十一話 迫る刻限
「卓磨……先帰っていいよ。私、まだ用事が残ってるから」
千歳が制服のスカーフを直しながらそう言った。
今はだいたい六時半。俺としても、そろそろ帰らなければならない時間だ。
光凛は既にピクニックから帰って来ているだろうし、当然お腹も空かせているだろう。早く帰って飯を作ってやらなければ。
けれど、その千歳の申し出は少し意外だ。今日もどうせなら家に上がってもらい、夕飯を一緒してもよかったのに。無論光凛は断るはずが無いし、むしろ喜んで賛成するだろう。
しかし千歳がそう言うのであれば仕方がない。俺が強引に誘いでもしたら、まるで俺が千歳に依存しているみたいだ。
そんな事はあり得ない。俺は千歳を受け入れた。しかしそれは俺自身の世界が壊れる要因にはなり得ないという確信を持った故だ。
千歳の狂依存は確かに危うい。が、見方を変えればどこまでも一途だとも言える。
盲目的な考え方だとも思うが、決して間違っているとも思えない。俺は千歳が求めるのであればそれに応えよう。そう、決めたのだ。
「……その用事ってまさか、裏生徒会ってやつじゃないよな?」
けれど、疑念は残る。未だに裏生徒会に対する俺の警戒心は微塵も緩んではいないのだから。
「違う。図書委員の仕事」
千歳はまた、表情を読ませない普段の仏頂面へと戻ってしまう。その顔からは、言葉の真意は図れない。
先程みたいに病的なまでに感情を高ぶらせるのもどうかと思うが、再びこれでは流石に極端過ぎる。
俺は「……そうか」と頷いた。完璧に納得はしていないが、ひとまずこの場はこれで収めようと思った。
「じゃあまた明日」
千歳にそう告げて、俺は図書室を後にする。千歳が小さな声で「また明日」と返すのを聞きつつ、俺は扉を閉めた。
そして、玄関まで歩いた所で、
「おう、織田。昨日といい、お前が放課後まで残ってるなんて珍しいじゃないか」
聞き慣れた声が俺の耳に届いた。
俺は声の方へ振り向く。
「明智……と、佐伯……」
よく見れば、明智の隣には佐伯の姿があった。二人とも昨日のような胴着ではなく、天莉高校の制服を身に付けている。
佐伯に至ってはアップにしていた髪を下ろしており、多少印象が違って見えた。
けれど、俺の彼女に対する印象が覆る程の効果は生まれない。
彼女自身、昨日の事を思い出しているのか俺の顔を見ようとはしない。俺としても同じ気持ちであり、早くこの場から立ち去りたいというのが本音だ。
思わず佐伯を視界に入れた時、「げ!?」と洩らさずに済んで本当に良かったと思う。また、竹刀でも突き付けられたらたまったもんじゃない。
そんな事を思いながら、なるべく平静を装いつつ、しかし早く帰りたいオーラを出していると、
「うん? お前、なんかスポーツでもしてたのか? なんか汗掻いてるけど」
近付いてきた明智が妙な事を言った。しかし、核心を突いたその問いは当たらずも遠からず。
俺は慌てて否定する。
「べ、別に何も。なんか最近暑くて……」
「そうか? 確かに面着けてれば暑ぃかもしんねぇけど、今十月だぜ? 寧ろ肌寒くなってきた頃だろ」
と、真顔で返す明智。
「……ははっ、まぁ俺暑がりだから」
などと苦しい言い訳で乗りきろうとすると、ピリッとした鋭い視線がそんな俺の心中を見透かすように貫く。
その視線を放っているのは、明智の半歩後ろに立つ佐伯だ。今は竹刀を持っていないが、抜き身の刀がそこにあるかのような緊張感が漂う。
俺が警戒を払っていると、佐伯はボソッと呟き、溜め息を溢し、
「明智先輩。織田先輩は彼女でも出来たのではないですか?」
と、とんでもない事を言ってのけた。
すかさず明智が反応する。
「そうなのか織田!!」
「な、ち、違ぇよ!! 佐伯、出鱈目言うなよ!」
「出鱈目? そうでしょうか。織田先輩のその慌てた様子を見ればあながち間違いでは無いように思えますが?」
それに、と嘲笑ぎみに口端を吊り上げる佐伯。
「首に跡が残っていますよ」
決定的な一言。覆すだけの言葉が俺には無い。
「つ、つまりお前放課後残って教室で……!? 本当にいるのか彼女! 誰だ!」
興味津々に、掴み掛かる勢いで肉薄する明智。そのデカイ身体で迫られたら、こちらとしてはかなりビビる。
「べ、別に千歳はそんなんじゃねーよ!」
その迫力に押されて、俺は思わぬ事を言ってしまう。が、これがまずかった。
明智の顔が一瞬にして強張る。佐伯も同様に、怪訝な眼差しを俺に向けた。
そして明智は、恐る恐るという風にして言った。
「織田……千歳っていうのは、まさか瀬戸千歳の事じゃないよな?」
「そのまさかだ……」
俺はその明智の妙な質問におかしな雰囲気を感じつつも、あっさりと肯定する。
すると明智は、
「お前……アイツがどういう奴か分かってんのか……?」
思わぬ程低い声でそう言った。
「なんだ? お前も栃原と一緒で心配してんのか? 生憎だが、俺はそういう所もひっくるめてアイツを受け入れたんだよ」
俺はいつの間にか、千歳との関係を否定するどころか肯定していた。簡単な覚悟で千歳を受け入れた訳ではないという安っぽいプライドがそうさせたのか、明智のその千歳の事を腫れ物扱いするような雰囲気が、何故だが気に入らなかった。
「受け入れた……だと? お前、どこまで知っててそんな事言える!? アイツはなぁ――!!」
「明智先輩!!」
今度は本当に胸ぐらを掴み掛かった明智を、佐伯が制止する。冷ややかな眼差しの中に隠れた思いは、確かに明智と同じモノだ。本来なら、佐伯も俺に対していつ行動を起こしても不思議じゃない。
しかし、一見そんなものを感じさせない様な声音で、佐伯は言葉を重ねる。
「一度落ち着いてください。まだ、『そう』と決まった訳じゃないですよ」
「くっ……。スマン……取り乱した」
明智は俺の襟から手を離し、唇を噛んだ。俺がその様子を妙だと感じる暇もなく、佐伯は続けて俺に振る。
「織田先輩……私も貴方に聞きたい事があります。貴方は今、裏生徒会というゲームに参加していますか?」
「――!?」
まただ。また、その名前。今日に限ってよく聞くワード。
――裏生徒会。俺はこの単語について、その意味を殆ど理解していない。
栃原が言い、実際には既にその目で見ていた裏生徒会。
千歳とあの男子生徒が不思議な現象のもと繰り広げた戦闘。それが裏生徒会というゲーム。
千歳の説明は正直言えば、その全容を知るには不十分だった。願いを叶えるだとか、残った五人だとか、負ければ大切なモノを失うだとか。
突拍子もなければ、信憑性も薄い。そんなゲームが、何故あたかも存在しているかのように、コイツらは言うのか。
まるで俺だけが知らない様な感覚。孤独感と疎外感。それらが俺の世界を変えようと壁を叩き始める。
――危険だ。俺はそう思った。
これ以上知ってはいけない。知ったら俺は変わってしまう。
そんな直感が、俺の次の言葉を呼ぶ。
「いや……そんなゲーム知らないな。聞いたことも無い。新発売のゲームか?」
と、俺はとぼけて見せた。
実際には間違っちゃいない。俺は確かに裏生徒会について、殆ど知らないのだ。
俺の言葉に、明智は安堵を、佐伯は不信を浮かび上がらせる。
明智は素直な性格だから、俺の言葉を真に受けたようだが、佐伯はどうやらまだ疑っている様子。
これ以上ここで話すのはマズイかもしれない。佐伯に見抜かれる。
「話はそれで終わりか? 俺は帰るぜ?」
俺は再び踵を返す。不審さを出さないように、なるたけ自然な動作で。
「ちょっと待ってください。話はまだ終わっていません」
「なんだよ佐伯。知らないって言ってんだろ。しつこいな」
まだ絡むのかと内心舌打ちしつつ、俺は答える。
佐伯も同様に、苛立ちを滲ませながら、「申し訳ありません」と言葉だけの謝罪を口にする。
「瀬戸千歳は貴方に何も言って来なかったのですか? 裏生徒会に参加しろ、と」
「そんな事一言も言わなかったけどな」
「有り得ない! 彼女は管理委員会の中で最多の参加者を出している人物! 貴方を誘わない訳がない!」
息荒く、半ば叫ぶように佐伯は言う。全く言っている意味が理解出来ないが、彼女のその必死さだけは俺にも伝わってくる。しかし、それが何に向けられたモノなのかまでは分からないが。
明智が佐伯の肩に手を置く。先程とは逆に、明智が佐伯に落ち着けと言っているのだ。
明智は佐伯の代わりに、言う。
「織田……まぁその、悪い事は言わないから瀬戸千歳と関わるのはやめた方がいい。アイツの言葉は嘘だらけだ、信じた分だけバカを見る」
「分かってるよ。栃原にも言われた」
「栃原も……」
明智は一瞬驚きで目を見開いたが、すぐに言葉は続く。
「ならいいんだ。お前が分かっているなら。……これも栃原に言われたかもしれないが、裏生徒会にだけは絶対に参加するな。守りたいモノがあるなら、特に」
そう言った明智の顔は、泣き笑いの様に見えた。実際にはそうではないのだろうが、明智の心情が、俺には浮き上がって見えた。
「分かったよ。俺はそのゲーム知らねぇけどな」
俺は靴を履き替え、後ろ手に手を振った。
二人はそれ以上何も言う事なく、俺も、何も言わなかった。
●
家には、誰もいなかった。
既に帰っている筈の光凛の姿は何処にもなく、そこにある筈の痕跡は全く見つからなかった。
俺の中で不安が心を掻き毟る。
事故に巻き込まれた? 迷子になった? 旅先で病気が悪化した? なら何故俺の所へ連絡が来ない?
おかしい。何が起こっている?
ダメだ。思考が纏まらない。どうするのが最善だ?
とにかく学校に連絡だ。話はそれからだ。思いの外ピクニックが伸びているだけかもしれないじゃないか。
俺は電話に手を伸ばす。旧型の子機だからいちいち番号を打ち込まなければならない。
紙に書かれた連絡先を打ち込む作業が酷く苛立たしい。
プルルという電子音すら苛立ちの対象だ。早く出やがれ糞が!
『もしもし』
女性の声だった。
「もしもし織田と申しますが、四年生のピクニックはもう終わりましたよね? 光凛がまだ戻っていないのですが」
俺が名乗ると、女性は慌てた様子で説明を始めた。
「織田さん? お兄さんですか!? 大変なんです。光凛ちゃんが急に体調を崩してしまって、救急車で運ばれたんです!」
「な――!? なら何で俺に連絡くれなかったんですか!」
「それが……光凛さんの保護者だと名乗る人が、自分から織田さんに連絡すると仰いまして……」
――保護者だと? まさか……。
「その人はなんと名乗ったんですか!?」
「えぇっと確か、羽柴……と」
――羽柴……だと!? 何故、今頃になって……。
受話器を持つ手に、力が籠る。歯を必死に食い縛り、怒りが肉体を支配する。
『どうしました? 織田さん?』
俺はその耳障りな声を一刻も早く消すべく、受話器を叩き付けた。
その時だった。
再び子機が鳴動する。旧型は電話の相手を表示しない。
プルルと喚く子機。今はそれどころではないのに。
俺は煩いコールを消すために仕方なく電話をとる。
すると、
「久し振りだな卓磨」
「あんたは……!?」
重厚な声。遠雷の様に脳にまで響く忌々しいその声は忘れるはずもない。
「あんた……か。その口の効き方は、やはりあの男の息子だな」
「俺はあんたの妹の息子でもあるんだけどな。羽柴オジサン?」
「何を言う。お前が私の妹の息子だと? 笑わせるなよ。妹の子はただ一人、光凛だけだ。お前はあの男の前妻の子だろう」
「母さんはそれでも俺を愛してくれたけどな? まぁ今はそんな事はいいんだよ。光凛はどうなった? 無事か?」
言いたい事は山ほど有る。この男に対する恨みは言葉にしきれないほどなのだから。しかし今はそれどころではない。
「光凛は無事だ。今は……だがな」
その含みを持たせた言い方が、俺に嫌な予感を生む。
「どういう……意味だよ……?」
羽柴は俺に、絶望を叩き付ける。
「光凛はあと一年で死ぬ」
俺の世界は、終わりを告げようとしていた。