五話 忘れ物
「風呂沸くまで時間かかるから、シャワーでしっかり暖まれよ。風邪でも引かれたら困るからな」
俺はそう言って、脱衣所にバスタオルと千歳の着替えとなる俺のシャツを置いた。
濡れた制服姿の千歳が首を傾げる。
「卓磨は一緒に入らないの……?」
「誰が入るか!!」
俺は声を荒げ、ピシャリと脱衣所の扉を閉める。これ以上千歳に振り回されるのは御免だった。
千歳は俺に何をしたのか分かってないかのように平然としている。こちらとしては不意を突かれ、唇を献上したというのに、全くアフターケアが成されない。……もっと俺の心も労って欲しいものだ。
しかし、アフターケアをしなければならないのは俺も同じだった。
光凛がむすっとした顔でテレビを観ている。流れているのは普段は全く見ようとしないニュース番組だ。
それは明らかに俺とは口を効きたくないという意思表示。いつもならこの時間帯は見たい番組があるはずなのに、頑なにチャンネルを変えようとはしない。
これは機嫌が治るのに、相当時間が掛かりそうだと思った。
――まぁそれもしょうがないか……。
確かに、目の前で兄が見知らぬ少女といきなりキスをしたとあってはショックも大きいだろう。ましてやその少女を家にあげ、風呂にまで入れてやっているのだから、それを小学五年生である光凛がすんなり受け入れられる筈もない。
実際、俺だって混乱していない訳じゃない。
あの時の俺はどうかしていたのだろう。自ら千歳を抱き寄せ、あまつさえキスまでしようと迫ったのだから。光凛があの場にいなければ、どうなっていたか分からない。――もっとも、結果としてキスはしてしまったが。
ともかく、一刻も早くその事を忘れる為にも、光凛の機嫌を治すのが最優先だ。
三角座りでテレビの前に座る光凛の隣に俺も腰掛ける。
俺は出来るだけ優しく、それでいて不自然にならないようないつも通りの口調で、光凛に声を掛けた。
「なぁ……そんなニュース見ててもつまんねぇだろ? 見たいドラマあったんじゃないのか?」
「別に……お兄ちゃんには関係ないでしょ」
――おっ?
声が返って来ない事すら想定していたのだが、こうして返事をしたということは、意外と機嫌を治すのは早いかもしれない。
「確かに関係無いかもしれねぇけどさ、お前言ってたじゃないか。ドラマの主人公がヒロインに告白するってさ。そんな良いところ見逃すなんて勿体無いだろ?」
「別にいいよ……。あのドラマ、私一度見たもん。何回も再放送やってるから内容だって頭に残ってる」
「へぇ……」
「主人公がヒロインに告白したあと、キスするんだよ。……どっかの馬鹿兄みたいに」
そう言って、ジトッという眼差しを向ける光凛。どうやら地雷を踏んだらしい、折角のチャンスを不意にしてしまった。
三角座りの姿勢のまま膝に顎を乗せ、足を抱く腕に力を入れる。そして光凛は振り子の様に前後に体を揺らし出した。
「……別にお兄ちゃんが誰とキスしようが私には関係無いよ? 寧ろ、剣道辞めてからバイトばっかりしてるお兄ちゃんが、誰かを好きになったっていうのが凄く意外で……ちょっぴり嬉しい。でも……」
光凛は揺らしていた体の動きを止め、顔を上げた。
「私としては、やっぱり寂しいよ。お兄ちゃんがどっかに行っちゃったら私一人になっちゃう」
「光凛……」
最近なんだか大人びてきたと感じていた光凛が吐露した本心。
それは父さんと母さんを亡くしてから、二人きりになって初めて俺に明かした、正直な気持ちだろう。
幾ら強がって見せても、所詮は十才の少女。甘えたい日もあるのだ。
「大丈夫だ光凛。俺はお前の前からいなくなったりなんてしない。いつだって俺達は一緒にいる。父さんと母さんの前で誓ったじゃないか」
そう。俺達は誓った。決して離ればなれにならないと。
そして……俺が光凛を守ると。
「お兄ちゃん……」
光凛が、眼を見開く。目の端には、透明な雫が貯まっていた。
「バーカ。泣くこたぁねぇだろ」
「な!? 泣いてないよ!! お兄ちゃんの馬鹿!!」
「ハイハイ。そういう事にしといてやるよ」
「うぅぅ……」
俺は、畳に手を着いて立ち上がる。そろそろ晩飯の用意を始めなくては。
背中から光凛が罵声を浴びせてくるが、俺はそれを無視して台所へと向かう。
すると。
「卓磨……」
風呂場から出てきた千歳が、暖簾を潜って台所へ顔を出した。
風呂場へは台所を通らなければ行けないので自然とここへ顔を出さなければならない。
「おぉ千歳。あがったんならすぐ髪乾かせよ。ドライヤーなら、制服乾かすのに使ってそのまんまにしてあるから、光凛に聞いてくれ。あ、お前もウチで飯食ってくか?」
と、俺は言いつつ気付いた。
千歳のその姿が、激しく目のやり場に困るということに。
艶やかな濡れた髪が、ほんのりと上気した真っ白な素肌に張り付く。明らかにサイズの合っていない、だぼっとしたシャツが、まるで下に何も穿いていないという錯覚を呼び起こす。
黒のタイツに覆われていた、その素足を存分に晒した今の千歳の姿は、俺のフェティシズムを多いに駆り立てる。
意図して、シャツを貸した訳ではない。ただ単純に着るものがないから仕方なく貸しただけだ。
しかし、これ程とは思わなかった。
男物のシャツに袖を通す、少女の姿の破壊力が。
「うん……食べる。卓磨の作る御飯……楽しみ」
千歳は淡々と、返事をする。先程まで掛けていた眼鏡を外しているためか、くりっとした大きな瞳の印象が強まった気がする。
「お、おう。食べてけ食べてけ。あんまり期待してもらっても困るけどな……」
俺は平静を装って、冷蔵庫の方へと向かった。料理を作る事に集中しなければ、いつまでも千歳を見ていそうだったからだ。
俺は冷蔵庫の中身を覗きつつ、「あ、そうだ」と思い出したように言う。
「家の人に言わなくていいのか? 電話の一本ぐらいしといた方が良いぞ?」
「…………」
一瞬の間が空いた。千歳は暫く無言を貫いて、ようやく一言。
「大丈夫……しなくていい」
若干いつもよりトーンの落ちた声で答える千歳。なんだか様子がおかしい。どことなしか声が震えている。
「本当に大丈夫なのか? 心配させても悪いし、メールぐらい送った方が……」
千歳の眉がつり上がった。それは千歳が見せた反発の姿勢。俺に対する怒りの現れ。
「大丈夫だから。卓磨は気にしなくていい」
強い眼差しを向けたまま、千歳が言う。これ以上の追求は許さないという拒絶を言外に含ませながら。
俺は「分かった」と若干気圧されぎみに呟いた。千歳が時々見せる感情の起伏に、俺は上手く対応出来ない。
それで千歳は、ようやく俺を見る視線を普段のモノへと戻し、居間の方へと消えていった。
――ふぅ。
俺は軽く息を吐き出した。一瞬の事とはいえ、緊張していたのだろう。
キスをした相手に対する気恥ずかしさと、千歳が向けた感情の高ぶり。
その二つに挟まれて、俺の精神が萎縮してしまった。
瀬戸千歳。どうにも慣れる事ができそうにない。
俺は頭を振って思考を断ち切る。そして緩慢な動作で右手に握った包丁を動かした。
今のこの悩みすらも、切り刻んで仕舞うように。
●
意外なほど和やかに食事の時間は過ぎた。
あの場面に居合わせた二人が上手く折り合うか、一人不安に駈られていた俺だったが、どうやらそれは杞憂に終わってしまった。
千歳と光凛。両者は意外なほどすぐに打ち解けた。
そして……これまた意外にも、始めに接触を試みたのは千歳の方からだったのだ。
千歳は光凛の頭を撫でた。なんの前触れもなく唐突に。
しかし、それが功を奏したのか、光凛はすぐに千歳になつき、千歳を「お姉ちゃん」と呼ぶまでになった。
年上の同姓。しかも教師よりも近しく、同年代よりも上の、まさしく『お姉ちゃん』だ。
兄とは違うその存在に、光凛は好奇心と嬉しさを体で表現していた。
光凛が喜ぶ姿は素直に嬉しい。父さんと母さんが死んで、更には体調が優れない日が続いていた事もあって笑顔が日に日に少なくなっていた光凛。そんな妹が、あんなにも楽しげにしているのだから、嬉しくない訳がない。
ただ……その相手が千歳というのは若干思うところも有るにはあるのだが……。
しかし、少なくとも千歳に対する不信感は和らいでいる。
時折見せる感情は、妖しく、そして狂おしい。けれど、無表情ながら心の底では穏やかな気持ちも持ち合わせている。
同じ釜の飯を食べて、心を開くというのは古典的だとも思うが、千歳は悪い奴じゃないと思った。変な奴という認識は変わらないけれど。
●
「じゃあね、お姉ちゃん!」
食事を終え、いよいよ千歳が帰る事になった。
光凛が玄関先に出て手を振る。
「うん……またね」
乾いた制服を再び身に付けた千歳は、無表情に答え、小さく手を振り返す。二人の距離は、それほど離れていない。
千歳は俺に目線を変え、
「……卓磨もバイバイ」
俺にも小さく手を振った。俺は手を振り返さない。
「おう。また明日」
俺はそれだけ言って、空を仰ぐ。
夜空には、眩い星の海が広がっていた。雨はすっかり上がり、月が俺達を見下ろしている。
明日も傘は必要ないだろう。きっと晴れに違いない。
千歳はペコリと腰を折ってお辞儀すると、スカートを翻してトコトコ歩き出した。
遠ざかる千歳の姿。
しばらく白のカチューシャが見えなくなるまで俺達は千歳の背を見続け、ようやく家のなかへと戻っていった。
久しぶりの俺達だけじゃない食事。その跡が、寂しくテーブルに残っている。
「光凛分かってるな? 薬」
俺はそれを片付けつつ、光凛に薬を飲むことを促す。光凛は免疫力が他人より少し低いので油断するとすぐに病気に掛かってしまう。だから食後には定期的に薬の服用が義務付けられている。
「ハイハイ、分かってるってば」
と、楽しさの余韻に浸っていた光凛は強引に現実へと引き戻された事で、大きく肩を落とした。
口煩い兄ですまんなと思いつつも、光凛がピルケースを取りだしたのを確認し、再び片付けに戻る。
「ん?」
食器を片付けるなか、俺はあるものを視界に捉えた。
「これって……アイツの……」
それは千歳の掛けていた筈の眼鏡だった。
食事中は眼鏡を掛けていなかったが、まさか外しっぱなしで忘れていくなんて……。
今から走って間に合うだろうか……。いや、千歳の家の方向は分からないし、第一バイトの時間も迫っている。
――明日学校で返せばいいだろう。
俺はそう思って、片付けに没頭した。
緩やかな時間が再び流れ出す。
しかし、この時の俺は知らない。
この日の夜に、あのゲームの存在を知る事になるだろうという事を。
そして――千歳が忘れたこの眼鏡の持つ意味を、俺はまだ分かっていなかった――。