第5話 「会計官の座席」
召喚状は、椅子の形をしていた。
黒い羊皮紙に、薄い灰で描かれた一脚の座。脚は四本、笠木は低く、肘掛けはない。座面の中央に、小さな円。そこに「座す者、語る権能を得る」と印刷されている。
私はそれを封に入れ、鏡の壇の前で、民衆に読み上げた。
「本日――会計官セルド・イェルバに“座席”を与えます。座らないなら、座席の権能は、証拠に与えられる」
ざわめきが、王都広場と聖都前に同時に揺れた。
アザゼルが陰で短く頷く。
「“席次”は物語の骨だ。正しい席に正しい者が座らなければ、話は歪む」
「だから、椅子から始めます」
私は言い、壇の中央に無垢の椅子を運ばせた。灰色の布をかけ、座面の小円に、封蝋の印。
斜め後ろでコルカが、端正に紐をむすび、ほどく練習をしている。ほどくことは結ぶことと同じくらい難しい、と彼女は言った。
◇
日没。
鏡は二つの広場を結び、壇の中央に“座席”が置かれる。
王都は期待を含んだざわめき。聖都は、張り詰めた静けさ。
セルドは、白い柱の列の影にいた。最前列から半歩だけ後ろ。
私は呼吸を整え、開会を告げた。
「第四回“断罪のやり直し”――『会計官の座席』。本日、会計官セルド・イェルバに、公の座を与えます。着席を」
沈黙。
セルドは前へ出ず、視線だけを送ってくる。
私は三度呼びかけた。
「会計官、セルド・イェルバ――着席を」
呼び出しの回数は、礼法の約束。三度で、拒否が確定する。
セルドの口元がわずかに笑い、肩が揺れた。
彼は言葉の代わりに、袖の中の小瓶を撫でた。
それは、沈黙の宣言だった。
「記録。――不着席」
私は黒い指輪の縁を二度叩き、契約光で椅子の縁を縫う。
光は淡い線を描き、座面の小円に落ち着いた。
「座席は証拠に与えられます」
私は宣言し、三つの品を持ってこさせた。
――偽印の封蝋。
――第七救恤庫の縄。
――搬入口の合鍵の押痕がついた袋口。
それらを椅子の上へ、供え物のように置く。
ざわ、と空気が動いた。
座るべき人間が座らない時、座るのは物だ。
物は嘘をつかない。つくなら、その痕が残る。
「会計官の座席から、供述を始めます」
私は言い、ガヴェインにうなずく。老人は椅子の横に立ち、封蝋を指で示した。
「この縁、噛んでいない。鏡の意匠の“鈍り”がない。新正印で押された可能性が高い。新しさで古い正しさを上書きした」
私は次に縄を持ち上げた。
コルカが笑みを引き締め、早口で言う。
「縄は塩で咽てる。粉の吹き方が、庫の汗。長く置いた証拠!」
最後に袋口の押痕。
私は押痕と鍵の型の一致を鏡に映し、言葉を短く整える。
「――合鍵」
王都広場がうねり、聖都前の列が軋んだ。
セルドは動かない。
動かないという動きを、私は記録する。
「弁明、ありますか。――会計官の席に対して」
セルドは、ゆっくりと前へ出た。
椅子の前で止まり、座らずに言う。
「座が正義なら、私は立って語る。立つ正義もある」
「では立って帳簿を」
私は応じる。「王都の“空欄”と、聖都の“特別費”。同時開示を」
「宗庁の手続きは、宗庁で――」
「――公然が条件です」私は被せた。
言葉が刃になりかけ、指輪の縁が小さく鳴る。
契約光が座席の上で、わずかに波を立てた。
アザゼルは黙って見ている。
見ていることも、介入だ。
彼の沈黙は、私の言葉に空白を与え、空白は観客の判断で満たされる。
◇
「証人を追加します」
私は鏡の奥に合図を送った。
写本院の若い書記――マルタが映る。
髪を固く結い、黒いインクで指が染まっている。
「私は、書き写す仕事をしています」
マルタは早口だが、噛まない。「“特別費”の伝票の重複が三度ありました。額は小さく見えるけど、桁の位置が違う。十倍。赤いインクで“祭礼特例”と上から書かれている。数の列は合うのに、意味が合わない」
「誰の指示で?」
「……会計官、セルド・イェルバ」
聖都前が動き、法衣の列の襟が一斉に震えた。
セルドのこめかみに、わずかな脈打ち。
彼は初めて、椅子を一瞥した。
座面に置かれた封蝋、縄、袋口。
物が語る量に、彼の沈黙が追い付かない。
「反対尋問をどうぞ」
私は言う。
セルドはマルタを睨み――そして、観客を見た。
選んだ相手は、民だ。
「写本院の若い娘が、桁を見誤ったのではないか」
言葉が刃。
私は指輪を叩き、鈍化させる。
マルタは一瞬だけ唇を噛み、すぐに言い返した。
「数字は、音でも読みます。七が続けば、指が鳴る。そこへ十が混ざると、鳴らない。私は十年この音で食べています」
王都広場に笑いが走り、拍手に変わる。
聖都前で、若い法衣が思わず頷いた。
「証言、終わります」
私は深く頷き、視線をセルドに戻した。
「最後に、席の手続き。――会計官セルド・イェルバ。あなたに、着席命令を出します。拒めば、欠席裁判の手続きに入る。選ぶのは、あなた」
セルドは、一歩、椅子に近づいた。
指が、座面の布に触れかけ――止まる。
彼の視線が、鏡の縁に向いた。
昨夜、遮断液で曇らせたその場所は、今日は澄んでいる。
遮れないと悟った目だった。
彼は、笑った。
短く、冷たく。
そして、座らなかった。
「記録。――不着席、確定」
私は宣言し、地図の壇の端にある小さな鐘を鳴らした。
高く澄んだ音。
「民に問います。――会計官セルド・イェルバに、公開尋問のための拘束を認めますか。右手は認める、左手は認めない」
王都広場――右の白が、大きな波を作った。
聖都前――逡巡ののち、右が増える。
前列の法衣たちの手は、胸の内側で固まったまま動かない。
「集計」
コルカが板に数字を書き、私に向かって親指を立てた。
――可決。
「結果。――拘束可」
私の声は震えなかった。
けれど胸の中の何かが、強く鳴った。
母の“背筋”が、さらに一本、増えた気がした。
「ただし」
私は続ける。「拘束は手続きで行う。乱暴は要らない。座席を持って行く。座れば語れる。語れば、やり直せる」
アザゼルが陰で指を一度だけ鳴らした。
黒い羽根が、座席の脚に絡み、ひょい、と持ち上げる。
椅子は軽々と宙に浮き、鏡の中の聖都広場へ移動した。
人々の頭上で、座る権利が運ばれてゆく。
セルドの表情が、初めて怒りで歪んだ。
怒りは、焦りだ。
焦りは、終わりに似ている。
「次回予告――『公開尋問』。会計官セルド・イェルバ。あなたの座を用意しました。座り、語り、選びなさい」
王都広場に拍手。
聖都前には、重い沈黙。
私の背に、アザゼルの視線が柔らかく触れ、すぐ離れた。
私は椅子の跡が残した四つの丸い影を見つめ、深く礼をした。
――母へ。
背筋は、椅子より硬くなりました。
けれど、座るべき人が座るために、私は柔らかく立ちます。
(第五話 了)




