十九話 終わりの始まり
「お疲れ、卓磨」
静かな夜の帳が落ちるなかで、月の明かりだけが俺達を照らしている。
千歳は机に寄りかかりながら、俺に労いの言葉を投げた。
「勝ったんだね、おめでとう」
頬を朱に染めた千歳は心から嬉しそうに笑った。
魅力的な表情。蠱惑的なそれは、俺の欲求を刺激し今すぐにでも抱き締めてしまいたくなる。
けれど、それは出来ない。今の俺はそんな気分になれない。
俺は勝った。
明智大和を降し、勝利をこの手に掴んだ。
それは俺が求めるモノに一歩近付いた事を意味している。本来ならば喜ばしき事の筈だ。なのに……、
「卓磨……?」
俺の心は晴れない。
明智が戦いの中で語った思い。そしてそれに応えてやる事が出来なかった事への無力感が俺を苛んでいる。
身勝手な考え方が招いたこの結果は、明智だけでなくもっと大勢の心を傷付けているのかもしれない。そう思うと、改めて俺のした事の重大さが身に染みて分かる。
そして、俺が明智を倒したことで起こる事がある。
明智が受けるペナルティ。裏生徒会における絶対のルール。
今すぐに明らかになる訳ではないが、こうして決着がついた今、明智は直に何かを失うのだろう。
自分の大切なモノを一つ――。
それが意味するところは物凄く広い。人によって定義が曖昧だからこそ、思いもよらないモノが失われるかもしれないという危険さえ孕んでいる。
あのいつかの男子生徒のように、自身の人格すらも歪めてしまうような事もあるかもしれない。
だが、明智はそんな事は承知の上で俺との戦いへ身を投じた筈だ。
無論俺も同じ。このゲームに参加するうえで、生半可な覚悟じゃ臨めないと俺は思った。
自分の願いを手にする為の覚悟もそう。何かを奪うという覚悟もそう。
揺らぎがあってはいけないのだ。
芯を強く持たなければ、到底この戦い生き残れない。
だというのに、
「卓磨……どうしてそんなに悲しそうなの?」
分かっている。これが俺の弱さだということは。
俺は捨てられない。覚悟を決めたと思い込もうとしているだけだ。胸のうちで幾ら呟こうとも、それは形ばかりの覚悟だ。
――薄っぺらい。だからこうして辛くなる。
光凛の事だけ考えればいいだけなのに、俺は余計な事まで思ってしまう。光凛の命を救うという事に俺の決意は揺るがない。しかしそれに付随する数々の要素が俺の思考を掻き乱すのだ。
本当にすまない明智。俺はお前を……。
「大丈夫だよ、卓磨」
と、その時だった。
肩を優しく抱く何者かのぬくもり。優しく包み込むような声。
「大丈夫。大丈夫。卓磨は一生懸命頑張った。だから落ち込む事なんてない」
半ば崩れ落ちそうになっていた俺を千歳は優しく抱き留めた。
表情は柔らかく、まるで聖母の様に微笑んで、千歳は俺を抱き締める。
「怖い事なんてない、私が居てあげるから。卓磨は優しい。だから悲しむ。けれどそれでいいの。私が卓磨の優しさを知っている限り、貴方は貴方であり続けられる」
千歳は滑らかに言う。俺はそのままの俺でいいと言う。
誰かから何かを奪う事が怖いと感じているこの俺が、優しいとさえ言う。
「だから戦って。貴方の目的を見失っては駄目。奪えばいい。勝てばいい。その数だけ泣けばいい。苦しめばいい。その代わり、私が全てを受け止めるから」
俺はこの少女を改めて恐ろしく思った。
不思議で、表情が読めなくて、なに考えてるのか分からない様なこの少女。
兄を亡くし、自分すら壊し、誰かを強く求めている。
俺はこの少女を受け入れたと思っていた。
誰かがこの役目を引き受けなければいけないと、そう思っていた。
――違う。そうじゃない。
受け入れたんじゃない、受け入れさせられたんだ。
張り巡らされた蜘蛛の糸に絡めとられ、動くことすらままならない。
生殺与奪の権利を奪われ、絶対的な優劣が生まれている。
だが、それすらも心地よい。
その言葉が、俺の心の琴線に触れる。
籠絡されていく。これはもう依存に近い。
俺はただ、瀬戸千歳に呑み込まれていく。
「卓磨……おいで」
俺はもう、止まれないところに居た。
●
繰り返される戦いの日々。
終わりが来ず、途方もない。神経だけがすり減らされていく。
だが、こうでなくてはいけない。
俺が進むのは略奪の道。奪って、奪って、奪って、そして手に入れる。
許されてはならない。憎まれなければならない。
俺が倒した奴等は皆が皆、明智のようにすんなり引いてくれた訳じゃない。
中には現実世界で俺を襲った奴もいた。俺のPAを奪い、俺から参加の権利を奪おうとした奴もいた。
しかしその度に俺を助けたのは、意外な事に、俺を誰よりも毛嫌いしているであろう彼女――佐伯蛍だったのだ。
佐伯は俺を恨んでいる。彼女は俺に敬愛する先輩を奪われたのだから。
明智は裏生徒会で負け、剣道部を退部した。
理由は分からないが、それに俺との一戦が絡んでいるだろうことは間違いない。
明智が抜けたことで男子剣道部はバラバラになってしまった。佐伯は女子剣道部だから直接的な被害は無いものの、それでも事情を知る唯一の人物として、俺に対する恨みは相応の筈だろうに。
けれど彼女は俺を守る。
年下の、それも女の子に守られているという俺の自尊心など微塵も考えちゃいないその行動は、俺からすれば理解しがたい。
何故、と思い直接訊いてみた事もあった。
だが、返ってきた答えは、
「私は貴方を許さない」
と、答えにならないモノだった。
俺を嫌っている事は間違いないのだろうが、彼女なりに何かの考えの元に行動しているのだろうと、無理矢理自分を納得させてこれ以上考える事をやめた。
有り難いとは思うが、いざとなれば話は別だ。
彼女もまた俺の前に立ちはだかる敵なのだから。
変わった事といえばもう一つ。
千歳が俺の家に住むようになった。
学校が終わり、そのまま帰宅。寝食を共にし、学校へ。
一人きりだった生活がまた二人になった。
しかし俺の望む現実とは違う、齟齬のある風景。
だが、千歳は幸せそうだ。そして何より俺自身が今のこの関係を望んでいる。
それはある種の共依存。互いが互いを求める共同体としての在り方。
俺が戦えるのは千歳のお陰であり、俺がいることで千歳は千歳でいられる。
傷の舐め合いかもしれない。無くしたモノを代わりのモノで必至に埋めようとしているだけなのかもしれない。
そんな俺を見て、栃原は言った。
『君達は壊れているね』と。
そんな事言われなくたって分かっている。俺がかつての俺で在り続けているだなんて思わない。
とっくのとうに破綻している。それが二人一緒にいるだけだ。
そして――栃原が俺の前に現れる事は無くなった。
俺の前から、また一人消えた。
俺はそうして失っていく。何かを手に入れる為に、一つずつ羽をもがれていく。
だが、千歳がいる。
俺には千歳が居てくれる。
それだけで充分だった。それさえあれば戦える。
けれど、それは唐突に終わりを告げる。
だがそれは、決して唐突なんかじゃなかったんだ。
初めから決まっていた。こうなるだろう事は最初から分かっていた。
完全なる予定調和。来るべき時が今だったということ。
――あぁ、これで終わるのか。
そう思って俺は、PAに届いた通知を見るのだった。
裏生徒会選挙最終戦 織田卓磨 対 瀬戸千歳
最終戦――。つまり、この戦いが終われば、裏生徒会のメンバーが揃う。
俺達以外の他の奴等は出揃っているということ。
千歳から聞いた話によればその人数は五人。
会長、副会長、経理、書記、事務。
それらがこの学校における裏生徒会。
同様に、俺達のように学校内で戦いを繰り広げ、裏生徒会に該当する五人を選び出している所も在るのだろう。
そして、それらが一同に会し、潰し合う。
ということは、最終戦と銘打ってるこの戦いの後にも戦いは続くのだ。
一体いつまで……と不満を洩らす事は簡単だ。
けれどそんな奴が何かを掴める筈がないだろう。
掴む為なら何度だって戦ってやる。そういう気概でなければ残る事など出来ないのだ。
だからこの戦いは、通過点。
依存し合う関係に終わりを告げ、新たに踏み出さなければならない。
どちらか一方しか残れないのなら、やるしかないじゃないか。
俺は空を見上げた。
夜。星一つない、漆黒の世界。
街灯だけが明かりとなって俺達を照らしている。
雲が濃く、折り重なっている。どうやら雨が降りそうだ。
――まったく、嫌になる。
どうしてこうも、何かある時は決まって雨が降りそうなのか。
俺に対する当て付けなのかもしれない。神様がいるとしたら、そいつは相当俺を嫌っているに違いない。
確かに神頼みなんて柄じゃねぇし、信仰心も持ち合わせちゃいねぇが、今日この時ぐらいは味方して欲しいものだ。
何せ相手は、あの――
「……卓磨」
悪魔みたいな女なのだから。
「始めからこうなる事は分かっちゃいたのさ。お前が俺をこのゲームに誘ったあの時から」
そう、分かっていた。どれだけ都合が良いと思っても、それは現実というなの生き物が見せる気まぐれにすぎない。こうして俺達が対峙する可能性はいつだって傍らに存在し続けていたというのに。
「結局のところ、俺はこうしてこのゲームにすがる事しか出来ない能無しだ。必死に何かを追い求めたところで、あるのは只の残酷な現実って奴だけだ。……まぁ、このゲームだって現実には違いねぇんだろうがな?」
現実とはなんだ? 空想とはなんだ? それが定義される条件は一体どこにあるというのか。俺がこうしてこの場に立っているのは紛れも無い俺の意思の筈で、戦い続けるこの日々も選びとったゆえの結果だ。
だからこれは現実。空想に限りなく近い、触れれば壊れてしまうような脆いそれ。
「だからこそ俺は信じた。信じてこのゲームに参加して戦った。いろんな奴の大切なものを奪ってここまで来たんだ。後には引けねぇ、負けられねぇ。たとえそれがお前であってもだ」
だから行こう。ここが俺達の幕引きだ。
「後悔、してない……?」
「俺は気付いたんだよ……このクソッタレの現実は、時々気まぐれを起こして手を差しのべる時があるってな。だから……俺は、その手をこの手で掴み取る。後悔してる暇なんか無ぇよ」
「そう……」
「お前も同じだろ? 欲しいものが有るから……叶えたい願いが有るから此処にいる……なら来いよ。お前の全身全霊の、正真正銘の嘘偽りの無い本心ってやつをさらけ出してみろ。幸い此処には俺とお前の二人しかいねぇ。なぁ、どうなんだよ千歳?」
疑問に思わない事は無かった。瀬戸千歳が何を考え、何を望むのか。
結局俺は彼女とこの二週間共に過ごしてきたが、それが分かる事は無かった。
しかしそれは今日、これから分かる様な気がしている。
千歳は俺に何かを訴えている。そのピースが、彼女が俺に託した眼鏡だと思う。
声なき叫びを俺は聞くことが出来るだろうか。
「……貴方の道はここで終わり。――サヨナラ、卓磨」
俺はこの悲しき少女を救うことが出来るだろうか。
俺の壊れた手じゃ何も掴めない。明智はあの時そう言った。
だけど、俺は今から何かを掴もうとする。
諦めや、停滞はこのゲームに参加するときに捨ててきた。
――なぁ千歳、俺はお前が好きだったよ……。
声には出さず、俺は胸のうちで溢した。
お互いが、お互いを求め合う、依存した関係は終わりを告げる。
そして、この日が本当の始まりの日。
俺が俺になり、千歳が千歳になる、これまでが終わり、この次が始まる日。




