第三章 金利の領域(テリトリー)
小説『虚空のバベル』
第三章 金利の領域
1
東京・霞が関。財務省庁舎の最上階に近い官房長室の空気は、張り詰めた弦のようにピンと糸を引いていた。
「白石君、君の出した特別経済対策案だが……正気かね」
言葉を発したのは、財務省事務次官の神保だった。かつて日本銀行の副総裁を務め、霞が関と本石町(日本銀行)の双方に絶大な影響力を誇る「理財の怪物」である。
白石崇は、東洋中央銀行の常務執行役員の矜持を胸に、真っ直ぐに神保の視線を受け止めた。傍らには、東洋中央銀行デジタルイノベーション推進部部長の吉永と、東洋信託銀行専務の神崎が静かに控えている。
白石たちが持ち込んだのは、デジタル空間『SpaceNode』上の金融基盤「プロジェクト・バベル」を全国の中小企業へ波及させるための、一兆円規模の政府経済対策パッケージ案だった。
「我が国の銀行全体で六百五十兆円に上る貸出金残高……。その流動性をデジタル空間へ安全に移植し、地域経済を再生させる。ここまでは金融庁も了承済みです」白石は静かに語り始めた。「しかし、最大の障壁は『金利』です。足元で日銀が政策金利の正常化——すなわち利上げへと舵を切る中、SpaceNodeへ進出しようとする中小企業や地銀は、金利上昇による資金繰り悪化を恐れて足がすくんでいる」
吉永がタブレット端末を操作し、霞が関の財政資金と日本銀行の金融政策を対比させたホログラム図表を映し出した。
「そこで我々は、政府の経済対策予算を投入し、SpaceNode上で発行される『デポジット・トークン(トークン化預金)』および『デジタル空間MBS』を活用した特別利子補給制度の創設を提案します」
神保次官は眉間にしわを寄せ、手元の資料をめくった。
「具体的にはどういうスキームだ」
「仕組みは三層からなります」吉永がレーザーポインターで図を指した。
「第一に【利子補給(実質無利子化)】。国や自治体が補正予算から出資し、事業者が地銀や我々から借り入れるデポジット・トークンの約定利息を全額補填します。コロナ禍で実施された『ゼロゼロ融資』のデジタル拡張版です。
第二に【信用保証制度のデジタル連動】。信用保証協会とスマートコントラクトを直接連結させ、事業者がSpaceNode上でデフォルトを起こした際の代位弁済手続きを自動化すると同時に、政府がその保証料を全額補助します。
第三に【日本政策金融公庫などの公的金融による特別低利融資枠】。公庫の予算を裏付けとして、基準利率を大幅に下回る『特別デジタル利率』でデポジット・トークンを直接供給する」
神保は冷ややかな笑みを浮かべた。
「財政出動による利子補給と信用保証の補助……。手法としては古典的な財政政策の延長だな。だが白石君、君の提出したペーパーの末尾にあるこの一文は何だ?」
神保の指先が、資料の一行を強く叩いた。
『本経済対策の効果を最大化するため、日本銀行に対し、政策金利の引き下げおよび現行の超低金利政策の維持を要請・反映せしめるものとする』
官房長室の温度が、一気に数度下がったような錯覚を覚えた。
2
「白石君」神保の声は低く、そして絶対的な威厳を帯びていた。
「君はメガバンクの常務ともあろう男だ。まさか、財務省が日銀に『政策金利を下げろ』と命令できるとでも思っているのかね?」
「命令できるとは言っていません」白石は踏みとどまった。「しかし、政府の財政政策と日銀の金融政策がちぐはぐでは、この国家的なデジタルシフトは成功しません! 政府が利子補給で金利を下げようとしている横で、日銀が政策金利を引き上げれば、財政資金のムダ遣いになるだけだ!」
「分かっていないな!」神保がデスクを叩いた。
「いいか、白石君。日本銀行法第3条を見ろ。『日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない』——いわゆる【日銀の独立性】だ! 政策金利の決定を含む金融政策の運用は、日銀政策委員会(決定会合)の専権事項であり、総理大臣であれ財務大臣であれ、日銀に金利の変更を命じる法的権限は『万に一つも』存在しないのだよ!」
吉永が意を決したように発言した。
「ですが神保次官、政府には日銀法第十九条に基づく『政府出席権』があります。決定会合に財務省や内閣府の代表が出席し、議決の延期を請求したり、政府の経済対策の方針を強く訴えることは可能なはずです」
「それはただの『意見陳述』だ!」神保は一蹴した。「最終的な議決権は日銀の審議委員にある。政府がどれだけ『金利を上げるな、政策金利に反映させろ』と叫んだところで、日銀が『物価の安定のために利上げが必要だ』と判断すればそれまでだ。財政政策と金融政策の領域は、法律上、明確に一線を画されているのだよ」
沈黙が部屋を支配した。
これまで黙って話を聞いていた東洋信託銀行の神崎が、静かに煙草の箱をポケットから取り出し、神保の顔を見つめた。
「神保さん。あなたと私が大蔵省と日銀の冷戦期を経験してきた人間として、壁の高さは重々承知していますな。……だが、白石が言いたいのは『命令しろ』ということではない」
神保が眉をひそめた。「どういう意味だ、神崎君」
「【アコード(共同声明)】ですよ」白石が受け継いだ。
「政府と日本銀行が対話を行い、物価の安定と構造改革に向けた『基本的方向性』を共有する。政府は予算(財政政策)を使って利子補給や信用保証という“ミクロの金利軽減”を担保し、日銀は“マクロの政策金利”においてその足並みを揃える。直接命令はできずとも、政策協調によって間接的に政策金利へ影響を与えることは十分に可能です」
神保は背もたれに深く体重を預け、天井を仰いだ。
「協調、か……。言うは易く、行うは難しだぞ。今の日銀総裁は、独立性の死守を掲げる筋金入りの理論派だ。『政府の経済対策に配慮して政策金利を据え置く』などという姿勢を見せれば、市場から『日銀は政府のポチに成り下がった』と猛反発を受け、円売りが加速する」
「だからこそ、我々の『デポジット・トークン』が必要なのです!」白石の言葉に力がこもる。
3
白石は神保の前に詰め寄った。
「いいですか、神保次官。既存の現金や口座振替を前提とした利子補給は、申請から給付まで数ヶ月がかかり、事務コストも膨大でした。しかし、我々が構築したスマートコントラクトを使えば、政府からの利子補給金や保証料補助は、事業者が金利を支払った『0.1秒後』に自動計算され、デポジット・トークンとして事業者の信託口座へ即時還付されます」
[日本政府・自治体(利子補給予算・補正予算)]
│
▼ 【スマートコントラクト即時自動執行】
[東洋信託銀行 特別信託口座(分別管理)]
│
├─① 事業者の利息支払い(デポジット・トークン)
├─② 政府からの利子補給(0.1秒で即時還付・実質無利子化)
└─③ 信用保証協会による債務保証(保証料自動補助)
│
▼
[日本銀行(金融政策決定会合)]
※独立性を保ちつつ、ミクロの金利負担軽減を確認した上でマクロ政策金利を判断
「ご覧ください」吉永が画面のシミュレーションを提示した。
「これにより、日銀は物価や為替の動向に応じて、マクロの『政策金利』を自由に引き上げることができます。日銀の独立性と通貨の信用は完全に保たれる。一方で、政府は自らの財政予算を使って、SpaceNodeに進出する重要企業や中小企業に対してのみ、ミクロで『実質ゼロ金利』を作り出すことができる。マクロの利上げと、ミクロの金利支援……この二つを法的に分離し、同時に成立させる解こそが、このスキームなのです!」
神保の目が、わずかに見開かれた。
「マクロの政策金利と、ミクロの実質金利の完全分離……。日銀に政策金利の引き下げを強制するのではなく、政策金利が上がっても財政のプログラマブル・バジェット(プログラム可能な予算)でショックを吸収する構造か」
「その通りです」神崎が追撃した。「これなら、日銀法第3条の独立性を何一つ侵さない。日銀総裁も面目を保てるし、財務省も『予算による確実な経済支援』という実績を作れる。そして何より、地銀の抱える二百兆円の中小企業融資が、金利上昇のショックで不良債権化するのを防ぐことができます」
神保は長い沈黙に入った。部屋の振り子時計が刻む音だけが規則正しく響く。
窓の外には、霞が関の官庁街と、その向こうに広がる日銀本店の重厚なシルエットが見えていた。財政と金融——戦後日本の経済を動かしてきた二つの巨大な歯車が、最先端のデジタル技術によって、かつてない形で噛み合おうとしていた。
「……面白い」
神保の口から、低く掠れた声が漏れた。
「白石君。明日、日銀の金融政策担当理事と、財務省理財局長を交えた極秘の四者協議をセットする。日銀総裁への根回しは私がやろう。……ただし、日銀の政策決定会合で『協調』の二文字を引き出せなければ、この話は白紙だ。覚悟しておけ」
「感謝します」白石は深く頭を下げた。
4
翌日の夜。日本銀行本店の地下深くにある、外部から遮断された特別会議室。
そこに集まったのは、日本の金融・財政の命運を握る男たちだった。
財務省事務次官の神保。日本銀行理事の寺内。東洋中央銀行の白石。そして東洋信託銀行の神崎。
テーブルの中央には、東洋中央銀行が発行する「デポジット・トークン」のテストシステムと、日銀の当座預金決済システム(日銀ネット)を連動させたプロトタイプが置かれていた。
「寺内理事」神保が切り出した。「日銀としての立場は重々承知している。来月の決定会合で、政策金利を0.25%引き上げる公算が高いこともな」
寺内理事は表情を変えずに応じた。「物価上昇率が目標の2%を安定的に超えている以上、マクロの金利正常化は避けられません。政府からの『配慮要請』があったとしても、我々が政策金利の操作を歪めることは不可能です。それは日銀法が禁じる『財政ファイナンス』への悪魔の傾斜になりかねない」
「誰も政策金利を曲げろとは言っていない」白石が前に出た。
「寺内理事、我々が提示しているのは、日銀が決定した政策金利を『そのまま受け入れた上で』、経済の血流を止めない仕組みです」
白石は画面の数値を指し示した。
「日銀が政策金利を上げれば、我々民間銀行の貸出金利も上がる。それは市場原理です。しかし、政府が補正予算で確保した一兆円の『利子補給ファンド』を、デポジット・トークンのスマートコントラクトに組み込む。これにより、政策金利の上昇分(0.25%)は、政府の給付金によって相殺され、事業者の実質負担金利は『据え置き』となる」
「しかし」寺内は鋭く突いた。「それでは政府の財政負担が無限に膨らむのではないか? 金利が1%、2%と上がっていけば、利子補給の予算などあっという間に枯渇する」
「だからこその【SpaceNode上の成長キャッシュフロー】です!」吉永が説明を引き継いだ。
「単なる補助金の垂れ流しではありません。利子補給を受ける事業者は、SpaceNode上のデジタル店舗やデジタル工場から発生する将来のテナント賃料や売上データを、信託口座へリアルタイムで開示することが義務付けられます。その収益データが一定水準を超えた時点で、利子補給は自動的に段階解除され、事業者は自力での金利支払いに移行する。つまり、成長への『過渡期』だけを財政で支えるプログラムなのです」
寺内理事の目が、初めて動揺に揺れた。
「リアルタイムの収益データと連動した、動的な(ダイナミック)利子補給……。そんなことが可能なのか」
「可能です」神崎が頷いた。「信託銀行の分別管理口座と、ブロックチェーン上のスマートコントラクトが結びつくことで、従来の年一回の確定申告を待つような遅い行政手続きは不要になります。収益が上がれば助成は減り、収益が落ちれば助成が増える。財政のムダ遣いを極限まで削ぎ落とした、精度100%の利子補給です」
寺内は深く息を吸い込み、手元の資料をじっと見つめた。
日銀がマクロの独立性を保ち、自由な政策金利の設定を行うことができる。一方で、政府は自らの予算で狙った成長分野(SpaceNode)に絞った極めてピンポイントな利子補給を行い、中小企業の倒産を防ぐ。
「……日銀法第3条の独立性を侵さず、財政主導の金利歪曲も生ませない。政策金利と利子補給の完全な役割分担、か」
寺内は白石に向き直った。
「白石常務。もしこれが実現すれば……日銀は躊躇なく、次の政策金利引き上げに踏み切ることができる。金融政策の正常化と、デジタル空間での新産業育成が、初めて両立することになるな」
「ええ」白石は力強く答えた。「それが、我々が目指す『バベルの金融エコシステム』です」
5
四日後。日本銀行本店で開かれた金融政策決定会合の記者会見。
フラッシュの集中砲火を浴びながら、日銀総裁がマイクに向かってゆっくりと口を開いた。
『……本日、本行は政策金利を現行の0.25%から0.50%へ引き上げることを決定いたしました。なお、政府が発表した最新のデジタル成長戦略および経済対策との協調に基づき、本行としては金融市場の安定を注視しつつ、民間金融機関による新たなデジタル決済基盤の取り組みを注視してまいります……』
モニターで会見の様子を見ていた東洋中央銀行の常務室で、吉永が小さくガッツポーズを作った。
「やりましたね、白石常務! 日銀は予定通り利上げに踏み切りましたが、市場は荒れていません! それどころか、政府の『利子補給・デポジット・トークン特例措置』のニュースを受けて、SpaceNode関連株と地銀株が軒並み買われています!」
画面には、日経平均株価の急上昇を示す緑色のチャートが映し出されていた。
通常、利上げは株価にとってアゲインスト(逆風)となる。しかし今回、市場は「日銀の金利正常化」と「政府のスマート利子補給による企業の金利ショック吸収」が完璧に協調したと好意的に受け止めたのだ。
「これで、第一関門は突破だ」
白石は窓の外に目を向けた。
大手町のオフィス街の向こう、遠く霞む空の中に、目に見えない「SpaceNode」の巨大な都市が広がっているような気がした。
現実世界では、日銀の金利が動き出し、六百五十兆円の融資網に新たな金利の波が押し寄せている。しかし、その激浪の足元で、政府の財政資金と信託機能、そしてデポジット・トークンが合体した「防波堤」がしっかりと機能し始めていた。
「白石常務、東洋信託の神崎専務から連絡です」吉永が受話器を差し出した。「『新・銀座プロジェクト』の利子補給型デジタルMBS、発行枠の三千億円が、海外の機関投資家と国内地銀の買い注文で即座に完売した、と」
「完売……か」
白石は受話器を受け取り、耳に当てた。
「神崎専務、聞こえますか」
『白石君、すごいことになったぞ』受話器の向こうで、神崎の興奮した声が弾んでいた。『政府の利子補給と保証補助がついたデポジット・トークン建てMBSに、欧州の年金基金までが群がってきている。“世界で最も安全なデジタル高利回り商品”だと絶賛しているよ』
「安全なのは、政府の胃袋と我々の信託口座があるからです」白石は微かに笑った。「ですが、浮かかれてはいられません。金利が動いたということは、これからSpaceNode上の『デジタル不動産バブル』が本格化するということです」
『ああ、分かっている』神崎の声が引き締まった。『実体なき虚構の街に、本物の金利と本物の財政資金が流れ込んだのだ。ここから先は、一歩間違えれば巨大なバブルの崩壊につながる』
「崩壊させはしません」白石は力強く言い放った。
「どんなバブルが来ようと、我々が作ったこの『スマート金利と信託の要塞』で叩き潰してみせる」
受話器を置いた白石の胸の中で、新たな決意が静かに燃え上がっていた。
日銀の独立性と、政府の財政支援。二つの相容れぬ巨人が、デジタル空間という新しいキャンバスの上で、ついに同じ歩調で歩み始めた。
六百五十兆円の日本経済を乗せた巨大なバベルの船は、未知なる金利の海へと、力強く漕ぎ出したのだった。




