第5話 泥を落として、素顔を洗う
朝だ。
板の隙間から差し込む光が、昨日より少しだけキラキラして見えた。
埃っぽい空気が、俺の中をゆっくりとなでていく。
家に転生してまだ数日なのに、俺はこのボロ小屋の「呼吸」の仕方を覚え始めているらしい。
光の粒が床の上をすべり、眠っている二人の姿を、やさしく照らした。
ミアとルカは、まだ夢の中だ。
よほどぐっすり眠ったんだろう。
ミアのほっぺには毛布の跡がくっきり残り、ルカにいたっては――よだれを垂らしたまま、俺の大黒柱に手足をからめている。
(おい小僧。そこは家の体の中でも、すごく大事な場所なんだ。あんまりギュッとするなよ。家としてのプライドがミシリと鳴るじゃないか)
まあ、かわいいもんだ。柱の一本や二本、抱っこされたくらいでどうにかなるもんじゃない。
……そう思った直後、俺の感覚が一点に集まった。
(……くさい)
いや、責めるつもりはない。
泥と、煤と、血。そして冷たい雨。着の身着のまま逃げ続けて、ここにたどり着いたんだ。匂いが染みついていて当然だ。
むしろ、今までこの小屋に「生活の匂い」がなかったほうが不自然だったのかもしれない。生きるってことは、もっと汗くさくて、もっと人間くさいものだ。
前世の俺なら、お風呂にも入らず会社に泊まる同僚を「社畜の鏡だな」なんて死んだ目で笑っていた。
でも、今の俺は家だ。住人を守る側だ。
嫌な匂いは、心を暗くする。
せっかく気持ちよく目覚めた朝なのに、また暗い気持ちにさせてしまう。
――そんなのを放っておいたら、家失格だ。
俺は頭の中のメニューを開いた。
【保有建築ポイント(BP):8】
昨夜の具だくさんスープと、ミアの「ありがとう」で増えたポイントが、まだ俺の奥でポカポカしている。
生活カテゴリのメニューを探ると、昨日まで眠っていた項目が明るく光っていた。
【生活:お掃除・お洗濯セット(ハーブ石鹸/ふわふわタオル/木のくし):3BP】
【BP:8 → 5】
迷う必要なんてない。すぐに決定だ。
カチリ、と床板の一部がパズルみたいに沈み込み、そこから丁寧に編まれた小さなカゴがせり上がってきた。
中には、雪みたいに白いタオルが数枚。うす緑の紙に包まれた石鹸。そして、職人が磨き上げたような、ツルツルの木のくし。
タオルは水をよく吸うもの。くしはパチパチしにくい木製。
前世で銭湯の備品を見て学んだ「快適さ」の知識が、こんな形で役に立つとはな。
そして――俺が今朝、一番やりたかったこと。
蛇口から出るのは、ただの水じゃない。
(……こい。お湯モード、ぬるめ。無理はしなくていい、でも冷たくはするな……!)
ミシ、ミシシ……。
配管がうなり、壁の内側がじわりと熱を持つ。
ボロ小屋の限界に挑む、俺なりの全力おもてなしだ。
蛇口からトポトポと落ちたのは、透き通っているのに指先がホッとする温度を持った――「お湯」だった。
湯気が、ふわっと立つ。
それだけで、人は「生きてる」って気がするものなんだ。
「……ん……ぁ」
湯気のいい匂いに誘われたみたいに、ミアが目を開けた。
飛び起きるよりも先に、彼女はパッと扉を見た。昨日つけた銀色のカギだ。朝日をはね返して、堂々と光っている。
「……夢じゃ、なかったんだ」
ホッとしたような、深いため息。
それから彼女は、部屋の真ん中にあるカゴに気づいて固まった。
「……なに、これ……?」
続いてルカも起き上がり、寝ぼけたままカゴに顔をつっこむ。
「ねえちゃん、おはよ……うわっ! いいにおい!」
包み紙が少し開いて、ミントとハーブの匂いがふわっと広がった。
ミアの目が、見たこともないほど大きく見開かれる。
震える指先で包み紙にふれ、呼吸を忘れたように固まった。
「……石鹸? うそ、こんな……濁りのない、真っ白な石鹸。ハーブの香りが、煤の匂いを全部追い出していく。……それに、この布……」
ミアが指先でタオルにふれた瞬間、その「白」を汚すのが怖いみたいに、一瞬手を引いた。
「雪みたい。私たちの村で一番のお金持ちだって、こんなにきれいな『白』は持ってなかった……。これ、魔法の道具なの?」
(前世の俺でも、こんな白いタオルは高級旅館でしかお目にかかれなかったぞ)
「家さん、おふろ? おふろなの!?」
ルカがピョンピョン跳ねる。しっぽがあるなら、ちぎれんばかりに振っている勢いだ。
さすがに浴槽は無理だ。広さもポイントも足りない。
代わりに床板をほんの少しだけ傾けて、使った水が外へ流れるようにした。簡易の洗い場――最低限だけど、昨日までの「最低限」とはレベルが違う。
ミアがカゴの中身をそっと、宝物を触る手つきでなでた。
その指先が少し震えているのが、柱を通して伝わってくる。
「……ルカ。家さんが、体を洗っていいって言ってるよ」
俺は返事の代わりに、柱を小さくトン、と鳴らした。
その音に、ミアが小さくうなずいた。指先の震えが、ほんの少しだけ落ち着く。
ミアは鍋を取り出し、ぬるいお湯を少しだけ汲んだ。
熱すぎないように慎重に。湯気が立つ。
ミアが石鹸を濡らして、手でこする。
泡が生まれる。真っ白で、モコモコで、雲みたいな泡だ。
「うわ……!」
ルカの目がこぼれそうに丸くなる。
次の瞬間――ルカは泡を両手ですくい上げ、自分の顔に思いきり塗りたくった。
「見て見て! ぼく、ルカひげ隊長だぞ!」
「こら、ルカ。目に入ったら痛いよ」
ミアが止めようとして、止めきれなかった。泡ひげの見た目が面白すぎる。
ルカは鼻の下をえっへんと、誇らしげになでて、胸を張る。
「ねえちゃん、ぼくの命令を聞けー!」
「命令じゃなくて、お願いでしょ。……はい、お口を閉じて。息、止めないよ。ふふっ」
笑いをこらえるみたいに、ミアの肩が小さく揺れた。
鼻を鳴らすような、控えめな笑い。
昨日まで「弟を守るための機械」みたいに必死だった彼女が、やっと年相応の女の子の顔を見せた。
俺の梁が、きゅっと鳴った。
うれしくて鳴った。たぶん。
ミアはルカの腕を拭き、首筋を拭き、耳の後ろも丁寧に拭く。
泥が落ちるたびに、ルカの肌が子供らしい色に戻っていく。
煤で黒ずんでいたほっぺは、ほんのりピンク色。ボサボサだった髪は、石鹸のいい匂いをまとって、やわらかく跳ねた。
「あったけー!」
「こら、『あったけー』じゃなくて『あったかい』。ほら、言い直し」
「あったかい! 最高!」
ルカの声がはずむ。
これが「暮らし」の音だ。――こういう音が家の中に増えるのが、俺はたまらなく好きになってしまった。
ミアがタオルを握ったまま、一度だけ目を閉じた。
自分に言い聞かせるみたいに、深く息を吐く。
「……次は、私」
「ねえちゃん、見ないよ! ……たぶん!」
「たぶん、じゃダメ。ぜったい」
「じゃあ、ぜったい!」
ルカは大げさに壁の方を向いて、両手で目をふさいだ。でも、肩がまだプルプル震えている。
ミアはその背中を見て、ほんの一瞬だけ、やさしくほほえんだ。
俺は家だ。家だからプライバシーは守る。
……守るつもりだが、空気の流れや温度の変化で、なんとなく分かってしまう。こればっかりは構造上、しかたがない。
温かいタオルが肌をすべる、かすかな音。
煤が落ち、本来のきれいな肌が見えてくる。
逃げているときについた、小さなキズがいくつも見えた。手の甲、ひじ、指。
それを「がんばった証拠」なんてきれいな言葉で片づけたくない。痛かったはずだ。
でも今は、このやさしいお湯が、その痛みさえも溶かしているように見えた。
ミアが最後に手にしたのは、木のくしだった。
後ろできつく結んでいた紐をほどく。
さらり、と。
ほどけた髪が肩に落ちた。
汚れていたはずなのに、あらわれたのは、どこか銀色に光る、月の光のようなきれいな髪。
ミアは勇気を出して、縺れた髪にくしを当てた。
だが、ひっかかる感覚がまったくない。
「……っ、……うそ。髪が、ひっかからない……?」
根元から毛先まで、まるで水をなでるみたいにくしがすべり落ちる。
かつて母が「いつか都会の職人さんに作ってもらうのが夢だ」と言っていた、伝説の道具。それが今、自分の手にある。
ミアは信じられないみたいに、何度も髪をかした。
そうするたびに、肩から力が抜けていく。
険しい表情が消え、疲れがほどけ、最後に残ったのは――本当に、年相応の顔だった。
汚れ一つない、真珠みたいに光る長い銀髪。
大きな瞳は、もう何かにびくびくすることもなく、しっかりとした意志を宿していた。
ミアは自分では見えないから、知らないまま息を吐く。
「……軽い……」
体が軽い、という言葉の裏には、ずっと背負ってきた重いものがある。
その言葉が、俺の床板の奥まで染みた。
ルカがこっそり振り向きかけて、ミアの「見ないって言ったでしょ」という声で止まる。
止まったのに、次の瞬間、ぽかんと口を開けた。
「……ねえちゃん……だれ?」
「私だよ。失礼だね」
「……お姫さまみたい。きれいすぎて、ぼくのねえちゃんじゃないみたいだ」
ルカの声は真剣だった。お世辞じゃないから、よけいに心にくる。
ミアはリンゴみたいに真っ赤になって、下を向いた。
「……そんなわけ、ないでしょ」
否定する言葉は強いのに、声は照れている。
ミアは自分の手のひらを見つめた。汚れが落ちただけで、手がこんなに「人間らしく」見える。
胸の奥で、何かがほどけていく気がした。
「……ねえ、ルカ。私たち、まだ……きれいになれるんだね」
「うん! ねえちゃん、いいにおいする。クンクンしていい?」
「こら、近い。……でも、ありがとう」
ミアが言って、自分で驚いたみたいに瞬きをした。
ありがとう、って言葉が――昨日よりずっと、当たり前の「暮らし」の言葉になっている。
【建築ポイント獲得:+5】
【BP:5 → 10】
(よっしゃ……! 笑顔って、こんなにポイント貯まるのかよ)
やる気がわいてくる。前世のボーナスなんかより、何億倍もうれしい。
だが、その幸せな気分に浸っていた次の瞬間、俺の外壁に鋭く冷たい感覚が走った。
――チリン。
風鈴みたいな澄んだ音。でも、心臓をギュッとつかまれるような音だ。
頭の中に、警告が出る。
【スキル:気配通知(微)が作動しました】
……だれか、いる。
廃村のしんとした静けさの中、俺の敷地のぎりぎりを、音を殺して歩き回る何かがいる。
人間の足音じゃない。軽いけれど、爪がある。
ミアがすぐに反応した。
さっきまでの幸せそうな顔が一瞬で消え、鋭いカミソリのような目になる。
彼女はランプへ手を伸ばしかけて、途中で止めた。明かりをつけると見つかってしまう。昨日の夜で学んだんだろう。
「ルカ、こっち。息、止めないで。……でも、しずかにね」
ルカがミアの服をぎゅっとつかむ。指の力が強い。
ミアが一度だけ、大きく深呼吸をした。逃げるためじゃない、守るための準備だ。
扉の向こうで、何かが止まった。
――ピタリ。
そして、
ガリッ。
鋭い爪が、木の扉を試すようにひっかいた。
薄い扉だ。正直、頼りない。
……だけど、少しでも時間を稼げるなら、それでいい。
俺が守ってやる。
(やらせるかよ。ここは俺の住人の――大事な風呂上がりなんだぞ)
俺はわざと、自分の床板を思いきり鳴らした。
ドスン!
家全体が怒鳴るような響き。
同時に、銀色のカギに力を送る。金属が震えて、キィィンと耳をつく高い音を立てた。
威嚇だ。「近づくな」という合図だ。
外の気配が、一瞬止まる。
……効いた。
少し下がる足音。爪が雪をひっかく浅い音。
やがてその気配は、霧の奥へ消えていった。
しばらくして、ミアがやっと息を吐く。
「……行った……?」
俺は彼女のとなりの柱を、トントン、とやさしく鳴らした。
大丈夫だよ、と言う代わりに。
「……家さん、守ってくれたんだね」
ルカがミアの背中から顔を出す。
ミアは自分の髪にふれた。サラサラした感覚を確かめるように、もう一度だけなでる。
「……守ってもらうだけじゃ、ダメだよね」
つぶやく声は小さいけれど、目は力強い。
ただ怯えるだけの目じゃない。ここを自分たちの「家」にしようとする目だ。
「家さん。……次は、お洗濯がしたいな。服も、布も……ちゃんと、きれいにしたいの」
そのお願いは、わがままじゃない。
「人間らしく暮らす」ためのお願いだ。
(いいぜ、ミア。洗濯板どころか、物干し竿も、新しい服も、ふかふかのベッドも。俺のメニューから全部出してやるからな)
頭の中で、メニューが新しくなった。
【建築メニューが更新されました】
・洗濯セット(桶、板、物干し竿):4BP
・魔力式警戒鈴(トラップ機能付き):6BP
・ふかふかラグマット(防寒・癒やし):6BP
石鹸のいい匂いが、まだ残っている。
ミアの笑い声が、ほんの少し残っている。
いい朝だった。




