アストラ
午前二時、誰も使わなくなった展望台の自動販売機だけが律儀に明かりをつけている。僕はそこで温かいココアを二本買ったけれど、君は甘いものが嫌いだったことを思い出して一本を自分の鞄に戻すことにした。代わりに水を買い直し、どうしてこんな時間にわざわざ山の上まで来たのかと少しだけ後悔しながら、それでも先に着いていた君の隣に腰を下ろした。
「遅い」
「まだ二分しか経ってないよ」
「二分は長いよ。宇宙だったら、結構な距離を進めるし」
君はそう言って、街の向こう側に広がる暗い空を指差した。そこには星がいくつか見えるだけで、僕にはその一つ一つがどんな名前を持っていて、どこから来て、いつまでそこにいるのかなんて分からなかったし、たぶん君にも分からなかった。
だから僕たちは、分からないものを分からないまま眺めるという、地上では案外難しいことをしばらく続けていた。
昔の人は星を見て方角を決めたらしいけれど、今はスマートフォンが現在地を教えてくれるし、電車は秒単位で時刻を知らせてくれるし、道に迷えば地図が勝手に青い線を引いてくれる。どこへ行くにも正しい方向を教えてもらえるようになったのに、自分がどこへ向かいたいのかだけは、最後まで誰も教えてくれない。
「ねえ」
「なに」
「もし地球がなくなったら、どこに住む?」
「月」
「寒そう」
「じゃあ火星」
「もっと嫌だよ」
「じゃあ、君のところ」
冗談のつもりだったのに、君は少し黙った。
それから、夜空を見上げたまま「それなら悪くないかもね」と言った。
その言葉があまりにも普通だったから、僕は返事をするタイミングを失ってしまった。自動販売機の横に貼られていた期限切れのポスターを眺めながら、宇宙船の座席は二人分予約できるのかなとか、片道切符しかなかったらどうするんだろうとか、そんなことばかり考えていた。
僕たちが本当に宇宙へ行ける時代になったとしても、たぶん僕は窓際の席を君に譲ると思う。君は遠慮なんてせずに窓際へ座るだろうし、その横で僕は宇宙食の袋を開けるのに手間取って、中身を全部浮かせてしまうのだろう。
それで、君はきっと笑う。そういうくだらない未来を想像していると、地球はずいぶん小さく思えた。
学校で嫌だったことも、仕事で怒られたことも、返事の来ないメッセージも、言わなければよかった言葉も、あの日もっと優しくしておけばよかったという後悔も、全部まとめて大気圏の外へ持っていけば、掌に乗るくらい小さくなるような気がした。
「僕さ、宇宙って逃げ場所みたいだと思ってたんだ」
「今は?」
「分かんない。逃げ場所じゃなくて、戻る場所...なのかもしれない」
「どこから?」
「地球からだよ」
君は笑った。
その笑い声は夜の展望台には少し大きすぎて、けれど僕はそのくらいでちょうどいいと思った。星は遠すぎて僕たちの会話なんて聞いていないはずなのに、その瞬間だけ、空のどこかにいる誰かがちゃんとこちらを見ているような気がした。
帰り道、君はコンビニで買った小さな袋を僕に渡してきた。中を見ると、そこにはラムネ菓子と使い捨てカメラが入っていた。
「何これ」
「宇宙旅行の練習」
「意味分かんない」
「宇宙じゃ写真を撮っても現像できないかもしれないから、地球に帰ってきてから見るの」
君はそう言って、カメラを僕の手に押しつけた。
僕はそのとき、写真というものは景色を残すためにあるのではなく、その景色を見たときに隣に誰がいたのかを残すためにあるのかもしれないと思った。
だから僕は、その夜の空を撮らなかった。
代わりに君が歩いていく後ろ姿を一枚だけ撮った。シャッターを切った音が思ったより小さかったことに少し驚きながら、君には何も言わずにカメラを鞄の底へしまった。
数年後、僕たちは本当に宇宙船に乗った。
月の裏側を回って、地球の青さを初めて窓越しに見たとき、君はしばらく何も言わなかった。僕も何も言えなかったけれど、僕たちが生まれてから今まで悩んできたことのほとんどが、あの青い球体の中に全部詰まっていると思うと、急に愛おしくなった。
同時に、少しだけ可笑しくなった。
「ねえ、地球って思ったより小さいね」
「うん」
「これなら持って帰れそう」
「どうやって?」
「知らない。鞄に入れるとか」
「無理でしょ」
「じゃあ、心に入れる」
「そういうの恥ずかしくないの?」
「今さら?」
君は笑って、僕も笑った。
窓の外では、見たこともない星雲がゆっくりと形を変えながら流れていた。僕たちは人類が何千年も夢見てきた景色の真ん中にいたのに、結局話していたのは昨日食べたものとか、帰ったら洗濯しなきゃとか、次の休みにどこへ行こうとか、そんな地球の上でしか意味を持たないようなことばかりだった。
でも、それでよかった。宇宙の果てまで来たからといって、人間が急に特別な存在になるわけじゃない。星をいくつ見つけても、過去をやり直せるわけでもないし、何億光年離れた場所まで行ったところで、好きな人に好きだと言うのには少し勇気がいる。
だから僕は、無重力の中で君の手を取った。
それは宇宙船の中ではあまりにも簡単なことだったけれど、地球で生きていた僕にとっては、何光年も遠くまで旅をするよりずっと難しいことだった。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「嘘」
「……帰ったらさ」
「うん」
「また、あの展望台行こうよ」
君は少し考えてから、「いいよ」と答えた。
たぶん僕たちはいつか、この旅のことを細かいところまで忘れてしまうだろう。宇宙船の窓から見た星の名前も、あの日どちらが先に手を伸ばしたのかも、帰りの船で何を話したのかも、いつか思い出せなくなる。
それでも、何年も経って夜道を歩いているとき、ふと空を見上げて、名前も知らない星がひとつだけ妙に明るく見えたなら、僕はきっと立ち止まると思う。
その星が僕たちのために光っているわけではなくても、何億年も前に放たれた光が偶然いま僕の目に届いただけだとしても、遠すぎて触れることもできず、こちらのことなんて何ひとつ知らない星だったとしても、僕は多分少しだけ笑ってしまう。
そして君に連絡する。
「今、星がきれいだよ」
きっと君は、「知ってる」と返してくる。
それから少しして、「こっちも見えてる」と、そんな当たり前みたいな返事をくれる。
地球は回り続けるし、月は少しずつ離れていく。星は生まれては消えて、僕たちの身体を作っているものだって、ずっと昔にはどこかの星の中で生まれたものらしい。
そう考えると、僕たちは最初から少しだけ宇宙の一部で、出会うことも、離れることも、また同じ空を見上げることも、途方もなく長い時間の中ではほんの小さな出来事なのだろう。
それでも僕は、そんな小さな出来事を大事にしたい。
世界が広すぎるからこそ、隣にいる人の名前を呼ぶことくらいは、僕たちにもできる。
宇宙が果てしないからこそ、帰る場所をひとつ決めることくらいは、僕たちにもできる。
だからもし、いつか地球の夜が少しだけ息苦しくなって、空を見上げても何も信じられなくなったなら、そのときは僕が先に窓を開けておくから、君は何も持たずに来ればいい。
月明かりでも、星屑でも、昨日の後悔でも、まだ言えていない言葉でも、全部そのままでいい。
僕たちはまた適当な名前をつけた小さな星を探して、そこを二人の住所にしてしまえばいい。
そしていつか、その星から地球を眺めながら「あの頃は大変だったね」と笑えたなら、それだけで、何億年という宇宙の時間の中に僕たちが生きた証としては、十分すぎるくらいなのだと思う。




