05 黒曜と天狼
――わたしが前世の記憶を思い出して、早いものでもう四日が経った。
今日は、兄の友人が遊びに来ると言っていた日だ。
わたしの部屋の扉を開けた兄は、わたしが準備万端でスタンバってたことに、随分と驚いたようだった。蒼い瞳を大きく見開いている。
いつも大人びている兄がふと浮かべた年相応な表情に、わたしは顔をにんまりとさせた。
「お兄様! セラからも『大丈夫です』と太鼓判を押されましたから、わたしもお兄様のお友達に会っても良いですよね!?」
ベッドの上で正座したまま、薄い胸を張って主張する。
セラとは、いつもわたしの面倒を見てくれているメイドさんの名前だ。
他にも、同じようにわたしの側にいてくれるメイドさんは何人かいるのだけど、彼女が一番わたしと関わる頻度が高い。
兄はやがて吹き出した。
近付いてきた兄は、クスクスと笑いながら「いい子だな」とわたしの頭を撫でてくれる。
その優しい手つきに、わたしは思わず照れてしまった。
兄はベッドサイドに跪くと、わたしに靴を履かせてくれる。
「行こうか、リッカ」
兄が差し出したその手を、わたしはにっこり笑って取った。
兄のお友達がいるという応接間までの道のりを、兄と二人でゆっくり歩く。
わたしが疲れてしまわないようにと、兄の足取りはとってもとっても緩やかだ。
そんなさりげない気遣いに、心の底から感謝する。
「パジャマ姿じゃないリッカを見るの、随分と久しぶりな気がするよ」
「わたしも、久しぶりにちゃんとした服を着た気がします……」
自分の虚弱ぶりにはもう、ただただ笑うしかない。部屋の外に出ることなんて、トイレと入浴時くらいだ。食事も大体は部屋の中へ、メイドさんが運んでくれている。
まだ、身の回りの最低限のお世話は出来るからいいものの……いずれ起き上がる力もなくなって、しまいには『介護』になっちゃうのかと思うと、なんかもう本当に、未来に希望が持てなくなるというか……はぁぁ。
「と……そうだ、お兄様。このお洋服、とっても可愛くないですかっ?」
一歩。
兄の前を先んじたわたしは、そのままくるりと振り返った。
ミントグリーンのスカートは、メイドさん達曰く今季の『トレンド』らしい。
それを白のブラウス、ベージュのカーディガンと合わせ、淡い色味で上品にまとめている。
加えて、レースの付いたハイソックスに、茶色のストラップパンプス。
メイドさん達から「お嬢様には絶対絶対っ、このお洋服はお似合いだと思いますの!」と若干興奮気味に詰め寄られ、わたしはちょっと恐怖を覚えたものだ。
それでも鏡で見た姿はさすがの超絶美少女で、自分の見た目だというのに、思わず見惚れてしまった。
ついでに言えば、わたしに服を着せてくれたメイドさん達は、わたしの姿を見ては「リッカお嬢様が、私たちの選んだお洋服をこんなにもご機嫌に、そしてお元気で着てくださる日が来るなんて……!」と目を潤ませ、写真を何枚も撮っていた。
恥ずかしかったものの、気持ちはとってもよく分かるから……普段はぐったり寝込んでる姿ばかりを見せてしまっているからね……。
スカートの裾を掴むと、兄を見上げてにっこり笑う。
兄は少し驚いたようにわたしを見たが、やがてゆっくりと微笑んだ。
「……あぁ。とっても可愛いよ。リッカにとてもよく似合ってる」
よぉし! と思わずガッツポーズする。この優しい兄であれば「可愛い」くらいは言ってくれそうだなと思っていたのだ。
下心込みの言葉ではあったものの、それでも素直に叶えてもらうと嬉しいものだ。
兄は、柔らかな眼差しを崩さない。
腰を曲げて目線を合わせると、わたしの髪をそっと手に取り、軽く口付ける真似をする。
「天使というものがいるとするなら、まさにお前のような見た目をしているに違いない。儚くて、綺麗で、見ているだけでどうしようもなく心が惹かれてしまう。許されるのなら、どうかこのままお前を腕の中に閉じ込めて、どこかに攫っていってしまいたいくらいで……」
「ちょっ、ちょっとちょっとちょっと! お兄様、その辺りでストーップ! ですよ!」
予想していた五倍は甘い言葉が返ってきて、思わず両手を振って静止した。
兄は、わたしの反応を予想していたようにクスクスと笑っている。
……うぅ。恥ずかしい……。
この兄、本当に十歳か? 人生経験の差なの?
わたし、一応精神年齢十六歳なんだけど。お姉さん、なんですけど。
「……そう言えば、お兄様。今って学校はお休みなんですか?」
「ん? あぁ、今日は建国記念日で祝日なんだよ。土日と合わせて、今日は連休」
へぇ、そうなのか。日がな一日ベッドの上で生活しているものだから、世間一般の暦が分からなくなってしまう。
時計とカレンダーくらいは、お部屋にあって欲しいかも。
後でセラにねだってみようかな。
応接間まではそう遠くなかったものの、兄と二人でゆっくり歩いたため、随分と時間が掛かってしまった。
兄のお友達が来てるというのに、こんなにもお待たせしてしまったと申し訳なくなる。
こうして待たされ退屈してしまったのが原因で、二人の仲が悪くなってしまったらどうしよう? ……なんて、ちょっと嫌な妄想までもしてしまうほどだ。
兄が、応接間の扉を押し開く。
二対のソファの一方に、一人の少年が座っていた。
わたしたちが来たことに気が付いた彼は、振り返ると笑顔を浮かべて立ち上がる。
ゆるくウェーブがかった、燃えるような赤い髪。
翡翠の瞳は、本人の意志の強さを表すようにキラキラと輝いている。
背丈は、兄の方が少し高いくらいかな。
ただそこにいるだけで、ぱぁっと辺りが明るくなるような……何だか不思議と華がある人だった。
兄は、応接間へと足を踏み入れ口を開いた。
「シリウス、待たせてすまない」
「いいっていいって。その子が、例の妹さん?」
「あぁ」
シリウス少年に座るように言った兄は、わたしをソファの奥へ促すと、わたしの隣に腰掛けた。
すぐさまメイドさんが、わたしたちに飲み物を持ってくる。
「……ふぅ……」
ただ部屋から部屋へと移動しただけなのに、それでも少し疲れてしまった。
兄はわたしの顔を覗き込むと「大丈夫か?」と心配そうに尋ねる。
「大丈夫ですよ。それよりお兄様、わたしにも早く、この方を紹介してくださいませんか?」
にっこり笑ってそう言うと、兄はつられたように笑顔を見せた。
「あぁ」と頷いた兄は、そのままシリウス少年を手で示す。
「リッカ、彼が僕の友人のシリウス・ローウェルだ。シリウス、彼女が妹のリッカ。どうか、仲良くしてくれると嬉しい」
「はじめまして、リッカ。これからよろしくな」
「こちらこそ、シリウス様。兄がお世話になってます。これからも、兄のことをよろしくお願いしますね」
シリウス様がニカッと笑って手を差し出すので、わたしも笑みを浮かべて彼の手を取った。
兄の手よりも、少し骨張っていて力強い。
背は兄の方が高いけれど、体格はシリウス様の方が恵まれているようだ。
と、シリウス様はわたしの言葉が面白かったのか、ふとお腹を抱えて笑い出した。
「兄をよろしくって……! よろしくって、すげ、しっかりした妹さんだなぁ……! おいオブシディアン、俺はお前を『よろしく』しなきゃなんないみたいだぞ!」
「う、うるさいな、言葉の綾ってものだろう。そんなの真に受けるんじゃない……リッカからも何か言ってやれ!」
おぉ、兄の頬に赤みが差している。
普段は落ち着いていて穏やかな兄にも、年相応にムキになる相手が出来たなんて。
些細なことかもしれないが、何だかとっても嬉しく思えてしまう。
それはきっとシリウス様が、兄とは全く違うタイプの人だからだ。
生真面目で穏やかな兄に対し、明るく快活なシリウス様。
兄が『友達』と言って連れてくるような人だから、きっと兄に似た物静かで真面目な人かと思っていたのに、その予想は良い意味で裏切られた。
この二人、水と油というか、正反対だ。
「だぁって、お兄様が新たな環境でちゃんとやっていけてるかどうか、わたしは心配なんですよ! お兄様のことだからお勉強は大丈夫でしょうが、クラスには馴染めているのかなぁとか、お友達は出来たのかなぁとか、悪目立ちしてそうだなぁとか、先生から目をつけられてそうだなぁとか、あとあと……」
「リッカ……!!」
兄は半眼でわたしを睨んだ。
わぁ、兄からこんな目を向けられたのは生まれて初めてかもしれない。
慌てて口をつぐんだわたしに対し、シリウス様はそりゃあもう、思う存分に笑い転げている。
「り、り、リッカってば結構痛いとこ突いてくるな! 割と当たってんじゃん、なぁ『黒曜』?」
「うるさいな!」
シリウス様に対する兄の返しが完全に子供のそれで、わたしも思わず吹き出してしまった。
語彙力が完全に消し飛んでいる。
「黒曜って?」
聞き慣れぬ言葉に、わたしはこてんと首を傾げた。あぁ、とシリウス様は頷いてみせる。
「黒曜石だからな、そう呼んでんの。俺のことも、天狼って呼んでくれていいんだぜ?」
「そう呼ぶのはお前だけだ」
ふん、と兄は腕を組んだ。
なるほど、つまりは兄のあだ名ってことか。仲良しっぽくてなんだか微笑ましい。
……ところでその『黒曜』という言葉、初めて聞いたはずなのに、どこかで聞き覚えがある気がするのはどうしてだろう?
それだけじゃない、シリウスという名前だって、どこかで耳にしたことがあるような……?
記憶を探るも、なかなかピンと来ない。
リッカというより、むしろこれは六花だった頃に聞いたことがある気がするのだけど……?