十話 契約
俺と千歳は場所をかえた。
このまま廊下で続ける話ではない、という事を感じ取った俺が、場所を替える事を提案したのだ。
まず第一に、項垂れた男子生徒をほっぽったままという状況がまずい。実際にこの状態を生み出したのは千歳だが、俺にはまったく――とは言えないにしても、責任は無いに等しい。
だから現在の状況は、変わらないことを望む俺からすれば好ましくない。騒動はもうこりごりだ。
よって、場所は移って図書室。
外は雲におおわれ、光があまり入ってこない為か、中は薄暗く相変わらず埃臭い。ここだけは最先端の技術が随所に散見される天莉高校においても異なった世界を感じさせる。
俺が扉を閉めたのを確認した千歳は、開口一番こう言った。
「卓磨……『裏生徒会』はね、この学校で行われているゲームの事……」
千歳がこちらをまっすぐに見詰めている。手は後ろ手に組まれ、どことなしか瞳には喜色が浮かんでいる。
俺はその、唐突に始まった千歳の語る言葉に耳を傾けつつ、警戒心をよりいっそう高めた。
それは栃原が昼休みの時にボソッと呟いた、『裏生徒会』という不可思議な単語が、千歳の口から溢れたからだ。
結局栃原からは説明を受けず仕舞いだったその『裏生徒会』。千歳が知り、栃原が知っていて、俺が知らないというのもどうかと思うが、あの時の栃原の神妙な面持ちを思えばどうやら安易に知ってはならない事なのかもしれない。
だからこそ気を引き締めた。只でさえ千歳は油断できないヤツだ。こいつが語る言葉は全て裏があると思っておいた方がいいに決まっている。
千歳はそんな俺の心中を察する事なく、説明を続けていく。
「裏生徒会は願いを叶える場所。叶えたい願いや思いを掛けたゲーム。戦って、戦って、戦って、最後に勝ち残った五人がその願いを叶える権利を有する」
「けどそれはゲームの話だろう?」
千歳は首を振ってやんわり否定する。俺から来る反応に、嬉しそうに笑みを浮かべる。千歳は普段の能面に覆われた表情を崩し、感情を表に出している。
「違う……裏生徒会はただのゲームじゃない。テレビに繋いで、画面の中で対戦なんてしたりしない。戦うのは自分自身。空想と現実の境界が限り無く薄くなった閉鎖空間での対戦」
卓磨も見たでしょ、と千歳は言う。
「見た……?」
「卓磨今更知らない振り? 昨日ちゃんと居たはず。あそこに」
千歳は後ろ手に組んだ手をほどき、俺をピッと指差した。
そのまま指は窓の外を向く。俺の視線はその細く白い指に固定され、導かれるようにその場所へと向く。
それは校門だった。電子センサー類が搭載された、不可視の檻。生徒達が手を振り出ていく姿が見える。
記憶の扉がまた開く。思い出すまいと閉じ込めた記憶は、どうやら鍵が壊れているらしく、朝から何度も顔を覗かせる。
再び甦るあの光景。
千歳と男子生徒が起こす、空想の具現化。
対峙する二人の様子は、確かに対戦と呼んでも良かったが……。
「そうだよ卓磨。昨日卓磨が見たモノが『裏生徒会』。正確に言えば、選挙戦」
俺の疑念を肯定する千歳。
「違うな。あれは俺の見た空想だ。お前は出鱈目を言っている」
だが俺は信じない。あの光景は幻だ。
「違わない。卓磨が見たものは確かに起こっている。何故なら裏生徒会には、厳然としたルールが存在しているから」
「ルール?」
「裏生徒会に敗れたモノは、自身の大切なモノを失う。そういうルールがこのゲームにはある」
俺は嘲笑する。
「ハッ! それこそ空想だ、馬鹿馬鹿しい。付き合いきれねぇよ」
そう言って不信を見せ付ける俺に、千歳は浮かべていた笑みを消し、深い色をした瞳を向けた。
「嘘じゃない。証拠はある」
「証拠、ね。一体なんだって言うんだ? 付き合っていた彼氏が浮気したとか、大事にしていたシャーペンが無くなったとかか? そんな話ならどこでだってあるだろ? まさかそれが証拠だなんて言わねぇよな?」
「卓磨は……なんで知久があんな風になったと思う?」
突然出てきた名前に、俺は一瞬遅れてあの男子生徒の事だと思い至る。
先程盛大に彼を突き放しておいて、自らその名を口にするのか、と思いつつ、千歳が何を言おうとしてるのか思考する。
あんな、というのはあの男子生徒の様子だろう。確かに彼は、昨日俺が目にしたあの時とはまるで別人の様になっていた。その原因は、あの光景――つまり裏生徒会にある、と千歳は言っているのだ。
それは俺も思ったこと。先程彼が変わった原因について考え、そして至った結論と奇しくも同じ解。
それを否定するという事は、俺自身の考えをも否定するという事だ。
「…………」
そう思い知り、俺は何も言えなくなる。千歳はそこに付け入る様に言葉を重ねていく。
「知久は私に負けて、失った。……知久が守りたかったのは何の意味もない部活仲間との友情。……知久は馬鹿。知久には私だけいればいいのに、他の奴等の事が大事なんて思うからそうなる。私の事を必要としたのは知久だった癖に」
遠い眼差しで、無表情に言う千歳。それはもう終わった事だから興味が無いと言わんばかりに感情が籠っていない。
けど、と千歳は続ける。
「今はもう知久なんて要らない。……私には卓磨がいるから」
千歳は一本ずつ近付いてくる。俺はじりじりと後退りするが、千歳の指がにゅうっと首の後ろに回る。
顔が近くにある。千歳の吐息が頬に当たる。
胸が押し付けられ、俺の鼓動と千歳の鼓動が共鳴する。
千歳は俺の胸をまさぐり出した。何かを探す動作でポケットに伸びる。やがて制服のポケットから目当てのモノを取り出す千歳。
それは千歳が要らないと言った眼鏡。シルバーのフレームの別段特徴の無いありふれたそれ。
千歳がそれを、俺に掛けた。視界が度の入ったレンズで歪み、頭には鈍い痛みが疾る。
そこで千歳は満足げに笑みを浮かべ、今度は自分の赤いフレームの眼鏡を外した。
目にかかる長い前髪を鬱陶しそうに払いつつ、俺の瞳を覗き込む千歳。ゆっくりと表情が柔らかくなり、熱を帯びていく。
千歳の頭が俺の肩に乗る。荒く、短い呼吸が耳元で連続する。
首に回っていた腕は俺の脇を抜け背に回されている。やがて力が乗り、千歳は俺をぎゅうっと抱き締めた。
「もう……どこにも行っちゃやだよ……」
そう言った千歳の声は震えていた。
俺はそのまま動かない。成すがままにされていた。
ふと――思ってしまった。俺は千歳に必要とされている。なら、受け入れる事もまた、選択肢のひとつなのではないかと。
それこそ千歳の思うつぼなのかもしれない。
他人に依存し、他人の世界に自分という存在を確認して、安心を得る。その為ならば、どんな事でもいとわず、自分を裏切ろうものなら、敵として排除し次の対象を見つける。
そんな悲しい行いを続ける千歳が今、俺を必要だと言っている。
俺は確かに千歳を邪魔だと感じた。自分の世界を壊す敵だと認識し、拒絶した。
求める千歳と拒む俺。相反する関係のはずなのに俺達は出会ってしまった。
それが何の因果に基づくモノなのかはハッキリとはしないが、確かな事はひとつだけある。
この感じるぬくもり。細く華奢な腕から伝わってくる力。そして、手繰り寄せたモノを離すまいとする切実さは紛れもないこの女の子が俺に向けているモノなのだ。
――拒絶、なんて出来る訳がない。ここにいる千歳はあの日の俺と同じだ。
誰かに助けを求め、しかしそれが無いと知りつつも、叫び続けたあの時の俺。
俺はあの時思った。現実は残酷で出来ていると。
そうして誰かを頼る事の無意味さを知った俺は、自らの手で光凛を守ると決めたのだ。
けれど千歳は違う。こいつは俺みたいに諦めていない。
ずっと信じて、待ち続けているのだ。自分を救い出してくれる者を。
一人では頼りないその心を埋めてくれる存在を、千歳は欲しているのだ。
歪んでいる。確かにそうかもしれない。
だが俺は、それを知っている。孤独を、分かってやれる。
お前を背負う事が出来るのは俺しかいない。
「……千歳」
俺は両手で、そっと千歳の肩に触れた。
肩に乗っていた頭が上がり、閉じていた瞼が持ち上がる。
「卓磨……?」
不思議そうに首を傾ける千歳。そんなに今の俺の顔は変なのだろうか。
俺にそれは分からないが、心だけはやけに落ち着いている。
頭ひとつぶん低い千歳の顔を、俺は間近で眺める。
シミひとつ無い素肌。化粧っけのないその顔は同性が恨んでやまないだろうに。
「……千歳。お前が望む者に俺はなろう。俺はお前を受け入れよう」
千歳の瞳が一瞬で潤んだ。その深い輝きがよりいっそう増す。
「……卓磨……あなたに依存していいの?」
震える。声が、体が、心が。
俺の中の何かが震え、言葉となる。
「お前は、俺の物だ」
俺は千歳を引き寄せた。そして、強引に唇を重ねた。
千歳の体が一瞬驚きで強張る。しかしそれは、すぐに解かれて俺を受け入れる。
何秒、そうしていたかは分からない。呼吸が苦しくなるギリギリまで唇は離れず、しかしすぐにそれは再開される。
啄み、重ね、まぐわう。
もう何も考える必要はない。本能の赴くままに快楽を貪る獣の様に。
吐息し、お互いがそこにあるのを確かめるように身体を重ねるだけ。
俺は今日、悪魔と契約を結んだのだ。寂しがりやな、悪魔との契約を。
引き返す事はもう、出来ない。