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転生したらボロ小屋でした。〜住人の笑顔が燃料なので、全力でおもてなしします〜  作者: ひろボ


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閑話:泥まみれの姉弟が、「不思議な家さん」に拾われるまで

 雨の匂いを嗅ぐと、指先が勝手に冷たくなる。


 今はあったかい部屋で、ぬるいお湯が指の間を流れていくのに。


 なのに、胸の奥にだけ、あの夜の冷たさが残っていて、息を吸うたびにそこを撫でられる。


 ――親が死んだ日のことは、ところどころ穴が空いている。


 お父さんの咳が止まらなくて、火の番をしていたお母さんの背中が小さくて。


 薬草なんて、もう残っていなかった。塩も、粉の底に指でこそげ取る程度。


 私が鍋をかき回しても、湯気は薄くて、匂いもしなかった。


 お母さんは最後まで「大丈夫よ」って言った。


 笑っていた、というより、笑う形を覚えていて、顔がそれをなぞっていただけみたいだった。


 お父さんは、私の手を握って――その手が、やけに軽かった。


 あの時、私は思った。


 ああ、この人たちは、もう私に"重さ"を渡しきってしまったんだって。


 葬る土が足りなかった。


 土をかぶせても、雨がすぐに流していった。


 私は何度も何度も土を集めたけど、指の間から泥水が落ちるだけで、何も積み上がらなかった。


 ルカは泣かなかった。


 泣くと息が苦しくなるのを知っているみたいに、唇をぎゅっと噛んで、ただ私の服の裾を握っていた。


 その裾が、湿って、冷えて、重くなっていく。


 ――村に、人買いが来たのは、そのすぐ後だ。


 黒い外套。乾いた靴。


 "雨の匂いがしない人"だった。


 その人の周りだけ空気が違って、私たちの生活の汚れが、余計に浮き上がった。


「働き口がある」


「口減らしだ」


「弟もまとめて引き取れる」


 優しい声だった。


 優しい声で、"値段"の話をした。


 その目が、私の顔じゃなくて、首筋や肩の線を撫でるみたいに動いているのを見た瞬間、胃がひっくり返った。


 逃げなきゃ、と私は思った。


 でも、逃げるって、どこへ?


 村の外は森で、森の外はもっと寒いのに。


 それでも、ルカが首を振った。


 言葉はなかった。泣きもしなかった。


 ただ、震える手で私の指を握って――その小ささが、私の背中を押した。


「……行こ」


 声が出たのは、自分でも驚くくらい小さくて。


 私の声って、こんなに弱かったんだ、ってその時初めて知った。


 走った。


 雨の中を、泥の中を。


 足が沈むたび、引き抜くのに力がいる。


 ルカの体は軽いのに、腕が痺れて、指が感覚を失っていく。


 "守らなきゃ"って思うほど、私の身体が言うことを聞かなくなる。


 息が浅くなる。視界が狭くなる。


 自分の心臓の音だけがやけに大きくて、追ってくる足音が本当に聞こえているのか、分からなくなる。


 ルカが、途中で「ごめん」と言った。


 謝ることじゃない。


 でも私は、その時、喉が詰まって返事ができなかった。


 返事をしたら、泣いてしまう。


 泣いたら、止まってしまう。


 止まったら、全部終わる。


 だから、笑ったふりをした。


「……ううん、大丈夫。ルカは軽いもん」


 嘘だった。


 軽いなんて、嘘だ。


 私の世界で一番重いのは、この子だ。


 食べ物はなかった。


 木の実は苦い。


 草は青臭くて、噛むと吐き気がした。


 川の水は冷たくて、飲んだ瞬間に胃が痛んで、身体の中に冬が入り込んでくるみたいだった。


 ルカの唇が紫になっていくのが、怖かった。


 指先が氷みたいに冷たいのも怖かった。


 でも一番怖いのは、ルカが泣かなくなることだった。


 寒い、とも言わなくなる。


 ただ、目を開けているのに、遠くを見ているみたいになる。


 私は何度も「ねえ、ルカ」と呼んだ。


 呼ぶたびに、自分の声がかすれていく。


 かすれていく声を聞くたびに、私は自分が"誰かの姉"じゃなくて、ただの子供に戻ってしまいそうで、必死で踏ん張った。


 どれくらい歩いたか分からない。


 空が夕方なのか夜なのかも分からない。


 森の匂いが濃くなって、雨音が痛いくらい耳に入り込んでくる頃。


 私たちは、廃村に辿り着いた。


 家はあった。


 でも、灯りがない。


 声がない。


 窓は割れていて、扉は傾いている。


 "ここまで来ても、助からない"って、身体が先に理解した。


 ルカの体が熱かった。


 熱いのに、手足は冷たい。


 抱き上げた瞬間、私は分かった。


 ――このままじゃ、今夜で終わる。


 私は、弟の額に自分の額をくっつけた。


 熱が移るわけじゃない。


 でも、熱があることを確かめたかった。まだ生きてるって、確かめたかった。


「……ルカ、ねえ、聞いて。大丈夫。……大丈夫だから」


 言葉は出るのに、意味が追いつかない。


 大丈夫って何?


 何がどう大丈夫?


 答えがないのに、口だけが動く。


 それが、怖かった。


 雨だけでも避けたかった。


 風だけでも避けたかった。


 弟の体温を、ほんの少しでも守りたかった。


 だから、今にも崩れそうな廃屋に入った。


 扉はきしんで、床は沈んで、黴の匂いがした。


 いつもの"終わりの匂い"だ。


 ――なのに。


 私は、入口で足を止めた。


 冷たく、ない。


 外の雨音はするのに、湿った匂いが薄い。


 風が、入ってこない。


 この場所だけ、まるで誰かの掌の中みたいに、守られている。


 怖くて、息が止まった。


 人がいる?


 誰かの家?


 だったら、追い返されるかもしれない。


 追い返されたら、ルカは――。


 私は、弟を抱きしめたまま、声にならない声でお願いした。


(だれでもいい。……お願い。雨だけ、雨だけでも……)


 その時。


 布の匂いがした。


 洗った布。


 乾いた布。


 "清潔"っていう、今の私たちには縁がなかった匂い。


 見えたのは、毛布だった。


 端がほつれていない、柔らかい毛布。


 私はそれを掴んでしまった。


 盗む、とか、そんな言葉は思い出せなかった。


 ただ、指が勝手に動いていた。


 それくらい、身体が求めていた。


 毛布をルカに巻いた瞬間、弟の肩がびくっと跳ねた。


 凍っていたものが、少しだけ溶けたみたいに。


「……あったかい」


 弱い声。


 でも、ちゃんと"今"から出た声だった。


 私はその場に座り込んだ。


 膝が笑って、立っていられなかった。


 そして、水。


 器に入った水が、置かれていた。


 透明で、澄んでいて、土の味がしない水。


 私は疑った。


 毒かもしれない。


 罠かもしれない。


 でも、ルカの喉が乾いた音を立てた。


 私は、器を持ち上げて、まず自分が飲もうとした。


 もし毒なら、私が先に死ねばいい。


 そう思った瞬間――涙が出た。


 死にたいわけじゃない。


 ただ、弟を守るために、"そうするしかない"っていう考えが、当たり前みたいに浮かぶ自分が、悲しかった。


 一口飲んだ。


 ……痛く、ない。


 胃が悲鳴を上げる冷たさでもない。


 舌にざらつきが残らない。


 喉が、刺されない。


 水なのに、優しかった。


 私は慌てて、ルカに器を渡した。


 ルカが飲む。


 こく、こく、と喉が動く。


 その動きが、私の胸の奥の何かを、少しずつ解いていった。


 次に、匂いが広がった。


 スープの匂い。


 湯気の匂い。


 肉と塩と、火の匂い。


 ――"生きていい匂い"。


 器が、いつの間にか置かれていた。


 私は震える手でそれを持った。


 熱い。


 熱いのに、怖くない。


 一口飲んだ瞬間、胃が泣いた。


 空っぽの胃袋が、あまりの温かさに驚いて、きゅっと縮んだ。


 痛いのに、嬉しい。


 私は、泣きながら飲んだ。


 泣いているのに、止まらない。


 飲まなきゃいけない。


 生き返らなきゃいけない。


 ルカにも飲ませた。


 弟の頬に、ほんの少しだけ色が戻った。


 ――その時、音がした。


 コト、と。


 柱が鳴ったみたいな、硬い音。


 私は息を呑んで、部屋を見回した。


 誰もいない。


 でも、確かに"いる"。


 視線がある。


 それは獣の視線じゃない。


 人買いの視線でもない。


 守るための、静かな視線。


 私は、唇を噛んだ。


 噛んでいないと、声が漏れそうだった。


「……ありがとう」


 誰に言ったのか分からない。


 でも言わないと、胸が壊れそうだった。


 その瞬間、また小さく、トン、と音がした。


 返事みたいに。


 私の喉が、ひゅっと鳴った。


 涙が止まらなくなった。


 守らなきゃいけない。


 ずっとそう思っていた。


 でも、あの夜。


 私は初めて、誰かに守られた。


 その事実が、嬉しくて。


 同じくらい悔しくて。


 悔しいのに、安心してしまって。


 安心した自分を、許してしまって。


 私は、ルカの髪を撫でながら、声にならない声で謝った。


(ごめん。もう、限界だった)


 ルカは毛布の中で、少し笑った。


 笑った、というより、口元がほどけただけだったけど。


「……姉ちゃん。ここ、あったかいね」


 その一言で、私の中の何かが決壊した。


 明日に希望なんて見えなかった。


 未来なんて考えられなかった。


 ただ「今日、弟が死なないこと」だけで精一杯だった。


 なのに。


 この家は、私たちを救った。


 名前も知らない。姿も見えない。


 でも、ここには意思がある。


 ――不思議な家さん。


 私が、初めてそう呼んだ時。


 柱が、トン、と鳴った。


 それは「大丈夫だ」と言われたみたいで。


 私は、泣きながら、やっと息を吸えた。


 ――あの夜、私の中で何かが、ぷつんと切れた。


 いや。切れたんじゃない。


 ……抱き上げられて、ほどけた。

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