理知的な遺伝子
自分が見た印象深い映画の中の1つに『劇場版 ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』がある。ポケットモンスター(以下ポケモンと略記)は老若男女、国境の壁を越えて世界中で大ヒットした空前のヒット作となった。私も幼稚園の頃、当時放送されたばかりのポケモンを見逃さないようにと、退園の時間が遅くならないように親にだだをこねてた記憶がある。そのポケモンの初めての長編映画が上映される! 当時はその情報だけで胸が高鳴り小躍りしたものだった。劇場で直接見ることは叶わなかったが、きたる地上波初放送のときにワクワクしながらテレビの前で待機していた。
「あのポケモンの映画だなんて、一体どんなお話なんだろう?」
画面の前の自分はきっと『となりのトトロ』のようなほんわかしたストーリーを期待してたに違いない。しかし実際始まってすぐすると「あれ……これがその映画?」と予想してたものとは違うことに気づいた。長々とよくわからないモノローグが続き、展開としてどうなってるのかもよくわからない……気がついたら始まって30分もした頃にはテレビの前の席から離れて、なにか別のことをしていたのを覚えている。「今度こそちゃんと見るぞ」と気合を入れた2回目の地上波放送も同じだった。最初なにがなんだかわからず……なんだかクライマックスが近づいてきたら再び画面に戻してなんとなく見ようとする……
大人になってあの頃見きれなかった作品を見てみようと思い立った。もうそのときには映画が公開されて20年近くの時が経っていた。あの頃きっとじっとしてられない体質が災いしてすぐに飽きてしまったのだろう……が、今この映画を見てわかった。この映画は子供にはだいぶ難しすぎるのだ。
今調べてみるとこの映画の脚本は制作陣内部でもだいぶ反発があったようだ。しかし封を切ってしまえば映画はその後のポケモン史上で破られない、最高の観客動員数を記録するほどの大ヒットだった。ただ思うにこれは内容がウケたというよりポケモンというネームバリューの瞬間最大風速が大きく作用したのだと思う。実際その次の年に公開された映画はこの『ミュウツーの逆襲』よりはるかに子供に見やすく、楽しめるものだったが、観客動員数は下がってしまった。
さて実際『ミュウツーの逆襲』とは一体どんな内容だったのだろう?
ポケモン・ミュウツーはミュウというポケモンのクローンであり、実験で生まれた生物だった。ミュウツーには自分というものがわからない。確かに自分はミュウのクローンである。しかしもし自分が遺伝子構造、何からなにまでミュウと一緒だとしたら「わたし」という人格は一体どこにあるのだろう……?
「わたし」はたしかにここに存在する。しかしミュウ2である「わたし」はどの程度ミュウではないと言えるのだろうか……?自問自答の末にミュウツーがアイデンティの確立に思い悩む……物語はこのような序盤から始まる。
小学生向けの、しかもポケモンというコンテンツでよくもこれをやろうと思ったな、と大人になった今ものすごく思う。脚本家・首藤剛志によればポケモンという人間と共存し、ときに使役される生き物のアイデンティについて探ってみたかったそうだが、それにしても子供にはなかなか難解である。なぜこんな内容になったのか……しばらく疑問だったが、この前なんのきなしにパラパラと参考書をめくっていたら、ハッと思い当たる記述があった。映画か公開される2年前、クローン羊・ドリーが誕生していたのである。
羊・ドリーはイギリスの研究所で、まったく同じ遺伝子をもつクローンとして誕生した。当時受精卵からクローンを作ろうとする試みはすでにあったが、成長した羊の体細胞からクローンを作ったのはドリーが初めだったことからドリーの誕生はメディアにも大きく取り上げられ、それまで科学的分野に興味がない人でも日々のニュースを目にしていればなんとなく名前はしっている程度の認知度であった。そして『ミュウツーの逆襲』はおそらくそのような社会的な関心の中で考え出され、様々な古典作品を出典の拠り所にしながら誕生したのだろう。しかし誕生「させてしまった」クローン体は一体なんのために存在しているのだろうか? やがてくる遺伝子技術世界ではアイデンティの問題が生まれるのではないか。脚本家・首藤剛志はそう思っていたのかもしれない。
それからしばらくたってクローン羊・ドリーの存在も『ミュウツーの逆襲』の記憶も薄れてきた頃、遺伝子技術はまた新たな注目を浴びているように感じる。それはiPS細胞の誕生という新たなアプローチもそうだが、技術の発展とともに商業的な脚光を浴びたのが大きい。
日本ではDeNAやDHCなどの企業が遺伝子調査キットの販売を始めた。これは自宅で唾液を採取し、販売元へそれを送る。販売元は実際には委託した調査機関に送られ、そこで自分の遺伝子情報が調べられ結果を出す。出された結果は自分のもとへ届き、そこで自分の健康状態が見られるというものだ。販売元によると「病気のかかりやすさ、体質などの遺伝的傾向」がわかるらしい(販売元ホームページより)。まだこれら遺伝子調査キットでわかる情報は限定的だが将来的には自分が一体何年後にどのような病気にかかるかまで明確にわかるかもしれない。
癌は場合によっては遺伝的要因にかなり左右される。ハリウッド女優・アンジェリーナ・ジョリーの祖母と母親は乳がんでなくなり、特に母親は10年以上にも及ぶ闘病生活を送った。アンジェリーナ・ジョリーは自分が癌になる前に乳房の摘出手術を行い、内外に大きな議論を呼び起こした。彼女のように自分が将来どんな病気になるか、特に癌については不安を抱える人は多い。アンジェリーナ・ジョリーは女優として時折肌を見せる仕事をしながらも最後は自らの体を削る決断となった。自分は癌になるのか、なるとしたらどんな癌なのか。事前に知ることができたら対策ができ、苦しい抗がん剤治療をしないで済むかもしれない。遺伝子調査キットはその不安を取り除く大きな助けになる可能性がある。
しかしこれからの情報は漏れないよう細心の注意を払わなくてはならない。自分の遺伝情報を他人に知られると悪用される可能性がある。例えばあなたが将来高確率で胃がんになるとわかったら、保険会社はあなたの保険料の値上げをはかるかもしれない。
遺伝子工学の発展は障害児が生まれる可能性を低くすることもできるかもしれない。例えばダウン症は21番目の染色体が1つ余分なことが原因で起きる病気だが、もし事前の検査でそのことを知り、更に治すことができたら、事前にダウン症を治療することさえできる。
胎児の段階でできる治療といえばもう1つ大きな可能性を秘めている。それはデザイナーベイビーの誕生だ。誰しも自分の生まれてくる子供に健やかに育って欲しいと願うだろう。デザイナーベイビーはその可能性を広げてくれるものだ。例えばまだ子供が胎児のときに身長が伸びやすくなるよう遺伝子を改変しておけば、将来的に高身長となりルックスやスポーツでアドバンテージを得られるかもしれない。あるいは親が数学的才能に長けているよう望めば、事前に改変することによって理知的な性格を持った子供が誕生するかもしれない。多くの親たちが自分の子供には恵まれた才能があってほしいと思っている。しかしそれは技術の発展により、ただの宗教的な祈りではなく科学的な治療として確実に誕生させることができるかもしれないのだ。もう何も心配もいらない。政治家は優れた政治家2世を生まれさせる機会を持つし、優れたスポーツ選手は、自分の子供にも優れたスポーツ選手になってもらうことができる。
しかし問題点も当然ある。果たしてどこからどこまでが科学的に介入できる範囲か、そもそも自分の体でない子供の体を勝手にいじっていいのか、という倫理観の問題はありふれているのでこの場では取り上げない。それ以外にも大きな点は経済的なところにある。
胎児の遺伝子を改変することは、たとえ実用化の段階に至ったとしても莫大なコストがかかるだろう。望めば経済的な負担なく誰でも自由に受けられる時代は数十年以上の時を待たなくてはならない。すると「できる」人間だけが、自分だけの才能溢れたデザイナーベイビーを誕生させ、「できない」人間は今まで通りなんの改変も受けていない赤ん坊を持つことになる。
教育格差、環境の違いといった金銭の余裕が子供に与える影響は計り知れないが、デザイナーベイビーはそれをはるかに越え、内的要因に優位性を深く根ざすことになる。当然知的才能に溢れたデザイナーベイビーとそうでない人としては、あらゆる理解にハンデキャップがあるだろうし、そもそも遺伝的改変を受けていない人を「できそこない」として差別的に捉える風潮ができる可能性が高い。もしそうなった場合社会的コミュニティは文字通りgifted(才能ある人)ともらえなかった人との二分状態になるに違いない。デザイナーベイビーはできる人間とできない人間を明確に分け、新たな社会的な分断や差別を生むことになる。そのときには経済的な格差がより直接的な実力差にも影響する超格差社会がの誕生である。
今先進国では人類第1の死因は癌である。もし遺伝子技術が発展することにより人類が癌を克服することができれば、人類はどこまでも寿命を伸ばすことができるかもしれない。それをどれほどの人間が望むかはともかく、多くの癌患者が治療を望んでいるのは事実だ。発展した遺伝子技術は将来彼らのような人々を救うことができる。一方で新しい問題にも直面している。古くはアイデンティや「どこまでしていいか」という倫理的だったものが、商業的可能性が出てきたことで「富めるものとそうでないもの」という新しい区分の可能性が出てきている。いずれにせよ、この技術が将来的には我々の人間の認識に大きな影響を与えることは間違いない。