情けは人のためにならない
不条理文学と呼ばれるジャンルがある。それを代表するものとして真っ先に名前があるのは間違いなくカフカの『変身』だろう。この物語では主人公がある日突然虫になってしまう。家族になにかを伝えようとしても人語も話せず、なにもコミュニケーションはとれない。それどころか人間性を失ってしまい、壁に貼ったり無意味にカサカサと動くことにやすらぎを覚えてしまう。家族は家族で戸惑いつつ最初は必死に彼の世話をするのだが、次第に負担となりだんだんとこの理不尽な生活に嫌気がさしてくる。何を考えてるかわからない、不気味な汁を飛ばして壁を買う家族「だった」ものとの生活を余儀なくされる。まさになんの理由もなく苦難を強いられる、「不条理」な状態といえる。
そんな不条理文学の代表作である『変身』だが、一見荒唐無稽そうな話ながら我々の生活の奥底にある日常を反映してはいないだろうか。
反映といっても突然虫になったり、人間としての生活をやめることではない。我々は、なにかが起こったときその出来事にはなにか理由があるのだと考えたがる。あの子がテストでうまくいかなかったのは勉強してないせいだ。俺が人生でうまくいってないのは親の教育の影響が大きい。人の目を見て話せないから人生がうまくいかない。なにか理由を見つけることで、その人は落ち着き安心することができる。だからこうなんだ、と原因がわかるだけでどうしようもできない不安をなくすことができる。しかし実際には我々の周りには本当に理由がつくことだけしか起きないのだろうか?
ある日突然通り魔に襲われた女性はその通り魔に襲われるだけの理由を持っていたのだろうか? そして同じく突然娘を失った母親は、そんな深い悲しみを味わうだけの理由を有していたのだろうか? 見渡してみると私たちの生活は理由なんて見つけることができない、不条理な体験で満ち溢れているではないか。私たちの「結果」が全て目に見える「原因」と結びつくわけではない。そういう意味においてカフカの『変身』は我々の日常を表している。理由がわからず途方に暮れて、悩んだりする。理不尽さは実は周りにあふれている。明日にも私たちは虫になり得る。
話は少し変わって公正世界仮説という言葉がある。簡単にいえば私たちが良い行いをすれば良いこととして自分に返ってきて、悪いことをしたらそのまま悪いものが返ってくると信じる倫理観・道徳のことである。私たちは無意識のうちにこの世は公平で平等な世界だと思っているので、このような倫理観も真実であるとつい信じてしまう。しかし実際はどうだろうか。公正世界仮説とはほんとうに正しくこの世界を表した言葉なのだろうか?
あなたが小さい頃「誠実なことはいいことだ」と信じて、自分が犯した間違いを正直に親や先生に話した結果、結局変わらず厳しい叱責を受けた経験はないだろうか。あれこそまさに公正世界仮説が現実に即して無いことの気づきの始まりかもしれない。野球選手を目指して練習した人間が全員野球選手になれるわけではない。性犯罪の被害にあった女性が、それを受けるだけの悪行をしていたわけではない。いつでも正直に生きてきた人間が社会的・金銭的地位を得られるわけではない。むしろそういった人間がそのような地位を得られる可能性は極めて低いだろう。
わかっているはずなのに我々はつい「毎日を死ぬような練習をすればプロ選手に近づける」「あんな犯罪に巻き込まれるなんて、被害者にもなにか落ち度があったにも違いない」「人間いつでも正直でいることが大事だ」といった因果応報論を信じ込んでしまう。しかしその宗教と現実との間にズレが生じたとき、私たちは大きく混乱してしまう。
なにか凄惨な事件が起きた時、その人は公正世界仮説によればそれだけの「業」を犯してきたことになる。戦争で銃弾を受けた民間人、ある日放火されて火だるまになったまま亡くなった人たち、高齢者に運転する車で突然命を絶たれた人……。客観的に見て我々からはその人がそれだけの報いを受けるだけの行為をしたのだろうか? その疑念が生じた瞬間公正世界仮説の信者は頭を抱え、人生のあり方についてとめどなく自問自答することになる。「世界は平等じゃなかったのか」と。
私たちは勝手に倫理や道徳観、ひいては自分の人生に物語的な修飾をほどこしている。人生とは常に因果があるものだ、なにかいい行為をしたらそのぶん自分に返ってくる、など。これらはただの創作であり、現実には即していない。この思い込みは幼少期からの道徳教育のたまもので、実際それを信じることで救われる場面はたくさんあるだろう。人に悪口を言われたとき「いつかあいつにも返ってくるに違いない」と呪いをかけることで、少しは精神的安寧を受けることができる。なにか辛い経験をしたときに「今はこれだけ辛いんだから、耐え忍んだらまた運が向いてくるはずだ」と思うことは今の状況を相対的に楽にしてくれる。しかし現実はそうでないことははっきり認識しておかなくてはならない。呪詛をかけることで落ち着きを取り戻したところで、現実は変わらない。精神的安定の世界に引きこもる選択をするにしても、それは虚構であることは認識しておくべきだ。
我々は現実に起こっていることをそのまま認識することはできない。必ずその人それぞれのフィルターをかけることでしか認識できない。スーパーでだだをこねて泣く子供を見て「可哀想」と思うか「うるさい」と思うか、はたまた「可愛い」と思うかはまさにその人の価値観による。そして物語的な宗教観のまま物事を見通そうとすることはときとして危険である。現実と理想のギャップ。それはその狭間に悩み苦しむことである。大事なのはこの世は平等でもなく、因果応報的な世界ではないと理解しておくことである。