七話 決別の朝
「お兄ちゃん、行ってくるね!」
光凛が太陽のように眩しい笑顔で手を振った。背にはリュックがあり、中には俺が丹精込めて作り上げた弁当が入っている。きっとどこぞの主婦が作った弁当になど負けるはずはない。必ず光凛の弁当に、クラスメイトは心奪われることになるだろう。
「ああ。気を付けて行ってこいよ」
俺はそんな未来を思い浮かべべつつも、柔らかく微笑んで、光凛を送り出す。
光凛は手を振り出ていった。
余程楽しみなのかステップを踏んでいる。中の弁当がシェイクされていないか心配だが、そうなっても味に支障は無いだろう……たぶん。
さて、と呟き俺も学校へ行く支度をする。
――と言っても、光凛の弁当を作る片手間で用意した弁当を鞄に入れ終了なのだが。
制服に着替え、忘れ物が無いかチェック。ここでチェックするのは『PA』を忘れていないか。
『PA』は学生証の代わりとして扱われている。この端末が無ければ学校にすら入る事が出来ないので忘れたら話にならないのだ。
「よし!」
と、声に出して確認終了。
そこで時計を見ると時刻は8時。歩いて十分なので大体人もまばらだが登校してきている頃だろう。
無論……あいつも。
昨夜の事が甦る。今でも信じがたいあの光景は一体なんだったというのだろう。
そうやって考えても何も得る事など無い。どうせ俺が考えたところで何も分かりゃしない。
これ以上考える事はしない。俺には関係無いのだから。
あんなものに拘り続ける事に意味など無い。
自分の目を疑う訳ではないが、それで関係を持ったなどと思いたくない。
俺は偶然あの場に居合わせ、そして見た。ただそれだけの事だ。
あの時、俺の存在に気付いていた千歳。
もしもあそこでの出来事が人に知られてはならないようなモノだったとしたら、あいつは俺をどうするつもりなのだろう。
――あの不思議な現象すらも引き起こし、俺を抹殺するかもしれない。
けれど、そういう発想自体が馬鹿げている。
現実も、空想も、どちらだろうとどうでもいい。
――俺は壊れない事を望む。
今ある生活が、こうして流れる時間が。
壊れなければ、それでいい。
しかし、もしもようやく手にした安寧の世界を壊す様な奴が現れたとしたら、俺は決して許さない。
この、満足に力の入らない左手のように、俺は何を犠牲にしても守ってみせる。
光凛と、光凛が暮らすこの世界を。
俺は学校へ行く前に仏壇で手を合わせる。
父さんと、母さんに、俺は毎日誓うのだ。
「父さん……母さん……。俺が光凛を守るよ……」
俺は立ち上がり、学校へと向かう。
世界は俺のよく知るものだと、確かめる為に。
●
下駄箱には、特に変わったものなど入っていなかった。
古典的な果たし状も、想いを綴ったラブレターも、入っているはずなど無い。
靴を履き替え教室へ。
玄関には、早くも竹刀の叩き付けられた音と奇声じみた声が届いている。武道場は玄関から一本通路を挟んだ先にあるので声が簡単に響いてくる。
しかし、剣道部の朝練だろうが、今の俺には関係ない。
確かに一年前迄はあそこに俺もいた。
強さを追い求め、誰にも負けないというひとつの目標を持って取り組んでいたのだ。
けれどそれは過去の事。
佐伯蛍が昨日言ったように、俺には『鮮剣』という名が有る限りあの事件が付きまとう。
俺の剣は血塗られた剣。たとえ誰かを守る為に振るった剣であっても、もう一方の誰かを傷付けてしまえば意味はない。
スポーツ推薦でこの学校に入学したというのに、今となっては俺の扱いは不良生徒の一人だ。ましてやあの事件以降友人達は俺から距離を置き、腫れ物でも扱うようになってしまった。
教室に入った瞬間に分かる空気の変化。
それまで他愛の無い会話を続けていたはずなのに、俺が入った瞬間、一斉に目線が向く。
ぎこちなく会話は再開されるが、先程のような柔らかさは消え、和気あいあいとした雰囲気はもう存在しない。
何かに怯えるように、わざとらしい笑いが耳に入る。
――分かっているさ。お前らは俺が怖いんだ。
何がきっかけで、俺を怒らせてしまうか分からない。次は自分かもという恐怖。
意識せずとも思ってしまうのだろう。それほどまでに、俺の起こした事件は強烈なインパクトを与えてしまったということか。
俺は自席に鞄を掛け、教室を見渡す。
視線を向けた先は、中央の席。鞄が掛かっていないからどうやらあいつはまだ来ていないらしい。
俺はそれだけ確認し、教室を出る。俺が居ては旧友達も話しづらいだろう。邪魔物はさっさとおいとまするべきだ。
俺が扉を閉めると、安堵が広がっていくのが分かった。流石に慣れてきてはいるものの、精神的に辛いモノがある。だがそれも、俺が犯した罪を忘れない為に必要な事なのだろう。
「どうしたんだ辛気臭い顔をして。朝から困った奴だな君は」
言葉通り、辛気臭い顔をしていたのだろう俺に声を掛ける奴がいた。
離れていった友人もいれば、あの事件以降増えた友人も小数だがいる。そいつはその類いだった。
「栃原。そういうお前はいつも通りみたいだな」
その友人――栃原姫路はふふんと鼻を鳴らして答える。
「私はいつだって変わらないよ。私は私である事に誇りを持っているのだから。君はそういう私が気に入っているから、友人としてそばにいる事を認めてくれたのではなかったのかな?」
そう言う栃原の表情は自信に満ちていた。
彼女の言う通り、俺は栃原姫路という女生徒をとても気に入っている。
彼女は自分の世界を壊される事を好まない。自ら世界を人に合わせて変えたりしない。
それは同じように変わらないことを望む俺と同じ考えだ。
「そうだったな。だから俺はそんなお前が好きなんだ」
俺は臆面もなくそう言った。
栃原は表情を変える事はない。さも当然という様に不遜な態度を固持したままだ。
栃原はショートカットの髪を揺らして答える。
「カートナー・エレント曰く、素直とは諸刃の剣である。その言葉が身を助ける事もあれば、人を傷つけることもある。……私は素直な君が好きだが、そういう事は時と場合を考えるべきだ。そんな真っ直ぐに見詰められたら勘違いしてしまうだろう?」
偉人の言葉を例えに、栃原は俺をからかう様に伺い見た。
彼女はよく、こうして偉人の言葉を引用することが多い。だが大抵は聞いたことの無い名前の偉人ばかりが登場してくる。最近のお気に入りはそのカートナー・エレントという人物らしい。
「別にいいさ。お前が勘違いなんてするはずがない。お前は俺の事をよく知っているからこの言葉を額面通りに受け取ったりなんてしないだろ?」
確かにそうだが、と栃原は笑い、
「何もそれは私が、という意味で言ったのでは無いんだがな」
そう言って、後ろを向くように彼女は顎を動かした。
俺は訝しみながらも、後ろを向いた。
そこにいたのは、一人の少女。
長い前髪に覆われた無機質な表情と、眼鏡の奥に潜む狂喜を孕んだ瞳がそこにはあった。
「千歳…………」
体が一瞬にして強張るのが分かる。昨夜の光景が一瞬にしてリフレインし、俺の体を縛る。
千歳は小さな唇を震わせ、か細い声を紡いだ。
「卓磨……だれ、そいつ?」
視線は俺に向けられているが、言外に含んだ敵意は、後ろで笑みを浮かべ続ける栃原へと向いている。
「おやおや……いつから彼女と友人になったのかな君は。しかも、可愛らしく嫉妬までして。君は女には興味が無いと思っていたのだが、その認識は誤っていたようだね」
それにしても、と栃原の言葉は続く。
「意外だよ、本当に意外だ。君の女性の好みはそういうのだったのか。これはなかなかいい趣味をしている。面白い目の付け方だ。流石は私の友人だな」
「別にそういうんじゃない。こいつは……」
そこで俺は言葉につまった。俺と千歳の関係は、栃原の想像している様なモノではない。
ならば、一体どういう関係なのだと聞かれれば、俺自身良く分からなかった。
「卓磨……こっち来て。そいつから離れて」
「後から来といて随分強引じゃないか。彼はさっきまで私と話していたんだが? あいにく素直に退いてやるほど察しの良い性格では無くてね」
俺を無視して二人は不可視の攻防を繰り広げている。全く蚊帳の外もいいところだ。
「卓磨は私に話がある……そうでしょ?」
千歳が切り返しの視線を放つ。
それはつまり、昨日の事で話があると千歳は言っているのだ。
あの不思議な光景。世にも奇妙な昨夜の一幕。
あれは俺を、今という現実から引き離す力を十分に持っている。
千歳の言葉に乗ることで、俺の世界は変わる。そういう確信が俺の中にはある。
けれど俺はそれを望まない。俺が選ぶのは変化ではなく停滞。
今ある現実を受け止め、変わらない時を過ごす事こそが俺の望むことなのだ。
「千歳……俺は別にお前に話は無い」
「え……」
千歳が困惑したように目を開く。数少ない彼女の見せる表情の変化。
「用はそれだけか? 無いなら俺は教室に戻るぞ。栃原ももう戻れ」
俺はこれ以上会話を続ける事なく教室に入る。
再び教室が緊張するのが分かったが、今度は気にする素振りも見せず自席へと着く。
教室の外で立ち尽くしている千歳。ガラスの向こうからやれやれと首を振る栃原が目に入ったが俺は無視して窓の外を見た。
千歳に対する明確な拒絶。俺の世界を壊すものだと判断した故の決断。
非日常など必要ない。劇的な変化などクソ喰らえだ。
俺達はこれで元に戻る。お互い何も変わらない、接点など無かった今までのように。
チャイムが鳴り、教師が来る。千歳は教師に声を掛けられても尚、その場から動こうとはせず、やがて何を思ったのか、一人どこかへ歩き出した。