第2話 水の音と、夜の灯り
朝だ。
……いや、本当に朝なのか?
俺には分からない。外が見えない。窓がない。正確に言えば、壁の板のすき間から外光はうっすら入るけれど、景色を見るためのものじゃない。あれは、ただの“冷気の入口”だ。
それでも、朝だと分かる。
雨音が細くなり、空気の匂いがどこか軽くなっていた。あの、夜の冷たい刃のような空気はやわらぎ、雲が少し薄くなった気配がある。俺には目も鼻もないけれど、そう“感じる”機能だけはしっかり搭載されているらしい。
毛布がもぞもぞと動いた。
ミアとルカが、ひとかたまりになって眠っていたようだ。毛布は一枚しかない。寒さと床の冷たさに耐えるには、それしか選択肢がない。
俺の床は硬くて冷たくて、最悪の寝心地なはずだ。でも――二人は朝を迎えた。
生き延びた。
それだけで、俺は少しだけ誇らしい気分になる。……胸なんてないけど。
「……おはよう、ルカ」
「ん……おはよ……」
ルカの声は眠そうで、ミアの声は昨夜より少しだけ柔らかい。
毛布から出た途端、ルカが肩をすくめる。
「さむっ……」
「うん。寒いね。……でも、雨は止んだ」
ミアが天井を見上げる。
昨日ふさいだ穴は、ちゃんとふさがったままだ。屋根は、ちゃんと屋根をしている。
ミアの目が、ほんの一瞬だけ潤んで、それからそっと逸らされた。泣くのは昨夜だけにしておきたい、そんな気持ちが表れていた。十三歳って、そういう切り替えが本当に早い。
「おうちさん……おはよう」
俺は返事の代わりに、梁をトンと鳴らした。
「……聞こえてるんだね」
ミアが小さく笑った。
ルカが目を丸くして、はしゃいだように言う。
「姉ちゃん! 家、返事した!」
「返事というか……合図だよ。ほら、静かに」
「でも、すごい!」
ルカは元気になるのが早い。だが――腹が鳴った。
昨日の硬いパンは、もう残っていない。
ミアは袋を確かめて、眉を寄せた。
「……食べ物、もう少しだけ。昨日のスープ、まだ一袋あるけど……」
そう。俺のアイテムボックスに入っていた“食料”は、袋が二つ。昨日、ひとつ使った。残りはひとつ。
その次は? 明日は? 明後日は?
俺の内側に、あのメニューがうっすら浮かぶ。
《簡易灯り:4》
《飲み水の確保:3》
《壁のすき間埋め:6》
《かんぬき(簡易):5》
《BP:8》
選ぶ時間だ。
寒さも飢えも危ない。でも、今この場で最も致命的なのは「水」だ。
食べ物はなくてもある程度は我慢できる。でも、水がなければ……早い。子どもなら、なおさら。
ミアが昨日の濡れた床板を見て、唇を噛む。
「……水、どうしよう。外、探しに行く?」
その声は決意を含んでいた。
ルカを置いては行けない。でも連れて行くには危険。だから、ミアは自分が行くつもりでいる。
――やめろ。
無理するな。
無理して倒れたのは、俺だけで十分だ。
決断する。
飲み水の確保、だ。
《飲み水の確保:3》
《BP:8 → 5》
床が、ぐうっと鳴った。いや、正確には俺がうなった。
腹筋がつるような、変な痛み。家に腹筋なんてあるのかよ。意味が分からない。
「……え?」
ミアが後ずさる。ルカは毛布を握ったまま、目を見開いて固まる。
俺の床の一部が盛り上がった。
板が押し上げられ、下から石の塊が姿を現す。最初はただの四角だったのに、せり上がるごとに形が整っていく。
台。真ん中に浅いくぼみ。縁が少し高い。――水盤だ。
「……なに、これ……?」
ルカは言葉を失って口をパクパクさせる。魚か、お前は。
水盤の奥に、木の栓みたいなものが生えた。
井戸に使われていそうな、素朴な構造。
……いや、違う。
俺は地球人だ。俺の頭にあるのは、蛇口だ。ひねって、ちょろっと水が出るアレだ。
イメージしろ。しっかり。
“こういう形だろ。こうやってひねるんだよ。ほら、レバー。金属。ね?”
――金属のレバー。こう、ひねる。水が出る。カチッと止まる。
ぐにゃり、と木の栓が変形した。
「うわっ」
ミアが驚き、ルカは「ひっ」と小さく声を飲む。
木だったはずの部分が、つやのある金属に変わっていく。先が丸く伸び、横に小さなレバーが生えた。
どう見ても、現代の蛇口だ。
「……姉ちゃん。……これ、なに」
「わ、わかんない……でも……」
ミアはレバーに、そっと指をかけた。戸惑いながらも、引っ込めはしなかった。
「……ひねる、のかな」
レバーがわずかに動いて、次の瞬間。
ちょろ、ちょろ……。
透明な水が、水盤に落ちた。
ルカが息をのむ。
「みず……」
ミアが目を見開いたまま、手を伸ばす。水をすくい、匂いを嗅ぎ、指先で舐める。
「……冷たい。……変な味、しない」
肩の力が抜けた。張りつめていたものが、ふっとほどけるように。
「飲める……」
ルカが、手を伸ばす。
「ぼくも! ぼくも!」
「待って。最初は少しだけ。……お腹がびっくりするから」
ミアは弟の手を取り、水をそっと口元へ運ばせた。
ルカがひと口飲んで、顔をくしゃっとさせる。
「……おいしい」
「美味しい水って、なにそれ」
ミアが笑った。少し震えながらも、確かに笑っていた。
ルカはうなずいて、もう一口。
「本当だよ。家さんの水、すごくおいしい」
ミアは水面を見つめて、ほっと吐息を漏らす。
「……うん。すごいね。ありがとう、おうちさん」
ルカは喉を押さえて、恥ずかしそうに笑った。ミアもそれに笑いかけて――けれどすぐ、顔を引き締める。
水がずっと出るなら、この小屋での生活は大きく変わる。
そう思った矢先、蛇口からの水流が少し細くなった。
同時に、俺の奥底にズキッとした痛みが走る。
……ああ。これ、俺の身体と直結してるのか。
水の量と、俺の体力はリンクしている。
ミアも気づいたようで、水の変化に表情を引き締めた。
「……たくさんは出ないんだね。じゃあ、今は飲む分だけ。あと少し、水筒に入れて……」
ミアは昨日の水筒に、慎重に水を注ぐ。入るのは、ほんのコップ数杯分。
水が止まりそうになり、ミアがレバーを戻す。水は静かに止まった。
静けさが戻る。
水盤の縁を、ミアがそっと撫でた。
「ありがとう。……ほんとに、助かった」
ルカがぽつりとつぶやく。
「……家さん、すごい」
俺の中が、じわっと温かくなる。
昨日のスープとは違う。これは、安心の温度だ。
《建築ポイント+3》
《BP:5 → 8》
……よし。次だ。
水があっても、まだ足りないものがある。
――光だ。
昼間だというのに、部屋は薄暗い。窓がない。すき間から差し込む光は弱く、室内の影は濃い。
ミアが動くたび、ルカがその影を怖がって毛布を握りしめる。
暗さは、心を削る。
夜が来れば、もっとだ。
ミアが部屋の隅から、壊れたランタンを見つけた。ガラスは割れ、芯はボロボロ。油もない。持ち上げて、そっとため息をこぼす。
「……これ、前は使えたのかな」
「光ったらいいのに」
ルカの願いは、素朴で、そして残酷だ。
灯りには理由が要る。油、火、器具。
それがないから、暗い。
時間が流れていく。
ミアは床を掃き、濡れた布で板を拭き、ルカに水を飲ませ、残ったパンを分けた。そうして、どうにか生活を「回して」いた。
けれど部屋の明かりは、ゆっくりと薄れていく。
夕方。たぶん。
すき間から入る光が、青から灰色に変わった。俺の内側の“暗さ”も、ひとつ段を下りる。
ミアがランタンを見て、ぽつりとつぶやいた。
「……夜になる」
俺の内側に、またメニューが開く。
《簡易灯り:4》
《壁のすき間埋め:6》
《かんぬき(簡易):5》
《BP:8》
選べ、と言っている。
寒さか、安心か、灯りか。どれも欲しい。
でも――ミアは昨夜、ほとんど眠っていない。寝返りの数、呼吸の浅さ、扉の方へ向けた体。すべてが、彼女がずっと気を張っていた証拠だ。
このままじゃ、先に倒れる。
だから俺は、決めた。
灯りだ。
《簡易灯り:4》
《BP:8 → 4》
その瞬間、俺の中で何かが弾けた。
ふわりと、光が生まれる。
丸い光。握りこぶし大の、ほんのり淡い光。
眩しくはない。ただ、「見える」。
暗い部屋の真ん中に、“芯”が灯った。
「……うわ……」
ルカが小さくつぶやく。
ミアが反射的にルカを背にかばいながら、目を細めた。
「……幽霊?」
違う違う違う。
俺だ。家だ。幽霊なら、屋根直さねぇ。
ツッコミは出せない。俺にあるのは、梁を鳴らす音だけだ。
光はふらふらと揺れながら、部屋の中を漂う。
そして、壊れたランタンのそばで止まった。
すっ――と、吸い込まれるように中へ入り込む。
次の瞬間。
ぽっ。
ランタンが、灯った。
火ではない。芯もない。でも、確かに光だ。
割れたガラスの隙間から、やわらかな灯りが壁を照らす。
影が丸く、壁を包む。
――暗かった分、明るい。
ルカがはしゃいで跳ねた。
「ついた! 姉ちゃん、ついたよ!」
「……うん。ついた……」
ミアが手を伸ばす。
光に触れそうで、触れない。安堵が溶け出すように、息を吐く。
「……ねえ、家さん。これ……私たちのため?」
俺は、梁をトンと鳴らした。
ミアの目が潤む。
けれど、今度は泣かなかった。
口元にだけ、笑みを浮かべる。
「……ありがとう。……ちゃんと、眠れる気がする」
その言葉が、何よりの報酬だった。
《建築ポイント+2》
《BP:4 → 6》
増えた。けれど、すぐには使わない。
水盤も灯りも、便利なぶん負荷がある。
使いすぎれば、俺が先に壊れる。
……それに、まだ課題はある。
――寒さだ。
灯りはついた。けれど、すき間風は残っている。
壁のどこかから、ひゅう、と冷たい空気が入ってくる。
ミアの肩が一度だけ震えた。
ルカは毛布をぎゅっと握る。
俺は、再びメニューを開く。
《壁のすき間埋め:6》
《かんぬき(簡易):5》
《BP:6》
どちらも、欲しい。
でもどちらかしか選べない。
壁を塞げば、寒さが和らぐ。
けれど、扉は心もとない。かんぬきがあれば安心は増すが、寒さはそのまま。
俺が迷っていると――ミアがぽつりとつぶやいた。
「……今夜は、この明かりで十分。……明日、できることを増やそう」
未来の話をした。
その一言で、俺は決められた。
今夜を越えたから。未来を見据えられたから。
俺は心の中で誓う。
――次は、壁のすき間だ。
冬が来る前に、壁を“家”にする。
その次に、かんぬき。扉を“扉”にする。
ランタンの灯りが、かすかに揺れる。
俺の身体が、きしむ。まだ、しょぼい。
ランタンひとつ灯すのに、これだけ苦労する。でも――
この“しょぼさ”から積み上げるからこそ、意味がある。
ルカが光を見上げて、ぽつりと言う。
「……星、みたい」
「星は、外にあるものよ」
「でも、家の中にも、できた」
ミアが一瞬だけ黙って、ふっと笑った。
「……そうだね。家の中にも、できた」
その笑い声が、俺の柱を軽くした。
俺は、家だ。
帰ってこれる場所だ。
水の音と、夜の灯り。
たったそれだけで、二人の世界は少し広がった。
なら俺は、その“少し”を、明日も増やす。
次の改築は――壁。
すき間を塞いで、寒さを追い払う。




