第2話 「亡命の花嫁」
城は、夜でできていた。
正確に言えば、夜の性質――湿りすぎない冷気と、息を整える暗さと、物音の輪郭だけが残る静けさ――が壁になり、床になり、天井になっていた。
私はその夜の廊下を、黒い礼装の男――アザゼル――と並んで歩いた。
「亡命の手続きは簡潔にしよう」
彼は言い、指先で空中をなぞった。羽根のような黒い書記具が宙に現れ、私の周囲を一周して消える。
「今のは何ですの?」
「君の身柄の管轄を、この城へ一時移す契約印だよ。国家と宗庁の干渉を受けずに済む。法律用語で言えば“法域の仮想移転”。人は国境を越えるが、物語にも境界線が要る」
「亡命の花嫁、というわけですのね」
「いい響きだ」アザゼルは軽く笑った。「さて、最初の証人――“聖女”だ」
黒い扉が音もなく開き、白い小部屋が現れた。
中心の丸卓には、先ほどの茶器。奥の壁には、細い窓。月がひと切れだけ浮かんでいる。
彼女はそこにいた。
白い衣、青ざめた頬。長い髪は清潔に梳かれているのに、指の先だけが、何度も祈りの珠を弾いた癖で赤い。
彼女は立ち上がり、深く頭を下げた。
「……聖都に連れられてから、私はずっと“聖女様”でした。勝手に、皆がそう呼ぶのです。祈れば治る、と。褒められる、と。足りないと言われる、と」
「お名前を」私は柔らかく問う。
「ミレーユ、と申します」
椅子を引く音が、部屋の静けさに落ちる。私は向かい合って座った。アザゼルは卓の斜め後ろ、月を背にして立つ。
「ミレーユさん。まず、あなたに罪はないと私は考えています。私が知りたいのは、誰が脚本を書いたかですわ」
「脚本……?」
「断罪劇の台本です。あなたは配役を与えられた。聖なる癒やし手。わたしは悪役令嬢。王太子殿下は正義の剣。そして観客の前で、誰かが勝ち、誰かが負ける」
彼女の指が震えた。祈りの珠を弾く癖が、ない空の手で弾かれている。
「“聖女の茶に毒”――あれは、入れ替えでした」
ミレーユは視線を落とし、息を短く切った。「侍女が二人。私付きの侍女と、王城からの侍女。毎回、茶葉の袋を“封印済み”と称して交換するのです。封蝋の印は……陛下の、印。私は、ただ、祈れと言われた通りに祈るだけで」
私は卓上に羽根ペンと紙を引き寄せ、箇条に起こす。
・侍女二名体制/袋の入れ替え/封蝋印の濫用
・祈りの演出/観客の前での奇蹟
・誰が封を押したかの証明責任の転嫁
「毒見役は?」とアザゼル。
「王家の命で……私の部屋には入りません。祈りを穢すから、と」
私は小さく舌を打ちそうになるのを堪えた。宗庁と王家の共同で、手続きの抜け道を作ってある。毒見は“神聖領域”には入れない。だから毒も、入る。
「国庫台帳の“空欄”についても、知っていることを」
私は言う。ミレーユははっとして、首を横に振った。
「お金のことは、私には……ただ、寄進は多く。祈りの列は尽きなくて。けれど私は、誰かの病が治るたびに、次の病人が増えるのを見ました。治れば噂になる。噂になれば人が来る。人が来れば……」
「金が流れる」私は静かに継いだ。「祈りは、形のない税」
月光が卓の縁を白くなぞっている。
私はペンを置き、ミレーユの手元を見た。小さな火傷の痕。
「これは?」
「香の灰です。“奇蹟”の煙に、混ぜ物を。人を眠くする薬草。匂いで、泣くのです。『浄められた』と、皆、言うから」
白い部屋が、急に狭くなる。
私は息を整えた。大声で糾弾すれば、彼女は壊れる。責めるべき相手は、別にいる。
「証言、ありがとうございます」
私は立ち上がり、卓の横へ移った。「これから“断罪のやり直し”の舞台を作ります。公開審理。王都と聖都、そして観客の前で、事実だけを並べる場。そこで、あなたに証言していただきたい」
ミレーユの肩が大きく震えた。
「できますか……? 私、聖都の人々に、恩があります。食べ物も、寝床も。奪われるのが、怖い。皆の『信じたいもの』を壊すのが、怖い」
「壊すのではなく、直します」私はゆっくり言った。「祈りは人を支えるもの。誰かの懐を支える道具ではない」
沈黙の後、ミレーユはこくりと頷いた。
その頷きは小さいけれど、沈むことのない浮標のように確かだった。
◇
部屋を出ると、廊下に小柄な影がひとつ。
煤で黒くなったエプロン、丸い瞳。私を見るなり、ぱっとお辞儀をした。
「初めまして! 雑務のインプ、コルカです。城のなんでも屋って思ってくれて大丈夫!」
声が元気で、廊下に小さな明かりが灯ったようだ。
「丁度いい」アザゼルが言う。「コルカ、王都から今日運び込んだ証拠品をレネーに」
「はーいっ」
コルカが背負っていた鞄を卓にどさりと置く。重い紙の匂い。封蝋の割れた音。
中から、見覚えのある帳簿の綴りが出てきた。――国庫台帳。
私は手袋を引き、指先で紙の端を撫でる。繊維が少し太い。王立印刷局のものではない。
「紙が違います」私は即座に言った。「王立印刷局の台紙は、冬の亜麻が多い。これは夏繊維が混ざってます。織り密度も粗い。偽造」
コルカの目が丸くなる。「指でわかるの? すご……!」
「母の教えですわ」私は苦く微笑む。礼法の授業には、**“触れて見抜く”**時間が必ずあった。封蝋、紙、糸、石。舞踏会とは、見せる場所であると同時に、見抜く場所でもある。
「他にも」私は綴じ糸を持ち上げる。「王都の台帳は銀糸で補強するのに、これは錫。光の鈍さが違う。封蝋の刻印は鏡写しの欠点を修正している。つまり刻印石を直前に削り直した形跡がある」
「鏡写しの欠点?」コルカが小首をかしげる。
「王家の印章は中央の冠の下に**“鏡”の意匠**があるの。鏡は左右の微妙な非対称が美。けれどこの封は左右が綺麗に一致しすぎている。職人の癖がない」
アザゼルが満足げに頷いた。「やはり、君は舞台監督に向いている」
「褒め言葉として受け取りますわ」
私は台帳を閉じ、別の束を手に取る。王都への寄進台帳。
紙に水を一滴。滲む線が楕円に揺れ、インクが葡萄の皮の匂いをした。
「インクに葡萄の渋。王都の写本院は黒檀の煤を使うはず。聖都の写字室の配合です。つまり――寄進の流れは王都を経由して聖都の影帳簿に移されている」
アザゼルが低く笑った。「糸口は充分だ。次は“鏡の証言”に行こう」
「鏡?」
「君の台詞だよ」
彼は羽根をひるがえし、歩き出した。
◇
鏡の部屋は、城の中腹にあった。
扉を開くと、壁一面に大小さまざまな鏡。底光りする銀。歪みのある古鏡、磨き込まれた新鏡。
その中央に、背の高い鏡が立っている。縁には王家の意匠に似た冠と鏡。ほんの少し違う線。職人の癖が、そこにあった。
「これは――王家の“原印”ですか?」
私は思わず囁く。
「正確には“基準鏡”」アザゼルが答える。「印章工房が使う母型。物語を“正しく映す”ための鏡。王都のものは、いま聖都が握っている。だからここにあるのは先代時代の複製だ」
私は鏡の前に立った。
鏡は、顔だけではなく、背筋の角度、肩の高さ、指の緊張まで映す。
母がよく言った――“背筋は、真実のための武器”
「やってみよう」アザゼルが言った。「偽造封蝋をこの鏡に映し、歪みを見る」
コルカが盆に封蝋と印章を乗せて走り、私に手渡す。
私は偽造封蝋を鏡にかざし、角度を変えた。
映り込む刻印の鏡の意匠は、私が疑った通り、左右対称が美しすぎる。
さらに鏡の下辺で、微かな波紋。
「ここ」私は指先をとがらせる。「鏡の縁の厚みで、彫りの深さがわかる。偽印は浅い。急いで作った証拠」
「“鏡の証言”――採用だ」アザゼルが宣言する。「公開審理の場で、鏡に封蝋を映す。観客にも一目でわかる真実を、見せる」
私は頷き、胸の奥で何かが落ち着いた。
舞台は整いつつある。役者も揃い始めた。
残るは、観客席――世論。
「観客席は、王都広場か、宗庁前か」私は問う。
「両方だ」アザゼルの瞳が細く笑う。「繋げる」
「繋げる?」
「物語の糸で。中継をする。王都と聖都の広場に“鏡”を立て、ここから映す。古い魔術の伝送でね。宗庁は止めに来るが、止めに来る姿を見せるのもまた真実だ」
コルカが手を叩いた。「やること、いっぱい! 椅子も、見物人用の柵も、屋台も必要!」
「屋台は必要ですの?」思わず笑ってしまう。
「人は、お腹が空いてると怒りやすいから。穏やかに見る仕掛け、大事だよ」
私は頷いた。
舞台監督としての勘が、コルカの直感に同意する。人はパンと劇場が必要だ。パンがなければ劇も荒れる。
「では、“公開審理”の式次第を作ります」私は紙を広げ、ペンを取った。
――開会の宣言:中立者(魔王ではない誰か)
――証拠1:台帳の紙/糸/封蝋/インクの実演
――証言1:ミレーユ(侍女二名体制・封印交換)
――反対尋問:王都側代理
――証拠2:“鏡の証言”――封蝋の歪み
――締め:民に問う(公開投票)
「中立者」は、誰に――?
「君だ」アザゼルが即答する。
「私が? 当事者ですのに」
「当事者だからこそいい。君は**“悪役”の仮面**を知っている。だから、仮面を剥がす手順に慎重だ」
私はしばし黙した。
舞台の中央に立つ覚悟は、恐れと同じ重さでできている。けれど、恐れには取っ手がある。掴めば、持てる。
「承知しました。司会進行、私が務めます」
ペン先が紙を走る音が、夜の廊下へと溶けた。
◇
準備は、夜の速さで進んだ。
城の職人たちが鏡の枠を磨き、コルカが手早く縄を張り、古い伝送陣に油が差される。
私は衣装部屋に招かれ、黒の礼装の上から薄い灰色のオーバードレスを着せられた。黒はときに怖すぎる。灰は中立の色だ。
「ベールは要る?」とコルカ。
「顔を隠す必要はありません」私は鏡の前で背筋を確かめる。「見せたいのは、目ですから」
「かっこいい……」コルカの頬が緩む。
私は笑い、彼女の結んだ腰紐を整えた。「あなたも素敵よ。舞台裏の王だわ」
「えっへん!」
扉が軽く二度、叩かれた。
アザゼルだ。
「王都広場と聖都前、鏡の設置完了。審理は明日、日没後。人は夕餉を終え、腹が立ちにくい時間帯だ」
「配慮、ありがとうございます」
私は頷き、手元の台本を抱えた。
それは紙の束ではなく、一連の行為――立つ、告げる、見せる、問う――の順番だった。
「最後に、君の保険を渡しておこう」
アザゼルが手のひらを開き、小さな黒い指輪を示した。
「何かあれば、指で縁を二度叩く。契約光が君を包む。言葉が刃になったとき、刃を鈍らせる」
「言葉が刃に?」
「断罪劇は言葉で殺す。だから、言葉で守る」
私は指輪を受け取り、右手の薬指にはめた。
ぴたりと合う。冷たく、すぐ温かくなる。
「それ、婚約指輪みたいだね!」コルカが目を輝かせる。
「仮の、ですわ」私は微笑む。「政治の盾」
「うん。盾は、ときどき人を抱きしめる」
アザゼルがわずかに目を細めた。
「コルカ、詩人だね」
「へへ」
◇
その夜の終わり、私は一人で回廊を歩いた。
眠れないわけではない。眠る前に、自分の中の声を揃えたかった。
母の声。礼法の先生の厳しさ。幼い頃の私。
そして、舞踏会で“断罪”と告げられた私。
窓の外に、王都の灯が小さく散らばっている。
あの灯の下で、明日、人々が見る。
彼らは誰かの悪を見たいのか。誰かの善を見たいのか。
私は、良い/悪いという単語より前に、正しい手続きを置くのだと、自分に言い聞かせた。
ふと、足音。
ミレーユが立っていた。白い外套を羽織っている。
「眠れなくて……」彼女は微笑もうとして、うまくいかなかった。「怖いのです。けれど、逃げないと決めたら、少しだけ眠れなくなりました」
「正しい反応ですわ」私はそっと言う。「怖さは、準備の燃料になる」
「準備……私にできるでしょうか」
「できます」
私は外套の襟を整えてやり、視線を合わせた。「あなたは、あなた自身の物語の被害者だと言った。なら、取り返せます。被害者で終わらない証言者に」
ミレーユの瞳が、ゆっくりと澄んでいく。
「ありがとうございます、レネー様」
「レネーで結構。明日は、私たちで舞台に立ちます」
月が、雲の向こうで細く笑った。
◇
翌日、日没。
城の中央大広間に設えられた鏡の壇の前に、私は立った。
薄灰のドレス。黒い指輪。背筋は、母に借りる。
アザゼルは影の席に。コルカは舞台裏で縄の張りを確認している。
遠くの鏡の向こう、王都広場のざわめきが波のように届く。聖都前は、宗庁の白い柱の下に人の輪が幾重にも重なっている。
私は深く息を吸い、吐き出した。
そして、開会を告げた。
「本日、“断罪のやり直し”を行います」
声が鏡に乗り、広場に、宗庁前に、同じ温度で落ちていく。
「主催は――真実。進行はレネー・ド・ベリエール。これは、誰かを罵るためではなく、事実を整列させるための場です。どうか、最後までお聞きください」
ざわめきが、少しだけ静まる。
私は、一枚目の“証拠”を掲げた。台帳の紙。
「王都台帳の標準紙と、こちらの紙。繊維が違います」
私は繊維の太さを鏡に映し、銀糸と錫糸の光を比較した。
さらに封蝋の刻印を“鏡の証言”にかける。
左右対称すぎる鏡の意匠。彫りの浅さ。
――偽造の美しさが、逆に恥を晒す。
王都側代理人が前に出る。
灰色の法衣。整った髭。
「あなたは当事者です。公正さに欠ける」
「手続きが公正です」私は静かに返す。「今、鏡は誰のものでもない。光は、誰に対しても平等です」
次に、ミレーユ。
彼女は一歩ずつ、鏡の前へ。
祈りを模した深呼吸。
そして、語った。侍女二名体制。封印の入れ替え。奇蹟の煙。
言葉の一つ一つが、観客の顔を洗う。
王都広場のどよめきが、やがて押し殺した沈黙へと変わる。宗庁前も、白い柱が冷たく見える。
「反対尋問をどうぞ」私は代理人に促した。
「聖女よ。今さら裏切るのか」
短い言葉。刃だ。
私は指輪の縁を、指で二度叩いた。
空気が、わずかに鈍る。言葉の刃は、皮膚の上で丸くなる。
ミレーユは怯まなかった。
「私は裏切りません。祈りを。人を。嘘を裏切ります」
静寂の奥で、誰かが拍手した。
一人、二人。やがて波。
拍手は、宗庁前では起こらない。代わりに、押し殺した咳払いが増えた。
二つの広場が、違う速度で回り始める。
「最後に、民に問います」
私は背筋を正し、鏡に向かって告げた。
「“断罪”は、やり直すべきか。――すべきと思う者は、右手を。すべきでないと思う者は、左手を」
鏡の向こうで、手が上がる。
王都広場は右手が、海の波頭のように白く揃ってゆく。
聖都前では、わずかに逡巡の後、ゆっくりと、右手が増えた。
宗庁の前列だけが固まり、手を胸に組んだまま動かなかった。
「集計」
コルカの鈴のような声が舞台裏から飛び、板に数字が書かれていく。
――右、圧倒。左、点在。
「結果――断罪のやり直しを行います」
私の声は震えず、けれど胸の奥の何かが震えた。
母の教えが、背骨の奥で光る。
その瞬間、宗庁前の最前列から、法衣たちが一斉に前へ出た。
止めに来る。
アザゼルの言った通りだ。
白い布の波が鏡の前で渦を作り、宗庁の印章が掲げられる。
「これは無効である。宗庁の許可なき審理は――」
私は一歩、鏡の前へ。
「――許可は、民が出しました」
波が止まる。
白と黒と灰が、鏡の面で交わり、世界が一瞬だけ静止画になる。
私の右手の指輪が、熱を持った。
アザゼルの金の瞳が、陰からわずかに細くなる。
コルカの手綱が、舞台裏でぴん、と鳴った。
幕は、まだ降りない。
断罪のやり直しは、宣言されたのだ。
舞台は、これから本編に入る。
私は深く一礼し、告げた。
「次回――『鏡の証言』。封蝋の歪み、刻印の癖、そして“空欄”の行き先を示します」
王都広場で、拍手。
聖都前は、ざわめき。
夜空は高く、冷ややかに美しい。
亡命の花嫁は、舞台の中央に立った。
退路は、もうない。
けれど、怖さには取っ手がある。私はそれを掴んで、前を向いた。
――母へ。背筋は、武器になりました。
私の武器で、物語を奪い返します。
(第二話 了)




