世界の標準はAサイズ
さて、今現在、俺の目の前には一枚の履歴書がある。世界の常識に則った、A4サイズに二つ折りしたタイプ。
全く本筋に関係ない話だが、ついこの間まで俺は、いわゆる「アルバイト用履歴書」が採用側の心証があまり良くないことを知らなかった。
こちらとしては、「アルバイト用」と名前がついている以上、アルバイトの面接にはこちらのほうが良いのだろうと考えていたのだが、前の職場で親しくなった事務方曰く、実際には避けたほうが「しっかりしている」と見られるそうだ。
なら紛らわしいものを売るな作るな、と言いたい。俺のように騙される純真な若者がいるのだから。
──いや、まあそれは、今はいい。問題は、そのありがたい忠告をもらって書き上げた履歴書の出来栄えだ。
自分では、けして悪くはない経歴だと思っているが、果たしてそれがここで通用するのかはわからない。
緊張で口元の引きつった自分の証明写真と見つめ合っているのもいたたまれなくて、ちょっとだけ自分が今いる場所を見回してみた。
落ち着いた内装は紺色と木肌の飴色でまとめられ。所々にある観葉植物は活き活きとして見える。ふかふかのクッションから眺める全面ガラス越しの風景は、絵に描いたような高層ビル群。視線を戻せば、カウンター向こうのバックバーにはリキュールやウイスキーのボトルがずらりと並ぶ。
都会のド真ん中にあるほどほどの高さのビルの、とあるダイニングバー。俺はそこにバイトの面接に訪れていた。
正直、出迎えてくれた店長さんが、スーツにベストにオールバックをぴしりと決めていた時点で、ちょっぴりびびった。
貰った名刺の何か高そうな紙も字体も含めて、今までのバイトで出会ったことのないタイプだったから。
履歴書の記載事項を確認してくる口調や物腰は穏やかだけど、このいかにも大人、という感じの店の店長さんだ。マナーとかイメージとか、そういうのには厳しそうな気がする。
実のところ、そういう相手には初対面での受けはそんなに良くなかったりするのだ、俺は。深く付き合えればそんなことはないけど、バイトの面接なんて、初対面でしかありえないわけだし。
ひと通り、職歴、交通手段、待遇などの確認を終えて、にっこりと笑った店長さんからは、俺に対する印象がいかほどのものなのか、全く伝わってこない。大人の営業スマイル怖ぇ。
「今は、他の仕事はされていない、と。週に5日前後希望で、日曜は休み。他に何か希望はありますか?」
「いえ、特には」
「そうですか。それでは、もう一人担当を連れてきますので、少々お待ちくださいね」
立ち上がった店長さんに一人残され、それでも緊張を解くことはできずに待つこと2分。
パーティションの向こうでドアの音がして、小さな話し声が戻ってきた。
店長さんともう一人。たぶん、スタッフの中でも上の方なのだろう人。面接者の礼儀として立ち上がって迎えたのだが……
でけぇ。
見上げる首にイイ感じに角度がついて、内心ちょっとだけムカついた。
深めに礼をしたのはただの猫かぶりであって、首が痛くなったからでは、ない。断じてない。……何か、下げた頭にえらい視線を感じるんだが。
どうでもいいけど座ってなお見上げなきゃいけないとかどういうこと。
「初めまして、チーフの野田です。東店長から、仕事などについてはひと通りの説明は受けたと思いますが、未経験者とのことですね」
「はい。いろいろと覚えたくて」
「週5で入れる?」
「はい!」
「ちなみにいつから?」
「明日からでも大丈夫です」
「OK。じゃあこれ、僕の名刺です。とりあえず店長、僕からは以上で」
どことなく店長さんと似た感じの読めない笑顔で名刺を渡され、チーフさんとの面談は30秒で終わった。あっけなさすぎる気がしたが、なぜか一瞬たりとも視線を外されることのない30秒って、案外長い。
「あれ、もういいの?」
「はい」
どうやら店長さんも拍子抜けしたようで、チーフさんと俺を見比べてから、ふむ、という顔をした。
俺の中だけで高まる緊張。
どうなんだ、俺の印象は。短すぎるチーフさんとのアレは、むしろ今もってこちらをガン見しているのはどういう意味か、できるだけ早急にはっきりさせていただきたい。
子羊のようにぴるぴるする俺に、やがて店長さんはひとつうなずいて見せた。
「それじゃあ、鈴森向太くん」
「はいっ」
「採用です。明日から、よろしくお願いしますね」
早っ!
え、後日連絡とかじゃなくていいんだ? そりゃ早くしてほしいって思ったけども。嬉しいけども。
「は、はい! よろしくお願いします!」
思わず満面の笑顔も出るってものだ。店長さんとチーフさん──東店長と野田チーフの二人と握手しながら、俺は思わず、素敵な履歴書の書き方を教えてくれた元同僚に心の底からお礼を言っていた。
面接時間、トータル15分。待ち時間込。こんなにさっくりと決まったのは、きっとこの履歴書のおかげに違いないからだ。
もらった2枚の名刺を握り締めながら、浮かれ気分で家に帰って──
明けて翌日。俺は、初めての制服に身を包み、浮き浮きと緊張が半々くらいの気分で新しい職場に立っていた。
普段、新しい環境にはテンションが上がるタイプの俺だが、さすがに今日はいつもより控えめ。何せ、初めての職種だから。
想像していたよりも厚めでしっかりした白い布地のコックコートに同じく真っ白のサロン。頭には紙(という表現でいいんだろうか)製のコック帽。
本日から、俺は見習いコックさんになるわけです。
「今日からお世話になります、鈴森向太です。不慣れですが、頑張っていろいろ覚えますので、よろしくお願いします!」
始業前ミーティングで店長の横に並ばされ、自己紹介。最初か肝心だから勢い良く頭を下げたのに、コック帽がずり下がって決まりきらなかった。
顔を上げると、帽子に慣れていないのがバレたのか、何となくスタッフの皆さんに微笑ましげな目で見られた気がする。凹む。それには慣れてるけど。
「今日出勤じゃないスタフには、おいおい紹介するよ。今日は鈴森くん、野田くんに付いていろいろと教えてもらって」
「はい」
「じゃあ皆さん。本日もよろしくお願いします」
俺の肩をぽんと叩いた店長が解散、と言うと、ホールスタッフはそれぞれ開店作業に散っていく。俺はと言えば──とりあえず、野田チーフにくっついて、キッチンを案内してもらうことになった。
広々として明るい仕事場は、さすがに家庭用キッチンとは、何というか、格が違う。大量に並んだコンロやオーブン、食器洗浄機なんかに、思わず、おお、と感動してしまった。
「鈴森くんは、キッチンは初めてだったよね。接客は長いんだっけ」
「あ、はい。ファーストフードと居酒屋、ファミレスと喫茶店のホールはやったことあります」
「ファーストフードってことは、フライヤーは大丈夫かな」
「フライヤーとオーブンは使ったことあります。同じオーブンじゃないですけど」
「OK。ちなみに実家? 一人暮らし? 自炊は?」
「一人暮らしです。一応自炊歴5年なんで、人並みには」
「ふーん」
冷蔵庫と冷凍庫はここ、皿はあっち、などと説明されながら、尋ねられたが。
いや、考えてみたらこの質問、本来なら昨日のうちに済ませておくべきものじゃないか?
俺、キッチンに即採用されるような職歴もスキルも持ってないぞ。接客業でのバイト歴はけっこう長いけど、それって全部ホールだし。かろうじてファーストフードの簡単な調理があるくらい。
この人、俺の何を見て即採用OK出したんだ。
「まあ、うちはダイニングバーと言ってもバー寄りだからね。料理のオーダーはそこまで多くもないから気楽に覚えていってもらえればいいよ」
「はあ」
「とりあえず、まず君がするべきことは……」
記念すべき初仕事か!
気合を入れる俺を、それこそ頭のてっぺんから爪先まで眺め、野田チーフはにやりと笑った。
「棚の配置替えかな?」
「はい?」
「だって君──届かないだろ?」
「…………!!」
ハイばんざい、という言葉とともに、両手を掴み上げられる。
俺の脇が攣りそうなくらいに上げさせられて……目の前のやろうには十分、余裕がある。
そして俺の指の先は、調理台の上にある食器の棚の下段に、ようやく届く程度しかなかった。
屈辱で真っ赤になる俺を、楽しげに見下ろす野田チーフ。
「鈴森くん、身長は?」
「…………」
「ん?」
「………………162」
「ああ、やっぱりそのくらいか。だって、帽子足しても、僕より低いしね」
「!!」
「でも一応160はあるのか、意外。もっと小さいかと思ってた」
「!!!」
コノ野郎、と口の中でうなった俺は、悪くない。絶対絶対、悪くない。
くそう、ちょtt190近く(目算)あると思って! 人を見下ろすのがそんなに楽しいかコンチクショウ! 俺だって、人は見下ろすほうが好きなのに!!
「……チーフは、背、高いんですね」
「まあね。で、今は僕に合わせた配置になってるけど、別に好きに置き換えてくれていいよ。やっぱり、効率的な職場のほうがいいし」
「…………お気遣い、ありがとうございます」
世の中のキッチンがどんな感じなのかは、知らないが。
何でここには、足元とか、低い場所に棚がないんだ! もしあったら、最優先でそこに全部移して、皿を取るたびに腰を曲げなきゃいけない目に遭わせてやるのに!
掃除用のバケツを踏み台として与えられ、栄誉ある俺の初仕事、「キッチンの模様替え」は、始まったのである。
キッチンの食器棚が高いところにあるのはホコリその他混入防止のためだヨ☆