第8話 「幸福の定義」
――鐘が、もう鳴らない。
王都と聖都をつないだ鏡は、いまや沈黙の面となり、
壇上の契約光も、ゆっくりと息を止めていた。
断罪も祈りも、物語法の書き換えも終わり、
この国には空白の時間が訪れた。
民は問わなくなった。
裁かれる者も、裁く者もいない。
だが――問いをやめた世界は、幸福なのか?
その答えを探すために、私はもう一度壇に立った。
鏡の奥には誰もいない。
それでも、鏡は私を映している。
かつて“悪役令嬢”と呼ばれた女の、疲れた顔を。
第一章:幸福の法廷
壇の周りには、三人だけがいた。
アザゼル、コルカ、そしてミレーユ。
観客も聖職者もいない。
代わりに、壇の中央には一本の糸が張られていた。
王都から聖都へ伸びる、細く透明な糸。
私は静かに宣言する。
「――幸福の定義を、再審します」
アザゼルが微笑む。
「幸福を定義した瞬間、それは失われる。
それでも君は、やるのか」
「やらなければ、この国は“静寂”のままです。
断罪が終わり、祈りが止まり、物語も筆を置いた。
誰も叫ばない世界は、安らぎではなく、停滞です」
コルカが机に肘をついて言う。
「じゃあ質問。
“幸福”って、証拠が残るの?」
ミレーユは首を振る。
「祈りと違って、幸福は記録されない。
人の中に、しばらく灯って、消える。
帳簿に書けないものを、どうやって法にするの?」
私は糸を指先でつまんだ。
「だから――書かない法を作るのです」
第二章:幸福の証人たち
最初の証人は、少年エドだった。
かつて私が断罪を受けた日の群衆の中で、
“あの女を許してやって”と叫んだ少年。
「幸福ってなんだと思う?」
エドは少し考えてから言った。
「わからない。けど……“もう一度話せること”かも」
「誰と?」
「誰でも。だって、話せない人がいちばん寂しそうだから」
私は頷き、鏡にその言葉を刻む。
幸福とは、言葉を返せること。
二人目の証人は、会計官セルドだった。
彼はもはや拘束を解かれ、旅の途中にあった。
髪に塩風を受けながら、静かに言う。
「幸福とは、空欄を埋めないことだ。
神の余白を、誰かが勝手に埋めてしまうから、人は苦しむ。
何も書かずに、それでも隣に誰かが座っている。
それが幸いだ」
私は再び鏡に記す。
幸福とは、空欄を共に見つめること。
三人目の証人は、母だった。
彼女の姿は、鏡の中に淡く現れた。
「幸福とはね、レネー――」
声が、どこか遠くから届く。
「物語を閉じる勇気よ」
第三章:幸福の定義式
私は壇の前に立ち、三つの証言を読み上げた。
「幸福とは、言葉を返せること。
幸福とは、空欄を共に見つめること。
幸福とは、物語を閉じる勇気。」
その三つを糸に結び、鏡に投げかける。
糸は光となり、鏡の中へ吸い込まれた。
次の瞬間――鏡が微笑んだ。
ひび割れはなく、曇りもない。
ただ、私の姿が、ゆっくりと消えていく。
「消えるのではなく、“融ける”のです」
アザゼルが囁く。
「君が法を終えた瞬間、君自身が物語の外に出る。
幸福とは、“外に出られること”かもしれないね」
私は笑った。
「ようやく……“悪役令嬢”を卒業できますね」
第四章:終わりと始まりのあいだで
鏡の奥では、王都と聖都が溶け合っていた。
祭りも祈りも、争いも、音も、すべてが混ざり合う。
世界が一枚の絵になっていく。
その真ん中で、子どもが叫ぶ。
「ねえ、もう“悪役令嬢”っていないの?」
私は答える。
「いないわ。
でも、“自分の言葉で語れる人”なら、いるでしょう?」
子どもは笑った。
その笑顔が、世界の中心に灯りをともす。
それが幸福だった。
誰かが笑ってくれること。
裁かれず、祈らず、ただ生きて笑うこと。
鏡が再び、鐘のように鳴った。
その音は、どんな法も越えて、世界に響いた。
第五章:幸福の法文
私は最後に、契約光を指先に灯し、
鏡の面へと一行を刻んだ。
幸福の定義
人が誰かと、言葉を交わし、
空欄を共に眺め、
その物語をいつでも閉じられる自由を持つとき、
そこに幸福がある。
書き終えた瞬間、鏡が光に包まれ、
天と地の境界が消えた。
アザゼルの羽根が風に乗り、静かに舞う。
ミレーユは涙をこぼし、コルカが手を振る。
私は振り返らない。
鏡の中に、もう一度、母の笑顔が見えた。
そして、すべてが光の中に溶けた。
――母へ。
背筋はもう、言葉の重さを支えられました。
だから、今日をもって私は筆を置きます。
そして、次に書く人にこの場所を託します。
幸福とは、書き続ける力を他人に譲ること。
(第八話 了)




