復讐のセレナーデ
視点が変わります
小麦色の髪をした愛らしい少女が、菫色の瞳をキラキラとさせて街中を歩いていた。
街娘としては美しすぎる少女に時折通りすぎる男性が振り返るが、少女の隣には同じ髪色の父親と思しき男性が周囲を伺うような厳しい目つきで闊歩していたため、声をかける者はいない。
ひとしきり街を散策した辺りで、少女は隣を歩く男性の袖を引いた。
少女を振り返った男性は心得たように頷く。
「少し休憩しましょう」
男性に促されるままに高級宿泊施設へ入った少女は、通された部屋のソファに腰掛けると渡された果実水を一気に飲み干した。
初めての街歩きで、はしゃぎすぎて疲れた身体に冷たく甘い果実水は心地よく、コクコクと飲み干した少女は、やがてうつらうつらと船を漕ぐ。
やがて完全に寝入ってしまった少女を、先程までの柔和な表情を消した男が冷たく見下ろしていた。
◇◇◇
ギシギシという音とともに少女は目を覚ます。
少女の目の前には荒い息遣いをした裸の男の顔があった。その顔は美形で金髪から覗くロイヤルパープルの瞳が色っぽく見えたが、如何せん少女が付き合う相手としては少々年齢が上過ぎるようだ。
しかし問題はそこではない。何故なら少女はこの男に面識がなかったからだ。
知らない男に組み敷かれていると脳が理解し、意識が覚醒すると同時に下腹部に痛みを覚え、下へ向けた視線の先で目にした信じられない光景に、少女は悲鳴をあげる。
先程聞こえたギシギシという音は男が腰を振る度に軋むベッドの音で、下腹部の痛みと視界に飛び込んできた映像が、少女に自分が男と繋がっていることを否が応でも認識させた。
「あ……いや! いやぁ!」
何が起きたのかわからない状況の中で少女が再び悲鳴を上げた時、勢いよく扉が開く音がする。聞きようによっては矯声ともとれるような悲鳴をあげていた少女と、入室してきた女性の目が合い、少女は助けを求めて手を伸ばす。
しかし伸ばされた手は、女性から向けられた侮蔑の眼差しに一蹴された。
「よく哭くメスですこと。おかげでどの部屋にいるかすぐに解りましたわ。それより、これは明確な浮気現場ですわね」
女性の低い声に驚いた男が身を引いたことで身体は離れたが、下腹部の痛みと全身の不快感から、少女はすぐに起き上がることができない。
状況が全く把握できないこともあって放心状態の少女とは対照的に、入室して来た女性を見た男は興奮で赤く上気していた顔色を瞬時に青く変化させた。
「お、お前、何故こんなところに!?」
「貴方が浮気をされていると、あるお方から情報提供がありましたの」
はらりと扇を広げた女性からは香しい芳香が漂い、着ているドレスも超一級品の豪奢なものであると一目でわかる。女性の登場にすっかり取り乱している男と年齢は同じ位だが、話す素振りも仕草も大層優雅なものであった。
女性は扇で口元を隠すと瞳を細め、嘲るような声音で告げる。
「我が公爵家の婿養子の分際で浮気をなさるなんて随分と度胸がおありですこと。若い娘がお好きなようですから、お望み通り離婚いたしますわ。もちろん慰謝料は請求いたしますので覚悟しておいてくださいませ」
「そ、そんな!」
女性の言葉に真っ青を通り越して白くなった男は、動揺した拍子にベッドから無様に転げ落ちてしまう。
素裸のまま情けない痴態を見せた男を冷たく見下ろして、女性は漸くベッドの上に起き上がった少女へ不機嫌も顕に言い放った。
「貴女も、何の後ろ盾もない子のくせに、よくも私の顔に泥を塗ってくれましたわね」
少女は女性の言葉が理解できなかった。だが、女性が自分と男の関係を誤解しているのだということだけは解ったので、慌てて弁明する。
「ま、待って、私は被害者よ! 気が付いたらここで押し倒されていたの! 私は無理やりされただけの可哀想な被害者なの!」
「まぁ、白々しい。盗人猛々しいとは、まさにこのことですわね」
吐き捨てるように言われた言葉に、少女が目を見開く。
街に遊びにきて疲れたから果実水を飲んで休んだ。それが、気が付いたらこんなことになっていた。
美形だろうが、こんなオジサンに初めてを奪われて被害者は自分の方なのに、何故責められなければならないのか? 少女の中で怒りが爆発した。
「不敬な物言いは控えなさい! 私は王女の娘よ! その私にそんな口を利いて、ただじゃ済まさないんだから!」
離宮で、侍女や護衛に向かって言うように大声で脅しをかけるも、女性は優雅に扇を開いたまま侮蔑の表情を崩さない。
まるで「だから、何だ」というような、太々しい態度を崩さない女性に少女の方が気圧されるが、少女の発言を聞いた男の方は化け物でも見たような顔をして、全身を震えさせ始めた。
「お、王女殿下の娘!? まさか、そんな……!」
顔色を失って身体を小刻みに震わせながらブツブツと呟き始めた男を、女性は汚らしいものを見るような視線で一瞥すると、踵を返す。
すると丁度、扉が開かれ騎士服姿の男性が顔を出した。
「おや、もうお帰りですか?」
「ええ。見るに耐え難かったものですから。まさかとは思ってましたけれど、髪色も瞳もそっくりで……あの娘はあのお方が仰るとおり……いえ、これ以上、口にしますのは悍ましくて耐えられませんわ。不倫だけでは飽き足らず、神を冒涜したその男とは離婚が決まりましたから、あとはどうぞご自由に」
退出する女性のその言葉を待っていたかのように、室内にわらわらと入り込んできたのは手に手に写真機やメモ帳、ペンなどを携えた新聞記者達だった。
記者達は室内の惨状に、すぐにパシャ、パシャと写真機のシャッターを押しまくる。
その様子に少女が慌ててシーツで身体を隠すが、男の方は騎士服姿で現れた男性に向かって指を指し、掠れた声で言い募った。
「お、お前が! お前が、私に憧れている娘がいるから思い出を作ってやってくれと言ったから私は……それが、こんな……!」
激しく動揺を見せる全裸の男を、大勢の新聞記者達が取り囲む。
男は「やめろ!」「撮るな!」と言いながら手で払いのけるが、ベッドの下に素裸で蹲った無様な男の言い分など誰も聞く耳を持たなかった。
対して指を指された方の男性は笑みを零し、お道化たように肩を竦めるも、ラベンダー色の瞳だけは冷たく凍ったまま口を開く。
「こんな、何です? お二人ともあられもないお姿を晒しておりますが、まさか親子で神を冒涜する行為でもされましたか?」
言い放たれた言葉に、記者達の写真機から一斉にフラッシュの光が点滅する。その眩しさの影で、目を細めて口角を上げた騎士服姿の男性はオリヴァーだった。
◇◇◇
ある程度写真を撮り終えた記者達が固唾を呑んで見守る中、オリヴァーは大仰に首を振る。
「十七年前、王女は国王の反対を押し切って未婚のまま女の子を出産しました。けれど子の父親は絶対に明かさなかった。何故なら子供の父親は公爵家へ婿入りしたばかりで、当時王女の護衛騎士団長であった、その男だったからです」
そう言いながらオリヴァーは裸で床に蹲る男へ視線を向け、苦しそうな表情を作った。
「我が国では未婚女性の出産も罰せられるが、不倫にはもっと厳しい。だから王女と貴方の関係は秘密だった。けれど娘が、父親に憧れるのは当然でしょう? それも滅多に会うことができない父親なら尚更です。挙句、未婚の王女の娘という存在は秘匿で、その男は今や王宮騎士団長ですからね。それでもお二人が、王宮で何度か隠れてお会いしていたのは存じておりました。私は、それも肉親の情なのだろうと思い、ならばせめて一度きりの思い出としてでも人目を気にせず、親子が緊密に会えるようにと市井での密会を考えつきました。ですが……まさかこのような行為に及ぶため私の善意が利用されるとは、騎士として不甲斐ない限りです」
焦燥しているというように項垂れたまま話すオリヴァーだったが、その声音は朗々と淀みないもので、記者達は必死にペンを走らせる。
未婚の王女に娘がいたことだけでも大層なスクープなのに、娘の父親が公爵家へ婿入りした元護衛騎士団長な上、その騎士団長が王女に産ませた自分の実の娘とも懇ろな関係だったなど、前代未聞のスキャンダルである。
特に、教会から最も重い罰だと認定されている親子姦通まで行った事実は、吐き気を催した記者もいて、未だに裸体を晒している二人を憎悪の眼差しで睨んでいる。
すると自らに向けられた憎悪と好奇な視線を振り払うように、王女の娘が怒鳴り散らした。
「ちょっとオリヴァー! 私の護衛騎士団長であるアンタが何を言ってるのよ! 私、こんなオジサンと会ったことなんてないわ! こんな人が父親だなんて知らないし、私はオリヴァーがくれた果実水を飲んで眠ったら、この男にやられていた被害者なの!」
「わ、私もこの娘と王宮で会ってなどいない! 顔も知らない! 実の娘だと解っていたら手を出すはずがない! こうなったのは不可抗力だ!」
娘の発言を受けて、強気になった男が必死に言い訳をする。
けれどオリヴァーはただ冷めた目で、二人を諭すように言葉を続けた。
「往生際が悪いですよ? 王女の元護衛騎士団長アドルフ殿。いえ、今は王宮騎士団長殿ですか? 尤も、離婚して公爵家から縁切りされればその座は返上することになると思いますが。それだけではなく親子姦通となりますと教会の方から厳しい処罰要求がくるでしょうね。最低でも禁固刑でしょうが、おそらく最も重い火刑になるのが妥当でしょう。
それから私は王女殿下の護衛騎士団長であって、その娘である貴女の騎士ではございません。今回の街歩きは私の愚かな善意により護衛を致しましたが、本来は王女殿下ではない貴女をお守りする義務はございませんし、果実水を差し上げた後に父親と会うから部屋を出て行けと仰ったのは貴女です。そして私が別室で控えている間に……。即ち、貴方がたお二人は、父と娘だということを知りながら神を冒涜する行為に及んだ背徳者ということに他なりません。
ああ、本当にあのお方……王女殿下の危惧していた通りになってしまった! 私は親子の情を深めるためだと信じていたのに……」
「何ですって!? 私がこの男と逢瀬をしていると言ったのはお母様なの!? そんなわけないわ! お母様が私を疑うわけないもの! よくも、そんな嘘を! オリヴァーなんて護衛騎士団長の位を解雇して、一族諸共不敬罪で牢へぶちこんでやるから! アンタの代わりなんて幾らでもいるのよ! 身の程を知りなさい、虫けらが!」
淡々と説明し嘆くように天を仰いでいたオリヴァーに対し、王女の娘は金切り声をあげる。愛らしい外見とは裏腹に、あまりに無体な発言を繰りだした娘を見た記者達は、普段この少女が護衛騎士達をどういうふうに扱っているのかを察して眉を顰めた。
そんな中、火刑と聞いて震えあがっていたアドルフもまた、自分の罪を払拭すべく怒鳴り始める。
「そうだ! 黙れ、オリヴァー! 大体、この娘が私の子だという証拠はない! むしろ髪色や瞳の色からしたら、長年王女の護衛騎士をしてきたお前の子と考えるのが普通だろう! そうだ! こいつは、お前と王女の不義の子だ!」
なりふり構わず無茶苦茶な主張をし出したアドルフに記者達は白けた視線を送るが、本人だけは気が付かない。そもそも髪色と瞳の色で父親と断ずるなら、金髪でロイヤルパープルの瞳をしたアドルフだってよく似ていた。
実際の所、アドルフと娘は七歳の頃に別れたまま一度も再会しておらず、王女も娘には本当の父親のことは伝えていなかったので、二人の主張は正しい。
だが真実が必ずしも認められるかというと、現実はそうでもない。特に頭ごなしに自らの正当性ばかりを訴える者の言い分は、得てして虚偽だと思われることが多い。
その辺の機微をオリヴァーは解っていた。
だから記者達の同情を引くために深い溜息を零し、苦悩する表情を見せる。
「そう見せるために王女殿下とアドルフ殿は私を傍に置きたがったんですよね? 貴方と私は髪色や瞳の色がとても似ておりますから。私と王女殿下が恋仲だという嘘の噂まで流して……あの時は本当に困りました。私には愛する妻がおりましたので」
愛する妻、そう言ったところでオリヴァーは窓の外を見やった。
視線の先には家々の屋根の隙間から、夕暮れに染まる離宮の屋根が微かにのぞいている。その手前には彼の自宅が存在していた。遠い昔にフランチェスカと息子と暮らした我が家が。
今はもう二人がいない家の方角にある離宮の屋根を眺めながら、オリヴァーは悲し気に続きを口にした。
「ですが、たかが護衛騎士が、王女と二人きりになる機会などおありだと思いますか? 男性の護衛騎士が女性の王族に侍る場合は、必ず侍女を同行することとなっていることは周知の事実です。しかし護衛騎士団長ともなれば話は別です。何故なら騎士や侍女の配置を決めるのは団長だからです。つまり団長ならいくらでも王女と二人きりの逢瀬の時間が作れるというわけです。このことを鑑みるに、この娘の父親は王女が出産する前に護衛騎士団長であったアドルフ殿以外考えられません。現に私は、その娘から父親と会う時間を捻出するよう何度か依頼をされましたし……」
「嘘よ!」
オリヴァーの言葉に王女の娘が即座に抗議の声をあげる。彼女にしてみれば身に覚えのないことなので反論しただけなのだが、既に周囲の記者達の中で、この娘とアドルフの言い分を信じようと思う者は一人もいない。
怒りと焦りで頬を上気させる少女を、それまで言うべきことは、はっきりと口にしながらも、どこか弱腰に見えるように振舞っていたオリヴァーの視線が、真っすぐに娘の双眸を捉えた。
「そうやってまた貴女は自分の罪をなかったことにするのですね。王女殿下は親子姦通という非道の行いを企んでいた娘を産んだことで良心の呵責に耐えかねて、アドルフ殿の奥方である公爵夫人と私に、娘とアドルフ殿ひいては過去の己の罪を告白したというのに……」
「だからお母様が私を裏切るわけが……」
そう言いかけた娘の言葉はオリヴァーによって、遮られる。
「ここは離宮ではないですし証人もおりますからね。私の子供を殺した時のように、罪を無かったことにはできませんよ」
きっぱりと言い切ったオリヴァーの発言に、記者ばかりだけでなくアドルフさえも一瞬ぽかんと口を開いたが、すぐに吐き捨てるように言い捨てた。
「お前の子供が亡くなったのは不幸な事故だろうが!」
「私もそう思っていましたよ。この女に真相を聞くまでは!」
アドルフの言葉を忌々し気に切り返し、オリヴァーは痛い程、己が拳を握りしめる。
娘の双眸を射貫くように見つめたままのオリヴァーは、アドルフへ一瞥もくれないまま歪んだ笑みを浮かべ口を開いた。
「だって、あの子、私やお母様より自分の母親が一番好きだって言うんだもの。イラついて突き飛ばしたら小川に落ちちゃって、すぐに助けを呼ぼうとしたんだけど、怒られたら嫌だなと思って黙って見てたら、沈んでっちゃった」
稚拙な言葉で発せられたにしては、あまりにも残酷な内容に、その場にいた記者達の手が止まる。
「私の息子が亡くなってすぐの頃、貴女は自分の母親である王女殿下に、そう仰っていましたよね」
「何で、それを知って……はっ!」
思わず漏れてしまった本音に気が付いて王女の娘が口を抑えるが、しんと静まりかえった室内に彼女の声は響き渡り、記者もアドルフも驚愕で目を見開いた。
「私は護衛騎士ですから。王女殿下が人払いをされたとしても常に会話が聞けるくらいの距離には控えております。ただでさえ王女殿下には未婚のまま懐妊されたという前科がありますので、それ以来監視の目が厳しくなっていたのも息子の死の真相を知り得た要因です。私の息子の死は事故ではありません。この女に殺されたんです」
詰るでもなく、責めるでもなく、漣のように静かに告げるオリヴァーに、娘はワナワナと肩を震わせると、逆切れしたように睨みつける。
「小さい時の話を蒸し返さないでよ! 子供だったんだから仕方ないじゃない!」
「子供だから仕方ないですか。そうですね。そうなのかもしれません」
「そ、そうよ! 仕方なかったのよ! 今更、過去のことをとやかく言わないで!」
あっさりと肯定したオリヴァーに、娘は拍子抜けしたように鼻を鳴らす。
そんな娘を見据えながら、オリヴァーはゆっくりと首を傾げた。
「ですが七歳の子供でも善悪の区別はつくものです。現に悪いと思ったからこそ、貴方は王女以外には息子を殺した真実を話さなかった。いや、息子の死を不審に思った王女に促されなければ、ずっと誰にも話さず黙っているつもりだったのでしょう。
そもそも貴女は一度だって亡くなった私の子に懺悔や悔恨の体を見せましたか? 私の知る限り、私の子の命を奪った貴女は、一切反省の態度は見られなかった。我が子のことなど綺麗さっぱり忘れて、相変わらず我儘を通し、護衛騎士や侍女を困らせては嗤っていた。
貴女の言動を見る度に、私は解らなくなった。私も妻も神を信じていました。けれど人を殺して反省の色を見せない人間がのうのうと生きているのに、何故、神は何の罰も与えてはくださらないのか? この疑問は不義密通を繰り返していた王女とアドルフ殿にも言えます。
貴方達の醜聞が露見しないように、王女は周囲や私の妻フランチェスカに自分と私が恋仲なのだと誤解させた。公爵家や侯爵家といった家格の家と違い、フランチェスカは男爵家の娘ですし、私も伯爵家とはいえ三男ですから王族を訴えることなどできませんからね。さすがに国王陛下だけは王女の相手に薄々は気が付いておられたようですが、公爵家を敵に回す愚は犯しませんし、王女を溺愛なさっておいででしたから見ないふりをなさったのでしょう。
しかし、王女と私が恋仲だと誤解した妻は、息子を亡くしてすぐに家を出て行きました。勿論原因の一端は私にもあります。私は彼女の孤独や心の痛みを解ってやることができなかった。ずっと愛していたのに、彼女を幸せにしたいと心から思っていたのに。伯爵家の三男で騎士になる以外道がなかった私は、彼女に甲斐性無しだと思われたくなかった一心で仕事を優先していたら、本当に大切なものが指の隙間からすり抜けていたことに気が付かなかったんです。私は愚かでした。今の孤独は私への罰なのでしょう。けれど、他人の幸せを滅茶苦茶にした人間が、罰も受けずに安穏と生きているのは神の教義に反すると思いませんか? 神は、何故、こんな人間を許しているのでしょうか? 何故……何故、私の息子は死ななければならなかったんだ!」
悲痛な心の内を粛々と訴えていたオリヴァーが最後に耐えきれなかったように、やるせなく叫ぶ声が、沈痛な面持ちで聞いていた記者達の耳に木霊する。
王女の娘はまだ納得がいかないのか挑むような眼差しでオリヴァーを睨んでいたが、アドルフは涙を流し、額を床に擦り付けていた。
やがて、公爵家から連絡が入ったのか王城兵が到着すると、アドルフは地下牢へ、王女の娘は、ひとまず母親のいる離宮へ連行されて行った。
その様子をぼんやりと、でも瞬きもせず眺めていたオリヴァーの背を、一人の記者が軽く叩く。
鈍い動作で振り返ったオリヴァーに、記者は責めるような、労わるような、複雑な表情をすると、ポケットから白いハンカチを差し出した。
「これさ、もう随分昔にうちの嫁が仲が良かった妹さんに貰ったものなんだ。何でも恋仲で結婚した旦那に贈ろうとしたらしいんだけど、旦那には本当は他に好きな奴がいたんだと。酷ぇ話だと思ったが、きっとその妹さんも誤解するように仕組まれていたんだと思う。だって俺が二人を見た限りでは、お互い好き合ってるように見えたから。
だから、これはアンタが持ってた方がいい。うちの嫁も、そう考えたから、王女の護衛騎士団長からリークされた現場に行くって言った俺に、このハンカチを持たせたんだと思う」
記者の顔に見覚えがなかったオリヴァーが訝しむ中、強引にハンカチを握らせた記者は小さく頷くと、足早にその場を後にする。
他の記者達も王国始まって以来ともいえる大スキャンダルを朝刊の記事にするべく、脱兎の如く自社へ駆け戻って行った。
人気が無くなりガランとした室内に一人残ったオリヴァーは、徐に渡されたハンカチを開く。
真っ白いハンカチは、右隅にオリーブの葉と小さな花の刺繍がされている他には、何の変哲もないハンカチのように見えた。
しかし次の瞬間、オリヴァーの脳裏にフランチェスカと結婚したばかりの頃の記憶が蘇る。
新婚間もないというのに深夜近くに帰ってきたオリヴァーは、寝室に置かれた椅子に腰かけたまま眠っているフランチェスカを見つけた。
彼女は刺繍の途中だったらしく針とハンカチを持ったまま眠っていて、青褪めたオリヴァーが慌てて彼女から取り上げたのを覚えている。
怪我でもないかと確認した時に見た彼女が持っていた、ハンカチに刺していた模様が、今、目の前にある刺繍とよく似ていた。
「まさか……な……」
そう呟いて、ハンカチを渡した記者の男の面影を思い出す。
夢中で記憶を呼び起こし、記者の男と十年前に息子の葬式で見たフランチェスカの姉の夫の顔が重なった所でオリヴァーは息を呑んだ。
ハンカチをそっと握りしめ窓の外を眺めれば、辺りはすっかり宵闇に包まれており、離宮の屋根はもう見えない。
だがオリヴァーはその闇に向かって、微かに微笑んだ。
「もう、思い残すことはない。一緒の場所で逝くことは許されなかったが、十分だ」
オリヴァーはそう言うと静かに断罪の部屋を退出し、夜の街の雑踏の中へ消えて行った。