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憤死しかけている間も鼻血は渦を巻きながら宙を舞いつづけ

鼻血が噴水のように宙を舞った。あまりにも勢いが強かったので、放たれたそれはほぼ垂直に舞い上がると、蛍光灯の光に照らされてきらめきながら、ノートパソコン、枯れかけた観葉植物、そしてA自身の顔面にクソのようなシミをつくった。Aは憤死しかけていた。憤死しかけている間も鼻血は渦を巻きながら宙を舞いつづけ、空中で一瞬停止してまたA自身にふりかかった。A自身の顔面はクソだまりに成り果て、ついにテーブルに倒れ込んだ。


「社長、自分で拭いてくださいね」


Bが慌てる様子もなく声をかけた。Bはキーボードを叩きながら、目線はそのままにティッシュ箱に手を伸ばしてAにそれを投げた。箱はAの頭にぶつかって落ちた。


「サンキュー」


Aは動かずに言う。10畳ワンルームの事務所でタイピング音と荒い鼻息が響く。


「半期決算どう?」


「赤ですね」


「それは知ってる。金額は?」


「ざっくりマイナス2000万です」


Aは答えなかった。カネがない。現金がない。金券がない。株も、不動産もない。車は15万で売った。しかし、どうにもならなかった。1万のママチャリに乗り換えても、カップ麺で過ごし続けても、金は一向にたまらないし、彼女なんているわけもない。自分個人も借金が400万。弱々しいあくびに似たため息が漏れ出ていく。


「チラシも無料体験授業も散々やりましたけど、生徒数は一年で微減。少子化の影響を肌で感じますよね」


「低迷する印刷業界に微弱な貢献をしただけだったな」


「はい、残念ながら」


顔をティッシュで拭いながらAは顔を上げた。どうしたものか。塾経営を始めて5年、そろそろ潮時か。いや、ここで店じまいをしても、膨らみに膨らんだ借金はどう返すんだ。サラリーマンとして働いて数年で返せる額ではないのだ。


大福県は西日本にある地方都市だ。名物は温泉と肉料理。平均世帯年収は全国平均のちょうど真ん中あたり。そこにAが運営する学習塾「Aスクール」はある。生徒数80名。社員1人とアルバイト2人で回している。絶賛赤字垂れ流し中だ。毎年補助金をガンガン使いながらなんとか生き残っている。


「ねえ、ちょっとさ。肩もんでくんない?」


「社長……もう、わかりました」


Aは中堅私大を卒業して、大阪のIT企業に入った。口はうまく、営業成績はそこそこ良かったが、彼の性格は組織に合わなかった。タクシーを役員のように使い、そのすべてをきっちり経費精算に回した。昼休みを決まって他人よりも5分長めにとった。決め手になったのは電車の遅延証明書を大量にストックし、社内で闇市場的に売りさばいていたことが上司にばれたことだ。これによって会社をやめ、地元の大福県に戻り、なんとなく代表の肩書がほしいと考えて塾を始めた。Bは学生時代からの腐れ縁で、優秀だったのになぜかこの会社に入ってくれた。


学習塾と聞いて子供を導くだったりやりがいのある仕事だったり清く正しい仕事だったりそんな夢物語のような話をする奴もいるが、ちゃんちゃらおかしいと思う。 世の中には建築会社の親父が余った土地で何となく始めた教室だったり、金儲けのために塾をやるやつなんてたくさんいるのだ。 Aも似たようなところがあり、考えなしに起業をしてしまった。


なんとなく教室を始めてしまったものだから、A の仕事はまずできることから始まった。中学生の数学と英語を教えながら、リハビリのように学習指導のコツを掴んでいった。もちろん最初は生徒なんてつかめないから3ヶ月無料キャンペーンだとか入塾金無料だとか、かなり無理な策を打ち出して最初の5人を集めた。 月謝が2万円だったのでこれでなんとかコンビニのバイトと並ぶ程度の現金を稼ぎだすことができた。 幸い塾は人件費がものを言う商売だから、自分が頑張れば売り上げのほとんどを利益に回すことができる。


「あっ」


Bの声が響いた。


「どした。計上漏れ?」


突っ伏した顔を動かさずに言う。


「違いますよ。社長、年末に一緒に行った自治体主催のセミナーあったじゃないですか。そこからメールが来てます。教育業界の皆様へ、大福県委託事業プロポーザルのお知らせですって」


一瞬息をためて、何それ、と言いながら起き上がる。


「県の委託事業のコンペ……だそうです」


Aの目に光がともる。


「年間委託費用、5000万円」


「うそぉ」


「大マジですよ」


「やばいな」


「ヤバすぎますね」


Aはディスプレイに張り付いた。そこには間違いなく県主催のイカれた大型委託事業の情報があった。


「県の経営セミナーで育てた会社に仕事をやって成長させたいってことかね」


「ありそうですね。うちからすれば願ってもない話です」


赤字と鼻血でできた血の池地獄。そこに垂れ下がった蜘蛛の糸を掴まない訳にはいかない。2人は猛烈な勢いでパワーポイントを開き、キーを叩き始めた。


「あのさ。成功事例とかある?」


「ちょうど社長が担当していたあの子とかどうです?もともと不登校だったけどうちで頑張った結果学校に行けるようになりました、みたいな」


「あーそれそれ。ちょっと俺あんまり思い出せないから代筆しといてくれる?」


「え〜〜」


「頼むよ。でさ、事例の2つ目なんだけど――」


エナジードリンクとBの睡眠時間とBの健康寿命を生贄にして、わずか7時間で提案書は生み出された。2人の指の触覚はもはや失われ、かすかなしびれが指紋の上を這うように渦巻いている。


「できたな」


「できましたね」


Bは力を振り絞るようにファイルを添付してメールを送った。エンターキーの押下とともに腰は椅子から滑り落ちたが、さながらダンクを成功させたバスケ部のように両手だけでテーブルに掴まった。今回頑張ったのは主にBでだったのだから無理もない。


つぶやくように言う。ワンルームアパート博田荘202号室、もといAスクールの事務所をゆたかな高揚感が包み、無限大に放たれた。スズメが鳴いている。新しい朝が来た。希望の朝だ。


「行けると思うか」


「行けるように書いたつもりですよ、そりゃあもう、生活がかかってますからね」


実際に事業計画書は時代背景と競合を意識して書かれていた。ノウハウを持つ大手塾や社会貢献度合いの高いNPOが応募してくることをにらんで、彼らが取れない対策を考えてきた。


オンライン授業に対応できること、家庭訪問ができること、オリジナルの教材を無料配布して授業ができること。実のところ、そのすべてが未経験・未実施・未作成であったが、構うことはないと信じていた。細かいことは受注できたら考えればよいのだ。


2人は授業が始まる30分前まで幸せに眠った。


**


「いつまで寝てるんですか」


脈拍の急上昇に任せてソファから起き上がる。AとBがあたりを見渡すと、Cが立っていた。


「私が教室の合鍵持っててよかったですね」


「だろ。こういうのをリスクヘッジと言うんだ」


Aの返答によくわかんないです、とむすっとしながらCがこたえた。


Cに急き立てられるようにして男2人は授業の準備に取り掛かった。


その日から、Aスクールは異様な活気に包まれた。生徒たちは相変わらず少なかったが、AとBの目は異様な輝きを放っていた。彼らは、まるで命がけで授業に取り組んでいるかのようだった。


「先生、この問題わからないんですけど」 ある日、生徒の一人が質問してきた。 「よし、じゃあ一緒に考えてみよう」 Aは生徒の横に座り、丁寧に説明を始めた。その姿は、まるで以前の彼とは別人のようだった。そりゃあもう、Aは5000万が手に届くと思い込んでいるのだ。やる気にもなる。


Bも負けじと頑張った。彼は毎晩遅くまで残り、オリジナル教材の作成に取り組んだ。時には朝まで作業を続けることもあった。


「Bさん、無理しすぎじゃないですか?」 心配そうにCが声をかける。 「大丈夫です。これは無理じゃなくて、情熱なんです」 Bは疲れた顔に笑みを浮かべて答えた。


そんな彼らの姿を見て、Cも何かを感じ取ったようだった。彼女も徐々に、仕事に対する姿勢が変わっていった。


「私も、もっと頑張らなきゃ」 Cは自分に言い聞かせるように呟いた。


こうして、Aスクールの3人は必死に働きながら、県からの連絡を待った。毎日がまるで綱渡りのようだった。借金の返済期限は迫っているし、家賃も滞りがちだ。しかし、彼らは希望を捨てなかった。

そして、ついにその日が来た。


2人は猛烈に働きながら良い返事が来るのを待っていた。


Aは大型受注が決まった夜にはラーメン屋でおつまみセットを必ず頼むんだと誓っていたし、Bは少なくとも1年間は給料の滞納がなくなると安心していた。


しかし。


現実は厳しかったのだ――


『――厳正なる書類選考の結果、貴社のプランは落選いたしました。益々のご活躍をお祈りしております。』


ディスプレイには思わぬ文言が書かれていた。


Aはディスプレイの文言を反芻しながらゆっくりと呼吸するように努めた。しかし、文言は変わることはない。


「おれの……5000万……!」


「僕の……生活費……」


AとBというワーキングマシンは、ガスが漏れ出るようにつぶやく。


「こういう場合、何ができるんだよ」


「御祈りされたら他に切り替えるしかないですね」


「他ってどこだよ。どこに当たれっていうんだよ……」


それなりに頑張ったら受注できるだろう。そんな気持ちで浮かれていただけに、この失注はそこそこのキツさがあった。


「欲しい。金めっちゃ欲しい……。受注したい……アフリカへの募金とか、あるじゃん。恵まれない子に水を、みたいな街頭募金とかあるじゃん。わかるんだけどさ、遠いから。支援先遠すぎるから。俺らみたいな同胞の民がさ、こんだけ受注したいんだから、こっちに予算回してもいいじゃん。俺らも水道止まってるし……」


アフリカの子どもが泥水を両手にすくって飲むセンセーショナルな写真。あれは自分たちに置き換えても何らおかしくはない。腐っていそうな水は実際に飲んでいる。


「何かムカついてきた。抗議しよう」


「待ってくださいよ、講義するものなんてなにもないでしょ」


「こんだけ困ってるんだから働かせろって電話する」


「訳わかんないですって」

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