黒涙の硯
古い公民館の一室。むわりとした熱気の中に、懐かしい墨の匂いが満ちていた。
俺、圭佑は、恩師に恵まれ、夏休み限定で子供向けの書道教室を受け持っている。
蝉の声が騒々しい、ある日の午後だった。教室の入り口に、スッと一人の女性が立ったのは。
「……こちらで、書道を学ぶことはできますか」
涼やかな、というよりは氷のように冷たい声だった。子供たちの喧騒が嘘のように静まり返る。長く黒い髪に、真っ白なワンピース。あまりに現実感のないその姿に、俺は一瞬、言葉を失った。
彼女は「静」と名乗り、その日から毎日、教室の隅で黙々と筆を握った。
彼女の書く文字は、異常だった。お手本など見ていないのに、まるで印刷されたかのように完璧で、それでいて、紙に刻まれた文字の一つ一つが、どす黒い感情を持っているかのように、禍々しく見えた。
ある日の教室終わり。子供たちが帰り、静と二人きりになった。彼女は、教室の棚の奥に仕舞われていた、古い硯を取り出して、静かに墨をすり始めていた。
「あ、静さん、その硯は……」
「……いい音。まるで、誰かが囁いているみたい」
硯の上を、固形の墨が滑る音。それは恩師が「曰く付きだから、絶対に使わないように」と固く禁じていたものだった。静が水を数滴、硯に落とす。すると、墨をする音が、微かに変わった。……人の声のように聞こえたのは、きっと気のせいだ。そう、思った。
その日から、教室の空気が、ねっとりと重くなった。
子供が書いた「友」という字の墨が、ひとりでにじわっと滲んで、まるで首を吊る人の形になったり。俺が墨をするために汲んでおいた水差しの水から、ふっと鉄錆のような生臭い匂いがしたり。
そして何より、静さんだ。彼女は日に日に生気を失っていくように青白くなる一方で、その瞳の奥の光だけが、爛々と輝きを増していく。まるで、何かを吸い取って、力に変えているように。
耐えきれなくなった俺は、恩師に電話をかけ、あの硯について問いただした。
「先生、あの硯、一体何なんですか!」
『……馬鹿者!だから使うなと言ったんだ!それはな、昔、無実の罪で処刑された書家が、最後に己の血を涙に混ぜて墨をすり、呪いの言葉を書きなぐったものなんだよ……!』
電話を切った俺は、公民館へと走った。胸騒ぎが止まらない。
教室の引き戸を開けた瞬間、息を呑んだ。
壁、床、天井。部屋のすべてが、おびただしい数の、黒い文字で埋め尽くされていた。
「恨」「怨」「憎」「苦」「死」
その中央で、静さんが、あの硯を抱いて座っていた。彼女の瞳から流れる涙は、赤黒く、硯の上にぽたぽたと滴り落ちていた。
「ああ、圭佑さん。見てください。こんなにも濃く、私の想いを写し取ってくれる」
彼女は、血の涙で墨をすっていたのだ。硯が、まるで心臓のように、どく、どくと脈打っている。
「さあ、あなたも。あなたのその心の中にある、澱んだ想いを、ここにすべて、書きつけましょう……?」
「ひっ……!やめろ、こっちに来るな!」
俺は恐怖のあまり、その場から逃げ出した。背後で、静さんの、鈴を転がすような笑い声が響いていた。
あれから、俺はアパートに引きこもっている。書道教室は閉鎖され、静さんも、あの硯も、どこかへ消えたと聞いた。
もう、大丈夫だ。そう自分に言い聞かせた、その夜。
ふと、机の上のメモ帳に、明日の買い物のリストを書きつけようと思った。何気なく、ボールペンを握る。
白い紙に、ペン先を走らせた。
その瞬間。
ただの黒いインクが、じゅわっと、まるで生き物のように紙の上で滲み、禍々しい「恨」という一文字に、形を変えた。
「なんで……どうしてっ……!」
訳が分からず、呆然とする俺の頬を、一筋の、熱いものが伝った。
それが、テーブルの上の白い紙に、ぽつ、と落ちる。
俺の涙は、いつの間にか、墨の色をしていた。
耳の奥で、誰かが墨をする音が、もう、止まない。
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