31
…………やってしまった。
この後も仕事があると立ち去るウェリントン次期侯爵を見送り、私はひとりソルの病室でうなだれた。
やってしまった、というよりは、どうしたものか、というのが正しいか。
ウェリントン次期侯爵に「これからも弟と良き関係で」と言われてしまって、実は彼と疎遠になる予定があるとは言い出せなかった。
でもだからと言ってロデオバーグ男爵のことも蔑ろにはしたくない。
あちらを立てればこちらが立たぬという状況に私は頭を抱え、けれどもひとまずロデオバーグ男爵と相談はしてみようと決意を固めた。
何度も何度も互いに納得いくまで対話をして良い落とし所が見つけることは、アズーロ様に教わったやり方だ。
アズーロ様の良き知り合いであるロデオバーグ男爵ならば、きっと良い解決策が見つけられると思う。
幸い、今日は仕事が終わった後に彼とまた会う約束があった。そこで相談してみよう。
と、決意を固めた時だ。
「…………カノン?」
「っ、ソル!」
か細く掠れた声に私はハッと振り返った。
ずっと眠り続けていたソルが薄く目を開き、かすかに青色を覗かせていた。
久しぶりに見る色に安堵から泣きそうになる。
「目が覚めたのね、よかった……! 待ってて、今お医者様を……っ」
呼んでくるから、と声をかけて医師を呼ぼうとした私の腕をソルが取る。
引き止めるような動きに私が彼を振り返れば、彼の腕がぐいと私を引っ張る。
不意を打たれた私は途端にバランスを崩して彼の胸に飛び込むように倒れた。
「ちょ、ソル……!」
慌てた私が咄嗟にベッドに手をついて起きあがろうとするも、ソルの腕がそれを許さない。
ぎゅう、と私を抱き込んだまま、彼は何も言わずに私を閉じ込める腕に力を込める。
「ソル、ちょっと……!」
「ここにいて、カノン……」
なんとか逃れようと身を捩る私の耳に直接吹き込むように、ソルが囁く。
ぞわりとするくらいに切なく危うげな声音に体がすくめば、ソルがくすりと笑んで私を抱きしめたまま頭を撫でた。
恋人にするような甘く優しい手つきは受け入れるにはあまりにも居心地が悪くてソワソワする。
「ソル、私、お医者様……」
「いやだ」
落ち着かない気持ちの私に、ソルが駄々をこねる子供のように言って私の肩に額を擦り付けた。
「せっかく君を捕まえたのに、このまま離したくない」
「ソル、ふざけてないで……」
「ふざけてない」
叱りつけるような私の言葉をソルが真剣な声で遮った。
「ふざけてなんかいない。カノン、僕は君が好きだ」
「…… ……………え?」
空白。思いがけない告白に私は間抜けに聞き返す。
ソルは私の肩に額を埋めたまま、言う。
「君が好きだ。ずっと好きだった。離したくない。君はいつも信じてくれなかったけど、僕は本当に君が好きなんだ」
………… …………………えっ???
空白になった頭に直接言葉を流し込まれたような感覚なのに、やっぱり私には理解ができなくて戸惑った。
冗談なのか、本気なのか。彼の真意が何ひとつわからない。
「君を離してどこかに行かれるのはいやだ。そばにいて……ずっと僕のそばにいて、カノン。大事にするから。僕が一生大事にするから……だから、頼むよ、カノン……」
ぐず、と鼻が鳴る音がした。
彼が泣いているのだと気がついて、私はますますパニックになる。
何が? 何で? 待って、本当何が起こっているの???
戸惑う私はなんとかソルの顔を見ようと腕を突っ張るが、やっぱりソルの腕は離れなかった。
私を逃すまいとソルは必死に膂力を振り絞って私を抱きしめる力を込める。
ぎゅ、と縋るような腕はまるで迷子の子供だ。
だから無理に引き剥がすことが躊躇われて、私はされるがまま彼に抱き止められたまま動けなかった。
ぐずぐずと泣き続けるソルの嗚咽だけが病室に響く。
その間、私はただただ困惑しきっていた。
そのうちきっとソルも気持ちが落ち着いて泣き止むだろう。
けれど、そうした後で私は彼に何を言えばいいのか。どう応えればいいのか。
彼は本気なのだろうか。それとも「なーんて、驚いた?」といつもの笑顔でからかってくるのだろうか。
本当にわからない。私は彼にどう返せばいいのだろう。
「ーー…………」
思いの外、彼の胸は広く、あたたかい。
前に失恋を自覚して彼の腕の中で泣いた時には気づかなかったことに気がついて、ますます居心地が悪くなる。
トクトクと駆け足で鳴っているのはソルの心臓の音なのか。それとも私の心臓の音なのか。
ーー……私の心臓の音のような気がする。
何せ、何か胸につっかえるような感覚がして上手に息が吸えない。まるで溺れているみたいだ。
初めての感覚が少し怖い。緊張にも似た恐怖に私はどうしていいのかわからず、ただ途方に暮れた。
やがてぐずぐずと泣いていたソルの嗚咽が小さくなる。
気持ちが落ち着いてきたのだろうか。
私はそのタイミングで改めて彼から離れようと腕を突っ張ったが、やはりソルの腕はびくともしなかった。
「……ねえ、カノン」
掠れたソルの声が私を呼ぶ。
「聞かせて。君は……僕を選んでくれる?」
「それ、は……」
「……僕を選んで。そうじゃないと、このまま君を離さない」
わがままを言うように囁くソルに私は答えられない。
選んで、と言われても。
そんなすぐに答えを出せない。
だって私はすでに選んでいた。
ソルではない人との未来を。恋とは違うが、それでも穏やかで幸せが掴めるだろうと思った未来を。
そんな道を踏み出そうとしていたのに。
だから急に引き止められて、選んでほしいと言われて、すぐに答えが出せるものではない。
「ソル、待って。考える時間を……」
「だめ。今すぐ答えて。だって君、離したらもう二度と僕に触れさせてくれなくなるじゃないか」
今すぐ。だからそんなの困る。
後々にも響く大事な選択になるはずのことを、こんな精神状態で出せるはずがない。
トクトクと早く鳴る心臓の音が急かしているようで、私はますます焦る。
私は、今までそういう風にソルのことを見たことがなかった。
彼の言葉はいつも羽毛のように軽くて、掴みどころがなくて、誰にでも言っているんだろうなと。だから本気にするだけ馬鹿を見るのだと思っていたから取り合ってこなかった。
好きだという言葉は真実だとしても友愛や親愛のようなもので、決して彼は私にそういう感情を抱いているわけではないのだと、そう思い込んでいたから。
だから……ーーああ、本当にどうしよう。
アズーロ様と婚約していた時だってこんな気持ちになったことはなくて、こんな熱のこもった気持ちを向けられたこともなかった。
「私……私、は……」
「ーー……さーん、回診のお時間でーす」
と、その時、隣の部屋に入室する看護師の声が聞こえて、私は大きく体を跳ねさせた。
今はまだ隣の部屋だけれど、そちらが終わったらソルの部屋に回診に来るに違いない。
今の状況を人に見られたら、と思ったら、私は急に恥ずかしくなってソルから距離を取ろうと再度腕を突っ張った。
ソルはしばらく抵抗するように私を抱きしめ続けていたけれど、やがて小さく笑うように息をこぼすと腕を緩めて私を解放した。
「……残念、時間切れか」
そう呟くソルの顔は困ったように笑んでいた。
「あ、の……ごめんなさい、私、急に答え出せなくて……」
「いいよ、カノンはちゃんと考えないと答えが出せないことは知ってた」
私の言葉に彼はなんて事ないように笑む。
その笑顔に隔意を感じた。
まるで見えない壁に鼻先をぶつけたような気分だ。
「今のは忘れて。僕もどうかしてたんだ……いや、ううん、やっぱり忘れないで」
前言をあっさり翻し、ソルが言う。
「僕が君を想っているってことは本当だから。忘れないで、カノン。僕はね、君が好きだよ」
柔らかくて軽やかで、宙をくるくる舞い飛ぶ羽毛のように掴みどころのない言葉はいつものソルだった。
でも初めて、その言葉が私の手の中に落ちてきたような気持ちになった。
「君も同じ気持ちになってくれたら嬉しいなあ」
心臓が跳ねる。
私はソルの顔が見れなかった。




