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 ひらり台所で揺れる養い母のスカートをつかみ、必死に目をしばたかせる。

 床の木目を片端から数えていくうちに、こんなものはきっと止まるはず。

 ところが今日はなかなか止まらない。ぼやけた視界が悔しくて鼻先に皺を寄せれば、熱い息が喉をせり上がってきた。


「おやおや、ルフィナ。かわいい子。そんなに泣いたら、せっかくのお前の声が枯れてしまうよ」


 少し揶揄うような、歌う母の声が響く。

 とっさに歌い返そうとして、胸の痛みに喉を閉じる。


「どうして、私だけなの」

 口先だけで吐いたことばは、とても苦々しく床へ落ちた。

 これを母に聞いたところで何にもならないことなど、わかりきっている。

 それどころか、きっと悲しませることになる。

 それでも聞かずにいられない。今日みたいな日は特に……。


 下唇をかみ、木目を睨んでいると、急に床が遠くなった。かがんだ母に、抱き上げられたのだ。


「あら、随分重くなったわね、私の小鳥ちゃん。そうねえ、どうしてなのかしら」


 母の肩に顎をのせるかたちになると、ふわりと石鹸の香りがした。

 ゆらゆら、あやすように母が左右に身体を揺らす。

 柔らかい髪がゆれて、美しい瑠璃色の尾羽が見えた。


「お前のほっぺたがこんなにふわふわの艶々で、髪はまるでお月様の光のようなのはどうしてかしら。いつも母さんのお手伝いを自分からたくさんしてくれるのはどうしてかしら」

「……母さん」


 うふふ、と笑いながら、そのまま母は歌う。

 甘やかで、泣きたくなるような優しくとろけるような旋律で。


「お前の夜の歌が、誰よりも鼓膜を優しく揺らすのはどうしてかしら」

「悲しみに睫毛を濡らしても、朝露とともに払ってしまうのはどうしてかしら」


 際限なく続くそれに、そんなの知らないし、とふてくされると、


「お前のないものを笑うものは、お前のあるものが妬ましいのよ。美しい容姿、類稀な歌声、折れない心……。どれもお前の誇りよ。そして私たちの誇り」


 鼻先に優しく唇が触れる。


「ルフィナ。自分が誰であるか、決めるのは自分よ。お前の行きたいところへ行き、なりたいものになればいいの。お前ならきっとできるわ」


 母のことばはわかったようでまるでわからない。

 だって私はーーー。




「……か! 尾羽がなきゃ、鳥なわけねぇだろ!」

 怒声に、にわかに意識が浮上した。

 一瞬、訳がわからず身動ぎしようとしーーできない。

 頬には冷たい砂の感触。腕は後ろ手に固定されているようだった。


 浅く二度息を吸って吐いて、そっと視線を巡らせると、ほのかな手燭に照らされて、見知らぬ男が二人いるのが見えた。

 二人とも物々しい空気をまとっていて、明るいところを歩ける人間じゃないーーあまり物を知らないルフィナでさえそう思う人相だ。


 そう、確かアレクセイと食事をしていて、彼と離れたときに急にーー。


「だってよ! 歌が馬鹿みてぇにうまくて別嬪なら歌族だと思うじゃねえか! こないだの奴らを逃がしちまったときに、俺だってちゃあんと特徴を見てたんだぜ!」

 怒鳴りつけられた、少し若そうな男が悲痛な声を上げた。


「はっ! 歌がうまかろうが、顔がお綺麗だろうが、尾羽がなきゃそれは人間だろ!」


 ぐい、と急に引き起こされ、とっさに目を閉じる。

 起きていることを知られてはまずい気がする。

 どくどくと耳元で自分の鼓動が聞こえた。


「見ろや! この耳。俺たちとなーんも変わんねえだろ。これじゃ売ったって大した金に……」

「それは大変だ。いつから帝国は人身売買ができるようになったのか……」


 背後からかけられた少し戯けた声に、ハッと男たちが振り返った。


「おいおい、兄さん随分早いお出ましじゃねえか」

 年嵩の方の男が、ルフィナの襟元を引き寄せ、凄みのある声を出す。

 暗くてよく見えないが、若い方の男はじりじりと側方へ回り込もうとしているようだ。


「そりゃあ、彼女から離れる時も気は向けているからね。お仲間はすぐに寝てもらって追いかけてきた次第だ」

 どこかのんびりとしたアレクセイの声に、ルフィナの気持ちもみるみる凪いでいく。


 声にはたくさんの情報がのる。アレクセイの自信も、こちらを気遣う気持ちも、手に取るようにわかった。


 そして、アレクセイのものでない、他の音も。


 だがそれはもちろん、生まれてからずっとあらゆる音を聞き、声を磨いてきたルフィナだから。

 ーー普通の人間に、わかるはずもない。


「そこまでだ」


 響いた声は、ルフィナの左後ろーー襟首を掴んだ男のさらにうしろから。


「なっ……」

 一瞬掴む手がゆるんだその隙に、ルフィナの身体が浮く。

 気づいたときにはアレクセイの背が目の前にあった。

 その向こうでは喚き声を上げながら、複数の男たちに押さえ込まれている男が見えた。


「もう大丈夫。片付くまで……そのままで」


 振り向きもせずかけられたことばは、ルフィナの無事を喜ぶ色を帯びていて、そちらには見えもしないのにルフィナは幾度となく首を縦に振った。


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