イン・ハー・ルーム
今回は凛視点です。
リビングから洗面所へ向かう途中、あいつの部屋の前を横切ろうとすると、ドアが少し開いているのが見えた。
話し声が聞こえたので思わず目を向けると、部屋にはママとあいつがいた。
2人は肩を寄せ合い、あろうことか、私が幼稚園時代に描いた、とんでもない絵を見ていた。
……あんなものがまだ残っていたとは。
捨ててと、あれだけ頼んでおいたのに。
今度、改めてしっかり抗議しておこう。
でもそれより今は、顔を洗いに行きたかった。
2人は私が見ていたことに気付いていない。
私は足早に部屋の前から立ち去った。
……それにしても。
肩を寄せ合う2人の姿は、まぎれもない夫婦のそれで。
私の絵を見て笑い合う2人の姿は、まぎれもない親のそれだった。
ああいう光景を見るたびに私は、愛情には“種類”があるんだと、強く感じる。
洗面所にやって来た私は、顔を洗って少しすっきりした。
もう息も整っている。
小さな妹たちは可愛いが、付き合っていると乗せられて、つい遊び過ぎてしまう。
ママやあいつもよくデレデレになった後、ヘトヘトになっているが、気持ちは分かる。
タオルで顔を拭きながら、これまでのことを整理する。
そもそも、姉妹の気持ちを聞いて参考にしたくて、部屋を回っていたんだ。
ようやく、ここまでたどり着いた。
理沙姉さんは、あいつに対して、明らかに親子とは違う種類の感情を持っている。
それでも、今のままで満足で、傍にいられるだけで幸せだという。
翔子姉さんは、あいつを相棒だと言っていた。
親というより、友だちや兄弟のように想っているようにも見える。
でも、自分が結婚をして家を出ることも想像できないので、ずっとこの家で一緒にいるつもりらしい。
美貴と巴は、あいつと結婚する、とはっきり宣言している。
美貴はもう9歳で、私と一つ違いだ。
巴も、精神年齢でいえば美貴以上かもしれないくらいだし、2人とも子どもの無邪気さだけで言っているわけじゃない。
でも、結婚した後どうするかということは、特に考えていないようだ。
ただ、好きな人と、ずっと一緒にいたい、もっと強くつながりたいというだけなんだろう。
華弥や愛、優結については、親が好きという気持ちに、迷いなんてあるはずもない。
それはきっと、小さな子どもにとっては当然のことなんだろう。
昔の私みたいに。
いつか、愛情に“種類”があることを知った時、3人がどう感じるのかは分からないけれど。
みんな気持ちの形は違う。
けれど、その根っこは同じだ。
家族と、好きな人と一緒にいたい、ただそれだけ。
もし、それぞれ気持ちの中に、他の人とは違う何かが少しくらい混じっていたとしても、それが歪んだものだとか、誰かを傷付けるものだとかは、思えなかった。
……じゃあ私は、どうなんだろう。
みんなとは、どこで違ってしまったんだろう。
小さい頃の私はただ、家族と、あいつと、ずっと一緒にいたいと思っていただけだった。
それはみんなと変わらないはず。
でも、結婚できないことを知ったあの時から、変わってしまった……?
理沙姉さんのように諦めることも、翔子姉さんのように受け入れることも、美貴や巴のように乗り越えることも、できなかった。
それまでと同じ関係が続くだけでは、我慢できなかった。
その“先”がないことに、耐えられなかった。
では、その“先”とは、何なんだろう。何があるんだろう……?
何だか、背筋が寒くなった。
気持ちを切り替えるため、もう一度顔を洗った。
……きっともう、答えは知っている。
でもそのことに気付いてしまうのは、とても怖いことに思えた。
使ったタオルをかけ直していると、洗面所の隣にある、脱衣所のカゴが目に入った。
カゴの中には、まだ洗う前の衣類が残っている。
その中に、あいつのカッターシャツもあった。
昨日、仕事に行っている間に着ていたものらしく、よれよれになっている。
他に残っている衣類も、ほとんどがあいつやママのもののようだ。
幸い、私の衣類は、ママが先に洗って、干してくれているらしく、見当たらない。
きっと理沙姉さんも手伝ったに違いない。
私もたまには手伝うけれど、やはり理沙姉さんの気配りにはかなわない。
私は別に、自分とあいつの服を一緒に洗われたって、そこまで気にしない。
すごく嫌ってわけでもないし、……嬉しいってわけでもない。
ただ、あいつの手で下着を干されたりすることだけは、出来るだけ避けたかった。
私を含めて、我が家の姉妹は、父親と一緒に衣類を洗われても、あまり気にしない。
むしろ一部の人は、一緒に洗ってほしいと思っている様子だ。
それでも一応の配慮として、できるだけ、あいつの衣類は、娘たちのものと分けて洗うようになっている。干すのも、ほとんどママと理沙姉さんたちの仕事だ。
これはあいつ自身の提案によるものだと、ママから聞いたことがある。
娘たちが大きくなってから、嫌がりだすのを見るのが寂しいので、今のうちから手を打っているらしい。
あいつは娘の私から見ても親バカで、いつも鬱陶しいくらい娘たちにべったりなくせに、妙なところだけ慎重だ。
……そんなに気にしなくていいのに、なんて、ちょっと思う。
もっとも、気にさせている原因の一つは、私の態度なんだろうけれど。
ふと、私は、あいつのカッターシャツを手に取ってしまった。
何だか、頭がぼーっとしていた。
色々と考えすぎて、疲れてしまったのかもしれない。
そしてそのまま、自分の部屋へ向かった。
あいつのシャツを握り締めたまま、自室のベッドに倒れ込んだ。
私は、何をしているんだろう。
冷静に考えながらも、体は止まらなかった。
このシャツの感触を、感じてみたい。
そう思った私は、上着とスカートを脱いで、下着姿になった。
素肌の肩の上から、シャツを羽織る。袖は通さない。
当然ながらシャツは、私にはあまりに大きすぎた。
襟の内側は、少し汚れている。
シャツからはちょっとだけ、汗のにおいがした。
ごくわずかに、たばこのにおいも混じっている。
あいつはたばこを吸わないはずだが、通勤電車や職場で、においが移ることもあるのだろう。
職場でのあいつは、どんな様子なんだろう。
学校での私たちみたいに、友達がいるのかな。
仕事って、大変なのかな。
通勤電車って、混んでいるのかな。
ずっと同じ家で暮らしているのに、知らないことが多すぎる。
何だか心細くなった。
右手で左の襟先、左手で右の襟先を掴んで、強く引き寄せた。
それだけで私の体は、あいつのシャツの中にすっぽりと収まってしまった。
1日着た後の、よれよれのカッターシャツの感触も、汗とたばこが混じったようなにおいも、決していいものじゃない。
でもそれはどこか懐かしくて、不思議と安心するものだった。
私がまだ幼稚園に通っていた頃、仕事帰りのあいつに抱きしめられた時の感覚を思い出す。
また、泣きそうになった。
きっと今は、我慢しないほうがいい。
こんなときは、あれの出番だ。
机の引き出しからアルバムを取って来るために、立ち上がろうとして、体勢を変えた。
すると、あり得ないものが目に飛び込んできた。
部屋の入口に、あいつが立っていた。