アンドロイドは林檎の夢を見るか?
「ヤツらはラーメンを食ってるんじゃない。情報を食ってるんだ」
これは最近SNSを中心にネットミームとしても広がっている『ラーメン発見伝』からのセリフである。このセリフそのものはその店主が「鮎の煮出し」を出汁につかったラーメンを売り出したところ全く評判が芳しくなく、逆に「鮎の煮出し」使用は表に出したまま、にんにくとたっぷりの牛脂を追加で使用した「ニーズに合わせた」ラーメンにしたところ、「鮎の風味がする」とラーメンが一転して評判になったことを指して言ったものだ。つまり彼ら客は鮎本来の風味など実際は感じてはなく「鮎を使っている」という情報先行で食べ、「味わっている」ということになる。
実際我々の日常で「情報を食ってる」と思われるシーンは、考えてみればたくさん転がっている。2013年に東京ディズニーリゾートホテルで使われていた食材が「車エビ」と表記されていたにも関わらず、実際は「ブラックタイガー」だったという食材偽装が発覚した。それを皮切りにあちこちのホテルなどで食材偽装があったことを「自主的に」発表する一種のブームがあったのだが、どれも共通している点はメニューなどには高級な食材を使用していることを明記しておいて、実際はより安価な食材を使用しているということだった。
しかし考えてもみれば彼らは実際客から店側にクレームを入れるのには大きな障壁があるにしても、それまでやっていた以上偽装を行っていた多くのホテルでは大きな波風が立たず過ごしてきたこととなる。そうなると次のような疑問が浮かんでくる。その店に訪れ客が食べていたのは車エビに偽装されたブラックタイガーなのだろうか、それとも「車エビ」という情報なのだろうか?
食品売り場に行けばそのような疑念はもっと高まる。「○○産使用」「○○県産3%使用」と表記されている清涼飲料水やお菓子、その他多くの食品が並んでいるが、一体どれほどの人間が違いをわかるのだろうか。「なるほど確かに、これは和歌山県産南高梅の味だ、他とはまったく風味が違う」そういって梅味のポテチのききができる人間は一体どれほどいるのだろうか。
しかし食べる時に情報と一緒に味わうことを全てが全て批判したいわけではない。野菜を食べる際に、生産者の顔が袋に書いてあると安心する人間もいるだろう。何もわからない日本酒よりも、生産者が手間暇かけて特注の樽に入れて熟成した、と知らされた日本酒のほうがきっと美味しく感じるに違いない。汚い形をしたクッキーでも、彼女が一生懸命手作りしたものだとわかれば幸せな気持ちになるかもしれない。私たちは食材そのものではなくその食材にむこうにある背景を含めて食している。我々はそういう「社会的な動物」である、と言えそうである。そのことに自覚的になりながら、「車エビ」を食すのとそうでないのとではまったく意味が違うだろう。
話は少し変わるが2010年から2010年代初めまで携帯小説というジャンルがあった。女子高生を中心に広まったこのジャンルは若年層に携帯が普及したのがきっかけでたちまち流行となり、携帯で読みやすいよう改行を多用した文に、小説としてかなり崩された文体が活字文化に慣れ親しんでいない人間に大いにウケていたようだ。
その中でも特に一大ブームとなったのが『恋空』という小説で、携帯小説という枠を越え、主演・新垣結衣、三浦春馬というそうそうたる顔ぶれで映画化されるというヒットっぷりだった。だが当時から「実話をもとにしたと言っている割につじつまが合わない」「現実ではありえない描写がある」「そもそも文章として成り立っていない」などネットを中心に非難轟々の作品でもあった。では実際読んでみたいことには何も言えぬと私も読んだことがあるのだが……やはり当時から印象に残ってる、どうしても納得がいかないシーンがあった。
最後に読んだのはもう10年以上前なのでだいぶうろ覚えだがその内容はこうだ。学校での出来事などで落ち込んでいた主人公・美嘉は恋人・ヒロがこぐ自転車に強引に乗せられ謎の場所を目指す。「ねえ一体どこに行くの?」そんな美嘉の質問を無視してニケツの自転車を漕ぐヒロ。十数分後、そこには目の前には見事な花畑が広がっていた。「うわあ……きれい」思わずの光景にすっかりうっとりする美嘉。そうヒロはここに美嘉を連れてきて、彼女を勇気づけようとしていたのだ――――
なんと浅い描写なんだろうか、と当時思った記憶がある。そんな学校から近くにある花畑を知らないものなのかな、という疑問や花畑を見て「きれい」と思う単純な描写とで、なんだかむせ返りそうになった。
ずいぶんと前置きが長くなってしまった、実はここからが本題である。果たして本当にこの筆者は花畑をきれいだと思って小説に取り込んでいたのだろうか? それとも「花畑をきれいだという風景が『イイ』と思って」小説に取り込んだのだろうか?
創作作品を見ているとそれに似たような描写がやたら目につく。当たり前のように卒業式やら入学式でひらひらと舞う桜。当然のように意味もなく海に出かけることをなぜか好んでいる思春期の若者。花火が打ち上がってる姿を見て「うわあ」と感嘆の声をあげる男女。
これらの描写を見ると同じようにむせ返りそうになる。書き手は桜を、海を、花火を。そのものをきれいだと思ってその作品に加えてはいないだろう。ただひらひらと桜が舞う中学校にかよってる「物語」が好きなだけで、また花火を一緒見て若い男女が思い出を共有するというシーンが絵面として素敵だから盛り込んでいるにすぎない。こういうシーンを見ていると、なんだか作者の性癖が垣間見えたようで気持ち悪くなってしまう。「どう、この描写青春っぽくて素敵でしょ? 本当は桜にも海にも、花火そのものにさして興味はないけど。なんなら入学式のときには桜なんてないしそんな現実に遭遇したもないけど」
花火を見に行くカップルは果たして花火を見に行くのだろうか。イルミネーションを見に行くカップルもイルミネーションを見にいくのだろうか。轟音とともに打ち上げられ、雑踏で道が混雑する中、特にかわり映えもしない炎色反応を見に1時間もそこにたむろうのだろうか。電飾が決められた設定通りにキラキラと点灯する姿が見たいから、わざわざ冬の寒空に遠出するのだろうか。おそらく違うだろう。彼らはそこに「一緒にいく」という物語が、それまでの小説や映画や、CMなどで流れていて、自分もまたその物語の一因になってると勘違いしてそこに行くのだ。彼らもまた目の前にあるものではなく「情報を食っている」にすぎない。
こういった傾向はInstagramやTikTokなどのSNSの投稿に特に強い。彼らは実際には「存在しない」物語を憧れを抱いている。そして自分で作り出した、あるいはそうだと信じている物語を撮って「自分も物語の一因になれたのだ」とアピールするために投稿する。彼らにとってカラフルな綿あめや、こんもりと高く盛られたパンケーキはその物以上の意味をもつ。何故ならパンケーキはその背景に様々な物語があるように見えるからだ。
もし彼らがそのSNSの姿を現実のものと勘違いし続けたら大変危険なことである。空想の世界でさえ、物語の筋書きや流行は変わっていく。その流動に適当できなかったり、あるいは現実世界との齟齬が生じひとたびその世界がはじけてしまったら、あとは虚しい物体が残るだけとなる。
私たちは妄想できる動物だ。これは他の動物にはできない。空想上の存在をあるものとして描写できる。今目の前にあるりんごは、りんご以上の物語を内包している。りんごの生産者、有機栽培で育てられた果物、幼い頃にりんご狩りに行った記憶、昨日やっていた健康番組、ニュートンの逸話……たった1つのりんごは普遍的な存在ではなく、個人にとって違うりんごになるだろう。
私たちが「りんごが素敵だ」といったとき。「パンケーキが素敵だ」というのと同じように。一体なにについて素敵だ、と言っているのか考えなくてはいけない。今食べようとしているのはパンケーキという物体なのか、それともその情報なのか。