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二話 曇天心模様

 俺は困惑していた。

 

 ――試合、対戦、決闘……。

 

 様々な言葉が頭の中で湧いては消える。

 何故、目の前の少女は俺に竹刀を向けているのか。そして何故、試合など申し込んできたのだろうか。

 考えてもその答えは出ない。しかし向けられるその視線に秘められた強い感情は、俺を此処から逃がさないと告げていた。


「お、おいちょっと待てよ佐伯! いきなり何を言い出すんだお前は!?」

 

 このピリッとした空気に堪えかねて、割って入る明智。

 しかし佐伯は、耳に届いていないかのように竹刀を俺の喉元へ突き付けたまま動かない。

 イエスかノーか。俺の言葉だけを彼女は待っている。

 だが既に、俺の答えは決まっていた。


「君が何を考えてるのか分かんねぇけど、それは無理な相談だ」


「……何故ですか?」

 

 眉を寄せ、キッと強い視線を向けたまま佐伯は問い返す。返答によっては、そのまま竹刀で打ち抜かれそうな勢いだ。


「見ろよ……」

 

 けれど俺は、臆する事なくそう言って、左手を佐伯の目の前へ伸ばした。

 痛々しい傷痕が残る、その手を。


「――!」

 

 目を見開く佐伯。その反応からして、あの事件の事は知っていても、この傷の事までは知らないらしい。


「分かるだろ? 剣道において左手は生命線。今の俺の手じゃ竹刀なんてとてもじゃないが握れない。箸より重いもんは持てねぇよ」

 

 左手には大きく刻まれた一本の線がある。ピンクに変色したそれは中指に沿って手首近くまで伸びている。神経にまで至った傷は、俺の手から自由を奪った。それもこれも自業自得には違いないのだが。

 

 呆然とその手に視線を這わす佐伯。

 だが暫くすると佐伯は、苦虫でも噛み潰した様に表情を歪ませ、


「どうしてそんな……!!」

 

 ふっと力を抜いてゆっくりと竹刀を下ろした。

 口から溢れたのは言葉にならない叫び。

 肩を震わせるその佐伯の様子は、ともすれば必死に何かを堪えている様に見えた。

 

 佐伯が何を思い、俺に竹刀を向けたのかは分からない。だが少なくとも、俺との試合を望んでいた事は確かだった。

 けれどそれは叶わない。俺が起こした事件が、たとえ他の人を傷付けていようとも、現実は残酷なまでに事実を突き付ける。

 仮に時が戻ったとしても、俺が起こした事件の結果は変わらないだろう。俺は何度だってこの結果を選ぶから。


「悪いな。期待に答えられなくて」

 

 俺はそれだけ告げ、踵を返す。これ以上の言葉は必要ない。

 多少突き放す様な声音で言ってしまったかもしれないがこれでいい。

 

 一瞬だけ、佐伯が「待って」と言った気がしたが、俺はそれをあえて聞かなかった事にした。

 彼女が俺に向けた最初の態度が敵意であったのなら、それは最後まで貫くべき事。俺もそれ相応の対応で応えなければ、と思った。

 

 足取りは最初此処に来る時とはうってかわって好調だった。それは意図せず、この場から逃げたいという思いがそうさせているのだろうか。

 俺の耳には、目障りな雨の音が強く響くだけで、その答えは出るはずもなかった。


      ●


 後悔するのは、そう時が経った後の事ではなかった。

 結局のところ、俺が武道場へと足を運んだのは、年下の少女と一悶着起こす為ではなく――ただ、物置にある置き忘れの傘を手に入れる為だったはず。

 

 だというのに、あろうことか俺は、まるで逃げるようにして武道場を飛び出して来てしまった。

 もう彼処に戻るのは不可能だろう。ああやって出てきてしまった手前、何食わぬ顔で傘を取りに戻るなどと出来うる筈もない。

 下手なプライドが邪魔しているのではなく、俺の居場所が彼処には無いと、改めて思い知ったからというのもあるのだが。


「さて……どうするかな……」

 

 何気無しに俺は呟く。また振り出しに戻ってしまった。

 とりあえず、再び教室まで引き返した訳だが、ここからどうすればいいのだろう。

 時計を一瞥すると、先程教室を出て行ってから十分も経っていない事に気付く。感覚的には一時間は経った様な気分でいるが、十分程度では雨脚はいっこうに弱まる気配を見せていない。


「ん?」

 

 ふと、俺の視界にあるものが飛び込んできた。

 教室の窓越しに見えるそれは、特別教室が多く構えられた特別棟の方から、渡り廊下を伝って歩いてきている。

 教室からはよく見えない。しかし遠目に見えるそれはまるで本のお化けのようだと思った。

 

 俺は教室を出て渡り廊下の方へと向かう。

 山の様に積まれた本が、俺の方へ向かって歩いてくる。

 確かに俺が見た、本のお化けに違いない。だがそのお化けには足があり、正確にはその足には学校指定のシューズがしっかりと履かれていた。

 

 つまり――この学校の生徒。

 両腕に抱え込まれた大量の本の数々が、その人物が一歩踏み出すにつれ、ゆらゆらと絶妙なバランス感覚を見せる。

 見ているこちらがそわそわしてしまう様なそれを、その人物は全く気にする様子もなく、歩を進めていく。

 

 徐々に近付いてくる本のお化け。しかし同時にその人物の様子も鮮明化してくる。

 髪が長い。それも腰まで伸びた漆黒の髪。白のカチューシャ。

 本の影からちらりと覗いた、長い前髪に隠れた素顔は表情の一切を廃した人形のよう。

 俺はその人物を知っている。

 

 ――瀬戸千歳(せと・ちとせ)。俺と同じクラスの女生徒だった。

 

 彼女に対する俺の印象は、他人を寄せ付けず常に一人でいるという事だろう。

 教室での彼女は、表情を表に出すことがない。眼鏡の下に浮かべた仏頂面で虚空を眺めているか、愛読書へと視線を落としている事が殆ど。友人らしい友人も居ないのか、昼休みなどはそそくさと教室から出て行くのをよく見かける。

 

 そんな彼女が放課後、どうしてそんな大量の本を抱えているのだろうか、と俺が今疑問に思ったその時だった。


「あっ」

 

 短い呟きと共に、ドサッと俺の目の前まで迫っていた本の山が崩れた。

 瀬戸は何かに躓いたのか、バランスを崩し本を宙へと投げ出した。

 盛大に、大小様々な本達が宙を舞う。

 

 刹那の中で、俺の思考が連続する。

 宙に投げ出された本。拾うか? いや、無理だ。ひとつやふたつならまだしも、本の数は両手の指に収まらない。ましてや俺の左手じゃ本は持てない。

 なら自分の身を守るべく回避に準じるか? 残念。制服の裾を瀬戸ががっちり握り込んでいるため、動けない。

 だがこのままでは、俺と瀬戸どちらもが本の下敷きに。


「あぁっ、クソッタレ!!」

 

 俺はその身を投げ売って、瀬戸を懐に抱え込んだ。

 既に裾をつかんで、半ば腰を折っている瀬戸の背中に手を回して、それに覆い被さる形になる。

 女子の柔らかな感触と、扇情的な鼻孔をくすぐる甘ったるい匂いに、クラクラ来てしまいそうになるのをなんとか堪え、俺は目を瞑った。

 

 ドサドサっと、本が頭や背に角をぶつけてくる。やべぇ、普通に痛ぇぞ。

 「あっ!」とか「うぉ!」とか妙な声を出して痛みと衝撃に耐える事、数秒。

 ようやく止んだ本の雨に、「なんて災難だよ」と俺は嘆息して体を起こした。

 

 そこで――俺はハッと気付く。

 咄嗟にとった行動と言えど、端から見れば今の俺の行動は、女子を襲うケダモノではなかろうか。

 しかし、芳醇な女子の持つ甘い香りと柔らかさは、荒んだ男子高校生である俺の、唯一健全であると言ってもいいモノを反応させるのには十分すぎる破壊力だ。

 

 半ば無意識で、俺は飛び上がるように身を仰け反らせる。このままでは、俺の理性が危うい事になりそうだった。

 しかし、何かに引っ掛かった様に俺の体は抱えた女子から離れない。

 思えばそれもその筈だった。

 彼女が俺の制服の裾を掴んだまま、離していないのだから。

 ピクリと、少女の首が動く。掴んだ裾はそのままに、目の前の少女は顔を上げて俺を視界に納める。


「…………」

 

 硬直。いや……普段から瀬戸千歳という少女の態度はこのようなモノだ。

 ただそこにあるだけのマネキンの様に、彼女は瞬きひとつせず、俺の瞳を覗き込む。

 俺も応じるように、瞳の中の自分を見た。

 

 交わす視線。硬直する両者。

 裾から手を離すように頼み、ただ踵を返せばいいだけの筈なのに、何故だかそれが出来ない。

 

 体が何かに縛られたように、指一本動かせない。

 一体俺の体はどうしてしまったというのだろう。思考すら鈍くなる作用が、瀬戸千歳の視線には含有されているとでも言うのか。


「……ねぇ」

 

 と、突然耳に届いたその声。鈴が鳴ったようなその声音は、目の前の少女が発した声だ。

 瀬戸はそのままの表情で、言葉を続ける。


「本、拾って」

 

 短く呟かれたその言葉。有無を言わさぬ強制力が、その言葉には有った。

 俺は力なく、あるいは呆然と「……はい」と頷き、本の回収作業へと移ったのだった。

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