決死行
区役所まで、と告げると、鉄の塊は自然法則を蹴散らさんばかりの勢いで発進した。車輪が激しく空転する音、背中と後頭部がシートに吸い寄せられる感覚、咽せ返るような白煙、溶けるように後方へ流れていく高層ビルの群れ、群れ、群れ。鋭く、けたたましいクラクションが、洪水のように鳴った。口を挟む暇さえ与えない、運転手の流れるようなハンドル捌きを、ただ呆然と見つめるほかなかった。
信号が赤に変わろうが、前方に車両が滞っていようが、お構いなしに猛然と追い越していく。
その頃になって、ようやく恐怖という感情が押し寄せていることに気づいた。指名手配犯やテロリストの類いがこの車両を乗っ取っているのではないか。どのみち、このままでは殺されるか、死ぬだろう。タクシーに乗らなければよかったと後悔しても、遅い。人生とは瞬間的に訪れる選択の連続で、この異常な車に同乗したのも、己が選択肢を誤ったことに起因するのだ。その不運さを嘆くことに、昂ぶる感情を納得させる意味はあっても、本質的な解決にはならない。
無間地獄と錯覚するほどの決死行。振動の隙間を縫うようにして、運転手の男がミラー越しに話し掛けてきた。これからレッド・ツェッペリンでも歌うと言い出しかねないほどの涼やかな響きだった。
「その足、鍛えていますね。陸上をされていたのですか?」
突拍子のない問いに面食らいながらも、素直に首を縦に振った。あるいは、赤信号で急停止したのが原因だったか、判断する気力さえ残っていなかった。
「やはりそうですか。でしたら、お客さんはこう望んでいたはずだ。もっと速く走りたいと、誰よりも早く、ゴールテープを切るのが自分であるべきだと。しかし、お客さんは靭帯断裂の大怪我を負って、夢を諦めてしまった。その後の人生は鬱屈としたものではなくても、心のどこかではあの頃のように風を切って走りたい気持ちがあった。最近のお客さんが変わり映えのない日々に疲れていたのも一因だったのでしょう。この度は私どもをご利用していただき、ありがとうございました」
一瞬、世界に空白が生じた。もしくは眩暈だったかもしれない。だが、確かに、その瞬間を目撃した。銀の車体が、接地面から浮き上がり、摩天楼の彼方に“離陸”していく様を。
――できれば、もう二度とご利用なさらぬように、と声がした。
クラクションの群れに身を起こすと、そこは天国ではなく、中央分離帯の只中だった。