第3話 「鏡の証言」
審理の翌朝、城の夜は薄い青さを孕んでいた。
私は鏡の壇の前に立ち、布で銀面を拭う。指先にふっと冷気が吸いつく。
――今日は、名前を出す。
アザゼルが静かに現れた。黒の礼装の襟に、指の跡ほどの白い粉が落ちている。昨夜、鏡の枠を磨いていたのだろう。魔王が手を動かす光景は奇妙に親密で、頼もしい。
「刻印師は呼べた?」
「呼んだ。君の“癖”の話が気に入った職人だ」
アザゼルの目尻が笑う。「それから、コルカが“空欄”の行き先に通じる倉所を突き止めた。鍵は、塩だ」
「塩?」
「あとで話す。先に、職人を」
扉が音もなく開き、小柄な老人が入ってきた。灰の髪、丸い背。指は節くれ立ち、爪は磨かれている。掌全体が“押す”職の厚みを湛えていた。
「王都印章工房・刻印師、ガヴェインでございます」
老人は丁重に頭を下げ、私の姿勢を見て、わずかに口角を上げた。
「背筋の通った人は、印を見る目も通る」
「お招きに応じてくださり感謝します。見ていただきたいものがございます」
私は昨夜の偽造封蝋を盆に乗せ、鏡の前の台に置いた。
ガヴェインは覗き込まない。まず距離を取る。
職人は、距離の選択から始めるのだ。
彼は二歩、三歩と円を描き、鏡ではなく封蝋そのものの影を観察し、それから、指先で空気を撫でた。
「……浅い。彫りが、印の“痛み”を知らない」
彼は盆の脇に置かれた工具を取るでもなく、掌を封蝋にかざした。
「押す時、手はほんのわずかに震え、印の縁が紙の毛羽を噛む。これは、噛んでいない」
私は頷く。「昨夜、同じ印象を得ました。さらに、鏡に映すと――」
「映さなくてよい」
ガヴェインは、ふう、と息を吐いた。「鏡は観客に真実を見せるための道具。だが職人に必要なのは、癖の記憶だ。王家の『冠と鏡』の意匠。下の鏡の左辺だけ、先代の刻印師が刀を研ぎ直したときから、ごく僅かに鈍っている。その鈍りが、誇りだった」
彼は盆に指を当て、偽の封蝋をひっくり返す。
「この偽印には、その“誇り”がない」
「刻印石を、直前に削った形跡があります」
「だろうな。作り話を押すための印だ。印章が法を押すのではない。物語を押している」
アザゼルが横で低く笑い、口を挟まない。
私は台本に赤で記した。
――証拠A:刻印師の証言(先代時代の鈍り)
――証拠B:噛み跡不在
観客にも伝わる言葉で翻訳し直す必要がある。
「ガヴェイン様。公開審理で証言していただけますか?」
「名を晒すことになるが、よいかね」
老人の目は、年齢より澄んでいた。
「誇りを押すには、名も押す。私は印章工房の末席、ガヴェイン。偽印に負ければ、工房は死ぬ」
「ありがとうございます」
そこへ、コルカが息を弾ませて飛び込んできた。
「見つけた! “空欄”の先――聖都の第七救恤庫!」
頬に白い粉がついている。塩だ。
「やはり塩が鍵ですのね」
「うん。聖都前の広場、屋台の塩が一時的に足りなくなる日が定期的にあるの。しかも王都の祭礼とズレてる日。そこに“空欄”の金が入って、塩の買い付けに回ってる。帳簿は物資に変えると追いにくいけど、塩は匂いが残る」
「匂い?」
「塩蔵庫って、湿りと石の匂いがするの。あと、運んだ後に縄が白く粉を吹く。粉の吹き方で庫の湿度がわかるんだよ」
私はコルカの指の白さに目を落とし、胸が温かくなるのを感じた。
舞台裏の王は、生活の証拠で線を引く。
「第七救恤庫の管理者は?」
「宗庁会計官――セルド・イェルバ」
コルカはメモを差し出した。「王都側の空欄を作った書記達が夜に出入りしてたの、コルカ見た。搬入口の合鍵、セルドの印」
初めて、敵の名前が紙に乗った。
私はそれを見つめ、息を深く吐いた。
「セルドは、観客の前に連れてこられますか?」
「彼は逃げる」アザゼルが静かに言う。「逃げる者は、言葉を壊す」
「なら、壊される前に“見えるもの”を増やしましょう」
私は台本に新たな項目を書き込む。
――証拠C:第七救恤庫の塩の出入り(縄の粉・湿度)
――証拠D:搬入口合鍵の押痕
――証拠E:鏡の証言(印章の鈍り)
「今日、日没前に第二回審理を」
アザゼルが頷き、私の手元の紙を見て小さく笑う。「君はもう、舞台監督ではなく政庁長官だね」
「称号はどうでも。手続きが欲しいのです」
私は鏡の面を布でひと撫でし、光に曇りがないか確かめた。
◇
日没。
鏡の壇の前に、私、ガヴェイン、コルカ、アザゼル。
鏡の向こう――王都広場は昨日の続きのようにざわつき、聖都の白い柱の下は、法衣の数が目に見えて増えていた。
宗庁の列の前、灰衣の男が立っている。四角い顎。無色の目。
――セルド・イェルバ。
「第二回“断罪のやり直し”を始めます」
私は声を通し、壇に手を置いた。
「本日は、鏡の証言を中心に、印章の癖と、空欄の金の行き先を示します。王都印章工房・ガヴェイン氏、証言を」
老人は一歩進み、鏡に向かって頭を下げた。
「印は、押す人の癖を映す。こちらが偽印。こちらが正印――先代時代の“鈍り”がある」
彼は印の縁を指し、鏡に映して角度を変える。
銀面の上で、刻まれた鏡の意匠の片側だけが、ほんの少し丸い。
会場のどよめきが、理解の合図に変わった。
「偽印は美しすぎる。美しさは、仕事の痛みを知らないときに出る」
私は頷き、盆を入れ替えた。
「次に、台帳の封蝋の“噛み跡”。繊維を拡大鏡でご覧ください。正印は紙の毛羽をわずかに噛む。偽印は噛まない」
鏡に、毛羽立ちの連なりが映る。
王都広場の前列で、商人たちが首を伸ばした。
聖都前では、若い法衣が何人か、わずかに顔色を変えた。
「以上、印章に関する証言を終えます」
私は台本をめくる。「次に、“空欄”の金の行き先――第七救恤庫の塩」
コルカが元気よく前へ出て、縄と袋を掲げた。
「みんな、縄のこの白い粉、見える? これは塩の粉。湿度が高い庫で長く置かれると、粉がこういう吹き方になるの。乾いた庫だと粉は薄く均一。第七救恤庫は、壁が汗をかくくらい湿ってる。つまり大量の塩が、長く置かれてる」
「寄進は“すぐに恵みに”変わるという宗庁の宣伝に反しますね」
私は言い、縄の結び目に押された小さな印を鏡に映した。
――細い“鍵”の型。
「搬入口の合鍵の押痕。この型は、会計官・セルド・イェルバの局印に付随する管理鍵と一致。王都からの空欄は第七救恤庫へ、そこから塩の買い付けに回り、帳簿から消える」
聖都前の列で、灰衣の男が一歩こちらへ出た。セルドだ。
彼は鏡の面を睨み、低い声で言った。
「寄進の塩は、飢えた民のためだ。倉に置くのは、飢饉に備えるため。偽善者」
言葉が刃になる。
私は右手で、黒い指輪の縁を二度叩いた。
空気が少し鈍る。
私は刃を正面から受けず、手続きに沿って返す。
「善は評価します。手続きは問います。倉の簿冊と、出納の同時開示をお願いします。王都と聖都の二つの場所で、鏡の前で」
セルドの目が細くなる。
「宗庁の簿冊は、聖域だ」
「聖域は人を守る場所であって、帳簿を隠す場所ではない」
私が言うと、王都広場から小さな拍手が起きた。
アザゼルが陰で腕を組み、黙っている。
コルカが縄を掲げ直す。ガヴェインが静かに背を伸ばす。
「反対尋問をどうぞ」
私はセルドに促した。
「悪役令嬢」
セルドは、言葉をわざと観客向けに投げた。
「君の言葉は、魔王の城から出ている。真実はどこにある?」
観客に、揺れ。
私は目を閉じ、また開く。
「真実は、ここにあります」
私は鏡の面を、掌でそっと叩いた。
銀が、静かに鳴る。
「印の鈍り、毛羽の噛み跡、縄の粉、鍵の押痕。見えるものが、ここにある」
セルドは鼻で笑い、袖から小瓶を取り出した。
無色の液体。
彼はそれを、聖都側の鏡の下辺にぱらりと振りかけた。
銀が、一瞬で曇った。
ざわめきが上がる。
コルカが叫んだ。「涙塩!」
アザゼルが眉を動かす。「古い遮断液か」
私は即座に指輪を叩き、壇の縁の契約光を走らせた。
銀の曇りが、じわ、と引く。完全ではない。曇りの縁だけが、波打つ。
「遮断は、記録に残します」
私は声を落ち着けて言う。「今の行為は“見せない”ため。妨害です」
王都広場が騒ぎ、聖都前の後列がざわついた。
セルドが、わずかに肩を竦める。
「宗庁には宗庁の秩序がある」
「秩序が、真実を遮らないなら、賛成です」
私は壇の角度をずらし、鏡の反射で、曇りの端に焦点を合わせた。
曇りの外には、相変わらず毛羽の噛み跡、鈍り、鍵の押痕。
十分だ。観客は見えている。
「最後に、王都印章工房からの願い」
ガヴェインが前に出た。
「印は国の顔。偽印が通れば、国は顔を失う。私は工房の末席、ガヴェイン。名を以て、偽印を拒む」
老人の声は老いているのに、鏡の中で若かった。
王都広場に、静かな拍手が広がる。
聖都前では、若い法衣が二人、互いに顔を見合わせ、手袋を外した。
手袋の下の手は、緊張に汗ばんでいる。
「民に、問います」
私は両手を胸の前で重ね、姿勢を正した。
「偽印をもって作成された“断罪”は、やり直すべきか。右手はやり直す、左手はやり直さない」
王都広場――右。
聖都前――右が増える。
宗庁の前列――動かない。
「集計」
コルカの声。
板に数字が重なってゆく。
――右、前回よりもさらに多い。
「結果。断罪はやり直す。併せて、偽印使用の疑いで、宗庁会計官セルド・イェルバの公開尋問を請求します」
セルドの顎に小さな笑みが走った。
「君は、物語を動かす。だが物語には、結末が必要だ」
「ありますとも」
私は鏡越しに、彼の無色の目を見返した。
「結末は民が決める。そのために、次を用意しました」
私は台本の最後の頁をめくり、宣言する。
「次回――『空欄の行き先』。第七救恤庫の出納帳を、鏡の前に。倉に入った塩の斤量、出た塩の斤量、転売の記録、運搬路を示します。拒むなら、妨害の名の下に記録する」
王都広場で、拍手。
聖都前の若い法衣が三人、列を離れた。
白い列は、微かに形を変えた。
アザゼルが陰で一度だけ指を鳴らす。
契約光が微かに揺れ、私は息を吸い直した。
――母へ。
背筋は今日も、武器になりました。
私は武器で誰かを切らず、見せるために使います。
(第三話 了)




