八話 出会いの予兆
「君があれほど人に冷たく当たるのを私は初めて見たよ。それほどまでに君は彼女に対して思い入れが強いということかな?」
そう言って、栃原は俺の弁当から、薬味ソースのかかった唐揚げをひょいと口に運んだ。
それは俺の自信作であり、冷めても美味しさが損なわれない絶品だ。光凛の残りを積めてきた弁当ではあるが、俺自身楽しみにしていたのに、栃原はそんな俺の気も知らず咀嚼してしまう。
俺は警戒していないわけではなかった。
今こうして屋上で昼飯を食べ始めてから、俺は一瞬たりとも気を抜いてはいない(今は十月の頭なので屋上で食べる者は殆どいない。他の生徒に会う事が無いという点において俺達はここを好んで使う)。
しかし、栃原の言葉は俺の動揺を誘った。
「は? それってどういう意味だよ。あそこにいたならお前だって分かるだろ。俺はあいつを遠ざけたんだ。関わりたくないと思ったんだぞ? なのに思い入れが強いってどういう事だよ?」
「言葉通りの意味さ」
栃原は目を細め、次の品へと箸を伸ばそうとする。今度はそうはいかない。俺はそれを先読みし、巧みに栃原の箸から弁当を守る。
むっ、と栃原が不満そうに声を洩らす。バカ野郎自分の弁当を食べてから人のに手を出しやがれ。
栃原はようやく諦めたのか、箸を置き、俺へと真っ直ぐに目を向けた。
「カートナー・エレント曰く、無知の『恥』とは即ち気付かないということ。本質から無意識に目を背けているから気付かない」
一本指を立て、栃原は言う。また訳の分からない格言だ。
つまり、と栃原は、立てた指を俺の胸へと突き付けた。
「君の心は今、嘘をついているのさ。本心を隠し、裏腹な思いに蓋をしている。そして君はまた嘘を突き通そうと無理をして、自分を殺している。……全く無駄な徒労だよ」
栃原の言葉の意味が分からない。俺が嘘をついているだって?
そんな訳がない。俺は常に自分の意思で選び取ってきた。千歳に対する拒絶も、変わらない事を望む気持ちも、紛れもない俺の心によるものだろうに。
納得出来ないという俺の気持ちを察したのか、栃原はこう続けた。
「いいかい? 確かに今回の件は私の悪ふざけが過ぎたという事もあるだろうが、それでも君がとった対応は最善ではなかった。……それどころか最悪であったと言ってもいいだろう」
「お前何か知ってるみたいな口振りじゃないか」
俺が問い返すと、栃原は若干諦めを含ませながら観念したようにポツリと呟いた。
「知っているとも。私は瀬戸千歳と幼馴染みなのだから。いや……だったというべきだろうか」
「なッ!?」
それはおかしい。千歳は確かに栃原を見て、誰だ、と言った。まるで始めて会った人物に向けるような態度を、千歳はしていたではないか。それなのに幼馴染みだと言われて信じられるわけが……。
「そう。信じられないのも無理はない。何故なら彼女は私の事を覚えていないのだ。忘れたという方が適切かもしれない。……それは彼女もまた、君と同じように過去を持っているからだ」
「千歳の過去……」
「瀬戸千歳。彼女が変わったのは三年前。唯一の肉親であった兄を亡くしてからだ」
栃原は、饒舌に語り出した。
人の過去を詮索するつもりも、それをとやかく言うつもりもないが、しかし俺は栃原の語る千歳の過去に少なからず興味を持っていた。
謎の多い少女、瀬戸千歳。俺はあいつの事を何一つ知ってはいない。
彼女は偶然俺と接点を持ち、どういうわけか俺を気に入った。
それでも、彼女と過ごした日は一日にも満たないような短い時間。
何故千歳は俺の所へ来たのか。千歳は一体何を考えているのか。少しでもそのヒントがあるのなら聞いてみようと俺は思った。そういう思考をしてしまうのは、やはり栃原の言う通り、少なからず千歳に対して思い入れがあるという事なのかもしれないが。
「彼女のそれまでの性格は温厚で、人付き合いは今とそれほど変わらなかったが、それでも彼女には少なからず友人は存在していた。かくいう私もその一人であり、私は彼女を『ちーちゃん』と呼んでいた」
昔を懐かしむ様な口調の栃原。語り出しがいきなりシリアスだっただけに、不意打ちの『ちーちゃん』が妙なツボを刺激した。
「ちーちゃんは本を良く読む子だった。誰かと体を動かして遊ぶよりも、本を読んでいる方が好きな、そういう子だった。私はそんなちーちゃんとは良く自分の読んだ本の話で盛り上がった。彼女とは本を通じて仲良くなり、彼女の本好きは、兄の影響によるところが大きいという事を知った」
淡々と、記憶の上辺だけをなぞるように話す栃原。
「彼女は兄と二人暮らしであり、兄は社会人になってから家にいることも少なくなった。一人でいる事の多くなった彼女は、兄の書斎にある本棚へと手を伸ばし、それをきっかけに本を読むようになった」
なるほど、と思う。千歳が図書委員に立候補してまでなったのは、楽だからという理由ではなく、本当に本が好きだからだったという事か。そういえば、千歳は良く本を読んでいたなと思い出した。
「ちーちゃんの家は貧乏ながら、それでも兄の賢明な働きぶりのおかげで、二人はなんとか暮らす事が出来ていた。彼女は良く私に話してくれていたよ。早く自分は大人になって、兄を助けてやりたいんだ、と」
今の千歳からは想像出来ない言葉だ。あの、無表情でどんなものにも関心を示さない様な彼女にも、そういう一面があったのだと正直驚いた。
けれど、それは叶わなかったというのは分かる。栃原はまず、こう述べたのだ。
――千歳の兄は死んだ、と。
「そんな生活は長くは続かない。必死に働き続けた兄は倒れた。――過労だった。ひどく衰弱しきり、満足に食事も喉を通らない。彼は千歳の分の食費だけを捻出し、自らの食べる分の金は全て生活費に回していた。無理が祟るのも当然だった」
どこか、俺の置かれている境遇と似たような話だ。
俺も千歳の兄の様に、光凛を守る為に生きている。だがそれは己を顧みないという事でもあるのだ。
そして、と栃原は言う。
「兄は同時に鬱病を患っていた。仕事をしなければという強迫観念が彼を追い詰めていた。彼女は知らなかった。兄がそんなにも思い詰めていたなどと。そして、ある日それは起こった」
栃原が目を伏せる。それは悲しみを必死に堪えているようにも見える。
「……兄は、窓の外へ身を乗りだし、自ら命を絶った。それは、彼女が病室の花瓶の水を代えに目を離した一瞬の事だった。彼女は自分を責めた。責めて、責めて、責め抜いた。彼女は私に兄が死んだ経緯を話し、こう言ったよ。『自分が兄を殺した。私も死ぬ』とね。そして彼女は私の前から姿を消した。何処に行くとも告げず、なんの手懸かりも残さずに。……それが三年前、私たちが中学二年生だった頃の事だ」
栃原はようやくひとつ息を吐き出した。最後の方は捲し立てるように、最後の一句まで言い切った。
栃原も抱えているのだろう。その日の出来事を今でも。だからこそ、栃原はここまで悲しそうな目が出来るのだ。
「そして、彼女は帰ってきたよ。まるで別人の様になってね。同じ高校へ入学し、お互い成長した。それでも私は彼女だとすぐに分かったよ。もっとも、彼女の方はそうでは無かったのだが」
「それでお前はどうしたんだ?」
「どうもしないさ。私を覚えていないのならば、私も彼女の事を最早『ちーちゃん』などと言うまい。一度そう呼んでみたこともあったが……」
栃原は、無駄な行いだったと言った。自嘲気味に、笑みすら浮かべて。
「結局私は一年ももたずに諦めてしまったよ。いつまでも過去の友人にばかり拘っていては、新しい友人も出来やしないからね。まぁ……結局友人は君みたいな奴しか出来なかったがね」
「…………」
俺があの事件を起こし、休学していた間のことなのだろう。俺が栃原と出会ったのは、休学が明け、なんとか補習を受けて進級出来た二年の始めだから、その間に栃原は千歳の事を諦めたのだ。
――だが。
「それで、俺の対応が最悪だというのにどう繋がる?」
俺は訊ねる。過去を知り、しかし何処が繋がっているのか判然としない。
「言っただろう? 彼女は別人の様になってしまった、と。人付き合いの苦手な彼女が、どうして君なんかに興味を持ったのか考えた事はあるかい?」
俺は首肯。何度も考え、しかし結論の出なかった問題だ。千歳との関係を絶った今となってはどうでもいい事だが。
「彼女はね、今、依存出来る相手を探しているのさ」
「依存?」
「彼女は兄に頼りっきりで過ごしてきた。それが突然崩れ去り、何を思ったのか知らないけれど、彼女は強い繋がりを他人に求める様になったのさ」
繋がり。
千歳がそれを求めている、というのは納得しがたいものがある。何故ならそれは、あいつの普段の様子を見ていれば分かる。
千歳はいつだって孤独に興じ、本の世界に心を向けているだけなのだから。
「君は知らないのか。聞いたこともないかい? 彼女はね、何度も異性と体を重ねているんだよ。相手に自分の存在を認めさせ、そして自分が依存出来るように。」
――嘘だ。
俺は一瞬そう思ったが、栃原の眼差しがそうではないと告げている。
栃原は自らの眼でそれを見た。だからこそ、かつての千歳の様子とかけ離れた姿に失望し、もう手遅れだと諦めたのだ。
千歳のその行いは、まるで亡くなった兄の代わりを求めているみたいだと思った。それか、簡単に体を誰かに預けてしまう自分を、兄に責めて欲しくてそうしているのか。
「だからこそ言わせてもらうよ。瀬戸千歳のかつての友人として……そして、織田卓磨の友人として……。彼女に対する安易な拒絶は、身を滅ぼし兼ねないと」
「…………」
「彼女に一度でも依存の対象として認識された瞬間、君はもう彼女からは逃げられない。彼女に関わった者は、そのいずれもが不幸になる。卓磨――君は知っているかい? この学校の中に広まる噂の事を――。その名は……『裏生徒会』」
不思議な響き。俺は導かれる様に呟いた。
「裏生徒会……?」
そこで。
キーンコーンという原始的なチャイムが昼休みの終了を告げた。
栃原の言葉は切れ、俺の意識の集中も一瞬途切れてしまう。
栃原はそこを区切りとし、頭を振ってこう言った。
「仕方ない、この話はまた今度にしよう。今はまだ大丈夫のはずだ。けれどくれぐれも気を付けろ。瀬戸千歳からはなんとしても逃げるんだ。いいね? カートナー・エレントも言っている。逃げる事は恥ではない。最善を取ることこそが重要なのだと」
一気に捲し立てる栃原。どことなしか急いでいる様子だが、何か用事でもあるのだろうか。
しかし言われなくても分かっている。俺はもう千歳とは関わらない。そう決めたからこそ、朝にきっぱりと突き放したのだ。
そこには未練も、思い入れもあるはず無い。
だから俺は笑って頷いた。
「大丈夫だよ栃原。俺はもう、自分から何かを得ようとなんてしないから。忠告有り難う。お前の言う通り気を付けるよ。……ほらもう行けよ。なんか用事でもあるんだろ?」
「すまない! 本当はもっと君に伝えなくてはならないことがあるんだが。せめて私が言った事は忘れるな! 『裏生徒会』にも絶対に参加してはならない! いいかい、友人としての頼みだぞ!」
「あー分かった、分かった。はよ行け」
そう言って俺が手を振ると、栃原は弁当箱を抱え小走りで掛けていった。よっぽど重要な事があるのだろう。だとしたら付き合わせてしまって悪かったなと思う。
俺は一人取り残された屋上で空を見上げた。
昨日の夜空は綺麗だっただけに、今日は晴れだと思っていたのだが、どうやら雲が微かに増え始めている。
「雨、降るかもしれねぇな……」
俺は空に向けて言葉を放ち、よろよろと視線を出口へ向ける。
その時、端と思い出したように今まで忘れていた事を思い出した。
「眼鏡……返してねぇじゃん……」
はぁと溜め息を吐き、頭を掻く。
これでは千歳に会わなければならないではないか。
俺は億劫になる気持ちを抱えながら、歩き出す。
今の天気と同じように、俺の心にもまた雲が掛かり始めようとしていた――。