や訪ねてくる客が居ない限り、朝一番に誰かが入ったり使う事など無いのだ。
『一晩、人が居ない部屋がある』
賊が潜むにはうってつけだった。
まして、セアラの屋敷は小振りとは言えそれなりの規模があるのに使用人の数が女二人と少ない。(男手は必要な時にその都度雇うので居ない)
屋敷の中には朝から四人の人間しかおらず、マナは早朝から毎朝出かけるので残るのは女ばかり三人。
と、マケルクは踏んでいたのだが。
『行って来るよ』と寝室で寝惚け眼のセアラに声をかけてから寝室の入り口をマナが出たところで、裏口からバックヤードへと使用人に屋敷へ入れて貰っていたマルテが顔を合わせた。
にっこりとマナを見上げる。
「おはよう、マナ。」
「おはよう、マルテ。今日もセアラをよろしく頼むよ。」
と、マナはマルテの頬を優しく撫でると、寝室の入り口をマルテに譲ってやった。
するりとマルテは寝室へ入って行き、窓を開けてセアラを起こしに掛かる。
マルテは毎朝セアラの屋敷を訪れ、セアラの仕事の手伝いをしながら商いを学んでいた。
まだほんの子供だが、セアラはマルテを子ども扱いする事無く、『分からない事は何度聞いてくれてもいいから』と、仕事を少しずつ任せていた。
マルテが拒否しない限り、セアラはマルテにあらゆることを学ばせていた。
マルテの母シアも、セアラの考えに賛成で、未来を考えればセアラのかわりにオアシスを回せる者を育てておかなければならない。
セアラ一人しかオアシスを切り盛りできないのでは、セアラが動けなくなったら限界が来る。
セアラが女性で妻である以上、『出産』の可能性も視野に入れておかなければならないのだ。
マルテも難しい事はわからなくても、セアラの役に立ち褒められる今の状況が楽しかった。
なので、急かすようにセアラを起こし、
「セアラ、今日のお手伝いは何?」
「そうね・・・、まず、応接室にある大きな地図を持って来て貰おうかしらね。」
と起き抜けのセアラに言われ、大きく頷いてマルテは部屋を飛び出して行った。
寝室に一人きりになったセアラはもそもそと起き出して、軽く身支度を整えて寝室を出た。
すると、廊下の向こうから取り乱した使用人の声がしてガタガタと物音がした後、使用人の短い悲鳴がセアラの元へ届いた。
廊下を抜けて声がした中庭の方へ向かうと、黒い布で顔の下半分を隠した黒装束の五、六人の賊が、現れたセアラへ一斉に視線を向ける。
中庭の向こう側にある応接室の中に潜んでいた賊が、地図を取りに行ったマルテと鉢合わせしたのだろう。
賊の一人がセアラへ見せひらすようにマルテに剣を突き付けて、
「おとなしく来い。」
短く吐き捨てた。
セアラから見て中庭の反対側、賊達の向こう側に使用人が一人倒れて居て動かない。
倒れた使用人がもたれ掛かる石の水盆の水が血で真っ赤に染まっている事から、彼女がざっくりと斬られている事は確認しなくても判る。
もう一人の使用人も、賊に捕らわれて声も出ない程怯えてガタガタと震えていた。
が、同じく捕らわれているマルテは、セアラをじっと見ていた。
強張っている表情の顔色は青いが、騒がず、じっと状況を見ている。
さすがね
見込んだだけの事はあるわ
セアラはニヤッと笑った。
マルテはとても賢い。
状況を見ながら自分が助かるタイミングを計る。
命を諦めれば、何もかもそこで終わりなのだ。
セアラがニヤッと笑った顔に、マルテも少しだけ『セアラ、どうするの?』という視線を返す余裕が出た。
どうするも何も、賊の向こうに倒れている使用人はおそらく絶命している筈で、賊はセアラに対する脅しのつもりで手に掛けているだろう。
セアラへ『おとなしく来い』と言う以上、目的はセアラで、もう一人の使用人も、マルテも、完全にセアラに対する人質だった。
言う事を聞かなければ二人を殺す、と。
助けを呼ぼうにも、これではヘタに動くことは出来ない。
しかし、このまま賊の言う事を聞いてしまうと、もっとまずい事になる予想は付く。
あなたたちの命が危険に晒されるのよ?
と、セアラの脳裏に夫の顔が浮かんだ。
まず、
「子供を放しなさい。」
毅然と言う。
が、賊の一人がセアラへつかつかと歩み寄り、
「おとなしく一緒に来い。」
と、セアラの腕を強く掴んで引いた。
ほんとにまずいんだから!
セアラは違う焦りで、
「おまえたちこそ、夫に気づかれる前におとなしく去りなさい。」
と、強い口調で言って、腕を振りほどいて賊の顔を睨みつけた。
セアラの様子に、マルテを掴まえて剣を向けている賊が、
「捕えろ。」
と、短く吐くと。
手隙の賊がもう一人、セアラは賊二人に両側から拘束されて引き摺られようとしたのだが、それにもセアラはもがいて抵抗し、
「まずいのよ!やさ男が怒ったら怖いって言うじゃないっどうなるか知らないわよ!」
非常に焦っていると、静かなマナの声が、
「やさ男って、私のことかい?」
セアラへ訊き返した。
セアラを含めた全員がぎょっとして声の方を見ると、赤く染まった石の水盆の傍で赤い水を見つめて佇むマナがいきなりそこに居た。
水の神様は、水に流れた血の匂いで異変に気が付いて慌てて戻ったらしい。
いきなり現れたマナに賊は一瞬驚いていたようだが、それで怯むわけもなく、手に持っていた武器をマナへ構えただけですぐに斬りかかったりはしなかった。
賊の中の誰かが『指示』を出すのを待っている。
おそらく、マルテに剣を突き付けている男がこの賊のリーダーなのだろう。
リーダーらしき男はセアラとマナを同時に視界へ入れる為に、マナを警戒しながらマルテを引き摺ってセアラの方へ寄る動きをしたが、当のマナはまったく動かず。
マナの視線は石の水盆にもたれた使用人が水盆の中へ沈めた腕を見ていた。
この血で私を呼んでくれたのかい?
血の流れる使用人の様子を確認し、マナは顔を上げ、
「彼女を斬ったのは、誰かな?」
誰を見るともなく、虚ろな顔をしていた。
のっぺりした喜怒哀楽のどれも感じられない表情で、セアラが見た事もない顔をしていた。
いつものんびりしていて、感情の消えた顔を見た事が無い。
マナはもう一度、
「誰?」
ひと言訊き、虚ろな顔が少し下を向いて険しい顔をした後、ひとつ溜め息を吐いた。
と、石でできた水盆がパキン!と高く響く音を立てて真っ二つに割れた。
中に入っていた水が、一瞬で凍って体積が増し、その圧に耐えられなくて石の水盆が割れてしまった。
マナが顔を上げると、一番近い場所に居た賊を見る。
賊とマナの目があった途端、その賊の顔の覆面の内側から大量の水が噴き出した。
セアラはマナと向き合う形で、マルテを人質に取っている賊以外の賊の背中を見る形でマナの方を向いている。
水が噴出し続けてもがき始めた賊の背中しか見えなくて、何が起きているのか判らなかった。
ただ、普通ではありえない事が起きているのだけは判る。
とうとう地面に倒れて水を四方に飛び散らせながらもがいている賊の周りに、水溜が出来始めているのだ。
もがく賊の覆面が水で押されて外れ、何が起きているのかざっくり見えた。
鼻と口から勢いよく水が噴き出している。
見ると、もがいている賊の胸と背中がぱんぱんに膨れてまるまるとしていた。
思い当たる。
マナは、いつもオアシスの人々の挨拶のお礼にやっているアレを人間相手にやっている。
判った途端、
「ダメよ!」
セアラは険しい表情で叫ぶが、マナの虚ろな表情に変化はなく、ぽつりと、
「人を水瓶にするのは初めてだから手加減できないな。」
言った。
言って、ふと気が付いた様にマナはセアラを安心させようと口元へ笑みを作って見せたが、目元がまったく笑っていない。
逆に、怖い。
事態はさらに悪化し、マルテを人質に取っていたリーダーらしき男が無事な賊達へ『夫を始末しろ』と言いたかった言葉を遮って、その口から水が噴き出した。
賊が全員、その場で『溺れて』地面に崩れ落ちてもがき始める。
あっという間に中庭は水浸しになっていった。
セアラは賊から解放されたマルテを抱き寄せてしっかり腕の中へ抱きしめた。
顔をあげ、そこら中で水を吐き出している賊をしらっと眺めているマナを睨む。
苛っと、
怒ってるのが自分で判らなかったくらいのんびりした人だものね
平静を装いたいのは判るけど、バカでしょ?
私に怒られるの判ってるでしょ!?
必死にマナを止める方法を考えるが、全く思いつかない。
とにかく、
「マナ!やめなさい!」
叱るが、マナはぽつりと、
「無理。」
拒否した。
えーーーーーーっ!
無理って何よ!?
この人達が無理なんだってばっ!
賊が動きが鈍くなり始めていて拙い状況になりつつある。
セアラは腕の中のマルテを抱っこして、マナの元まで『ざぶざぶ』と水を掻き分けて辿り着き、マナの真正面から、ゆっくり区切った低い声で、
「やめなさい。」
言ってじろりと睨む。
マナは困ったような顔をして、
「・・・・わかった。」
不服そうな声音の言葉を漏らした。
周囲で聞こえていた『噴水』の水音がしずしずと止まる。
『蛇口』が閉まった所で、セアラはまず無傷の使用人を見て無事を確認し、周りで動けなくなっている賊が水没して本当に溺死してしまわないか確認、その後、腕の中のマルテをぎゅっと抱きしめて、
「怖い思いをさせてしまったわね。」
どっと息を吐きながら言った。
マルテもセアラを抱きしめ返し、
「セアラのせいじゃないよ。」
明るく言う。
マルテの健気な様子に、
強い子ね
と、セアラはほっとしてマルテに微笑みかけた。
セアラとマルテの様子を見てやっと正気に戻ったのか、マナがセアラの顔を見ながら申し訳なさそうな顔をした。
その視線に、『お説教は後で』と、セアラがマナをひと睨みしてから振り返って、そこで動かなくなっているリーダー格の賊を見て、
「どこからの刺客だったのかしらね、この人達、物盗りとは思えないわ。」
そのセアラの言葉で、マナは『もしや』とリーダー格の賊の顔を確認しようと歩み寄った。
倒れている賊の黒装束を掴んで仰向けにさせて見たぐったり顔には見覚えがあった。
謁見の時、イレットの傍に居た側近か
と、マナが確認した途端、マケルクの目がしっかり開いてマナと目が合った。
次の瞬間、屈みこんでいるマナへ下から剣を突き上げる。
マケルクは王から命じられていた。
『危険なものであったなら、夫は始末してよい』
王にとって危険な存在だと確信したマケルクは迷わず行動に出た。
セアラの視界でマナが賊に刺され、セアラが悲鳴をあげる暇もなく一瞬で周囲の全てが水没した。
泳いだ経験は無い。
耳の中に響くゴポゴポという水の音と、周りの物が水中を漂い始める視界。
マルテを抱いたままゆらりと水の中で漂いながら見上げると、遥か高みに朝陽をうけて輝く水面が見えていた。




