着水
飛び込み台の上で目を開ける
見慣れた自分の両足
遥か下で揺らぐ水面
その揺らぎの中心に
満点の演技を終えて
俺に微笑みかける
俺が見えた
こうなってくるともう
ここは俺たち2人だけの世界だ
会場の雑音も
応援の声も聞こえない
あとは呼吸を整えて
台を蹴るだけだ
「飛び込む瞬間ってさ。どんな気持ち?」
彼女と初めて出会ったのは、
日暮の声に小雨の音が混じる晩夏だった
珍しい物を見るように
まじまじと俺を見る彼女
その目は虚で、
哀しい光を宿していた
「飛び込む時は、無だよ。」
俺は淡白に答える。
俺のジャンプには
恐怖心も、情熱も、
興奮も、緊張も、
何もなかった
音を消して
光を消して
無心で
身体に染み付いた技を繰り出しながら
ゆっくり、ゆっくりと、
冷たい世界へ落ちてゆく
そういう感じの
だだの作業に過ぎず
飛ぶ理由も
昔からやっていたから
で、そこに愛着はなく
来年、夏の大会を最後に
未練も執着なく辞めて
いつかは
飛び方も忘れるのだろう
燦々と照りつけた太陽が、
校舎の陰に隠れた頃
彼女は俺の顔を見つめて
満足そうに微笑んだ
その日から彼女は、
毎日のようにプールに来た
俺が飛び込む姿を
飽きもせず
じっと眺めていた
ある日、彼女が聞いた
「君は何のために飛ぶの?」
その答えを俺は持っていなかった
「理由はないよ」
ぶっきらぼうに言うと、
彼女は壊れたように笑い転げた
虚な彼女が
この瞬間だけ
明るく朗らかだった
まるで
太陽のように
花のように
どこにでもいる少女のように
帰り際に突然
彼女がキスをした
人生初めてのキスだった
柔らかい唇の感触と
顔にかかる彼女の吐息や熱気が
心の奥に沈んだ何かを
そっと溶かしていくのを感じた
そんな幸せに紛れて
俺の後ろでは
二人の影を重ねていた太陽が
ひそかに
黄昏のその海へ沈んでゆく
翌朝、
雑居ビルの裏で
彼女の遺体が発見された
死因は、聞かなくてもわかった
俺と過ごした後、
その足で、
一人雑居ビルに向かい、
星空を見上げて、
何かを考えて、
何らかの時間を過ごし、
そして、
彼女は飛んだんだ
逃げるように
立ち向かうように
自由や
他の何かを求めて
悲しみの中で
期待の中で
彼女は飛んだのだ
その時、
彼女がどんな気持ちだったのか、
俺にはわからなかったけれど、
彼女の目に最期に映った景色は、
きっと何よりも綺麗だったに違いないと、
俺は確信していた
いや、そう信じたかったんだ
夏休みが終わり
日常が戻ってきた
学校の授業も部活も
家での時間も
どれも退屈に流れていく
今まで過ごして来た人生も
積み重ねて来たジャンプも
知り始めた恋も
どれも、
どれも、
淡い灰色をしていて
それを吸ってきた俺の肺は
身体は 心は
すでに光沢を失い
行き場所を失っていた
それから
一年が過ぎた夏
最後の大会で俺は優勝した
他に大差をつけた完璧な演技だった
拍手喝采
祝福と歓声の中で
微動だにしない心とは
ちぐはぐの右手が上がった
やがて
日暮が鳴いて
小雨が降った
夏は終わり
再び
飛び込み台の上で目を開ける
見慣れた自分の両足
遥か下で揺らぐ水面
その揺らぎの中心に
満点の演技を終えて
俺に微笑みかける
彼女が見えた
こうなってくるともう
ここは俺たち2人だけの世界だ
周りの雑音も
誰の声も聞こえない
呼吸を整えて
台を蹴る
飛び上がり
落ちてゆく途中
ビルの隙間から朝陽が見えた
路地裏に咲く白い花が見えた
彼女の見た景色も
こうだっただろうか
世界は虹色に輝き出して
止まっていた時間が今
ゆっくりと動き始めた
そして...
水面が近づいてくる...!