第32話
『何者だ?』
とオボロが訊く。
『アムネイ山の月狼か。守護者としては小粒じゃが、この際贅沢は言っておられぬな』
答えたのは、あきらかに猫だった。
この猫の正体が何かって?
これまでの情報で推測がついた。
「まさか、おまえがサンセレストに封印された悪しき竜なのか?」
『ほう、察しが良いの。……っと、待て待て。そう殺気立つでない』
猫はそう言うと、前脚を舐めて自分の耳をぽりぽりとかく。
『おぬしに敵対するつもりはない。むしろ、助力を乞うためにこうしてやってきたのじゃ』
「助力……?」
『うむ。……しかし、ああ、ここはぬくいな。焚き火に当たりながらでよいかの? たしかに妾のようなイマーゴは雨には濡れぬが、雨に打たれたというイメージの影響は受けるのだ』
と言って、勝手に焚き火台の前の一画に香箱座りを決め込んだ。
「ホットミルクでも飲むか?」
俺はタープの片隅に電子レンジと冷蔵庫を取り出し、冷蔵庫の中にしまってあった牛乳をレンジで温める。
シリアル用の浅めのスープ皿にホットミルクをよそって、猫の前に置いてやる。
『おお、かたじけないの。ほう、これはうまい。これほどに美味な牛乳を飲むのは初めてじゃ』
「それはよかった。で、落ち着いたら、事情を話してくれないか? オボロがピリピリしてるみたいだからね」
『油断するなよ、ノエル。悪しき竜といえば、百年前にこの一帯に天変地異を引き起こした張本人だ。たばかりごとがあるかもしれぬ』
『吠えるな、若き狼よ。妾が人の子をたばかってなんの意味がある?』
『では百年前の災禍にどんな意味があったというのだ!』
「ストップストップ。ひとまず話を聞こうよ」
オボロをなだめ、俺は猫に話を促す。
『百年前の災禍は、妾にとっても忸怩たるものじゃった。そもそも妾は、そこな狼と同じ守護者であった』
「守護者……とは?」
と訊いたのはエリーゼだ。
『この星は太古の昔に一度砕かれておるのでな。神々は、砕かれし大地を繋ぎ止めた後、その大地に守護者を置いた。繋ぎ止めたとはいえ、いつどこで繋ぎ目が破れるかわからなかったからじゃ』
『守護者となったのは太古の昔に生み出された力ある幻想――イマーゴたちだった。我のような』
「いちばんえらいのが神様たちで、その使いというか現地代理人のような立場にあるのがあなたやオボロのような存在ってことかな」
『さよう。妾は神の代理人として、地の底から汚染された魔力が噴出する危険地点――魔の山サンセレストを守護しておった』
「魔の山ですって?」
エリーゼが驚いた。
ロスベリア公爵家では――いや、公爵領全体で、サンセレストは霊峰とされている。
『しかし、永き年月の果てに、妾は疲弊してしまった。尽きることなく溢れ続ける魔力に汚染され、妾は気づけば悪しき存在になれ果てておった』
「それが悪しき竜だって言うのか」
「かわいそうです……」
口々に言う俺とリーシュカに、
『待て、まだ信じるな。詐術かもしれぬであろうが』
とオボロが警告する。
『そこな狼が疑うのはもっともじゃ。魔力に深く汚染されたイマーゴは、元には戻らぬ。この……牛乳の膜と一緒じゃな』
見ると、猫の口元にはミルクの膜がくっついていた。
ちょっとミルクを温めすぎたらしい。
たしかに、一度こうなった膜はミルクには戻せない。
タンパク質が凝固してしまっているからな。
リーシュカがしゃがんでその膜をウェットティッシュで取ってやる。
猫は気持ちよさそうにされるがままだ。
『今この場にいる妾は、最後に残された守護者としての力を切り離したものにすぎぬ。これとて、汚染は進んでおる。今はせめぎ合って耐えていられるが、ゆくゆくは魔力に呑まれることであろう』
「そんな……」
とリーシュカ。
『頼みというのは他でもない。妾は、妾の本体である悪しき竜に戦いを挑む。むろん、勝ち目はないじゃろう。じゃが、しばし時を稼ぐことくらいはできるであろう。おぬしらには人里に急ぎ戻り、ことの次第を人の子らの王に伝え、民を逃がし、兵を差し向ける手筈を整えさせてほしいのじゃ』
『なっ……まさか、死ぬつもりか? わずかばかりの時を稼ぐために、永遠の寿命を抛つというのか!?』
『百年前には何もできなかったからの。これ以上妾の落ち度で人の子らが傷つくのを見とうないのじゃ』
「あなたは……」
と絶句したのはエリーゼだ。
『人の子よ。このほっとみるくはおいしかったぞ。妾の最後の晩餐にまことふさわしい。馳走になった。では、妾はこれにて――――ぷぎゃっ!?』
俺は、雨の中に駆け出そうとする猫の首根っこを捕まえた。




