三章 第28話 ビクターの反逆
ドンッ!
「ビクター……」
執務机に拳を振り下ろした私を妻が心配そうに見ている。けれど今の私にそのことを気にする余裕はない。あまりの怒りと失望に目の前が真っ赤になったような錯覚を覚える。
「一体何が書かれていたのですか?」
「……読んでみればわかる」
「え……わ、わかりました」
机の上に投げ捨ててある手紙をラナが手に取った。普段の私からは想像できないほどぶっきらぼうな言い方に戸惑っているようだ。
すまない、でもそれだけ気が立っているんだ……君も読めばわかるだろう。
そう思いながら脱力して椅子に座る。手紙はアドニス=ララ=オルクス、現オルクス伯爵からのものだ。内容は先日の誘拐事件について。
「な、なんですかコレは!」
ラナが読み終わるのを待っていると、案の定憤慨したように荒げられた声が部屋に響いた。娘たちを叱る以外に滅多なことで叫んだりしない上品な妻が、見るからに怒りの籠った声で叫んだのだ。
「……私は間違っていたのかもしれない」
私はお嬢様たちには内緒で伯爵に何度も手紙を出していた。冒険者のことや才能のことには触れず、ただ成長過程を書き綴っては送っていた。娘が生まれた時、自分が感じたような言葉にできない優しい気持ちを知ってほしかった。金と権力に固執するその心が少しでも子供に向いたなら、家を継ぐはるか前の彼に戻ってくれるのではないかと……そんな淡い期待を抱いていた。
「伯爵は親の情なんて欠片も抱いてはいないらしい」
薄々わかっていたことではある。何度会いに来てやってくれと送っても返事はなかった。たった1通来た手紙も夏の式典について命令するだけのもの。しかも婚約をほのめかすなど、露骨に政治の道具とするつもりであることを匂わせる内容だった。
「それでも私は信じたかった……まだ彼の心にも人の情があると」
今回の手紙もひどく事務的で、内容はあまりに無神経なものだった。親の情どころか人としての優しさや配慮など欠片も見当たらない。
「これが!これが攫われて無事に帰ってきた娘に送る手紙ですか!?」
「……オルクス伯爵の答え、ということなんだろうね」
「あまりと言えばあまりです!ビクター、どうするのですか?」
低い声で尋ねるラナの目には穏やかならぬ光があった。私がしかるべき態度を示さないなら何をするかわからないような、そんな剣呑な輝きが。
「…………そうだね」
少し考えてから私は言葉を紡ぐ。どうしてもこの10年の間紡げなかった言葉を。
「もう望みの薄い希望に夢を見るのは終わりにしよう。ただでさえ彼女たちには波乱に満ちた人生が待ち受けているんだ、子供たちのために最善を尽くすのが私たちの務めだよ」
「ええ、その通りですとも!」
コンコン
私たちが視線を合わせて頷き合うのと前後して、小さく扉がノックされた。
「どうぞ」
応えると、扉がそっと開いて小さなお客さんが2人顔を出した。エレナとアクセラお嬢様、今まさに話題に上っていた2人が。
「すごい音がしてたから」
「父さま、母さま、大丈夫?」
机をたたいた音や叫ぶ声が部屋の外まで聞こえていたらしい。心配させてしまった。
「ええ、私たちは大丈夫ですよ」
ラナが剣呑な気配を消してそっと笑い返した。こういうところの変わり身は本当にうまい。優雅と言ってもいいだろう。女性だからなのか、母は強いということなのか……なんにせよ私には真似できない芸当だ。
「ラナ、すまないけどこの話、お願いできるかい?父親のする話じゃないだろう」
「ええ、そうですね。わかりました。あなたは準備をお願いしますね」
何の準備かは言わずとも分っている。
「そうするとも」
「さ、お嬢様もエレナも行きましょう?大切なお話がありますから」
「……ん」
「?」
なにかを察したような表情で頷くお嬢様と首をかしげるエレナ。本当にお嬢様はどこまでお見通しなのかと思うほど察しが良い。それに比べてエレナときたら、頭は良いし観察力も高いわりに大人の事情や機微にはどうにも疎い気がある。
よくないところが私に似てしまったかな?
そんな心配を抱くも、キョトンと首をかしげる娘の可愛さにまあいいかと思ってしまう。もちろん淡いラベンダーの目でじっと見つめるお嬢様の怜悧な表情もとても可愛い。
ああ、私は相当に親ばかなようだ……この子たちのためにも、私は心を鬼にしなければいけないね。
「途中でアンナを呼んできておくれ」
「わかりました」
~★~
ちょっとした騒ぎの気配を感じてビクターの執務室に向かった俺たちに、マクミレッツ夫妻はいつもと違う笑顔を向けた。ラナは激しい憤りを綺麗に隠すような笑顔で、ビクターは疲労と悲しみを匂わせる笑顔で。
「さ、お嬢様もエレナも行きましょう?大切なお話がありますから」
そう言われた俺たちは素直に従った。ラナに連れられるまま、何故か俺の寝室へ。
「2人とも身支度をしてください。教会に向かいます」
「教会?どうして?」
てきぱきと着替えを用意してくれるラナに尋ねると、彼女は不愉快そうに顔をゆがめた。
「それは、その」
「……エレナ、着替えておいで」
「え、わかった……?」
俺の着替えを手伝う気でいたエレナを自室に返す。どうにも言いにくい内容らしいので俺なりの配慮だ。
「で、どうして?」
「……」
とはいえラナからすれば俺もエレナと同じ9歳児。エレナがいなくなっても言いにくいことは言いにくいのだろう。まあ、大まかに予想はつく。
「伯爵から手紙がきた?」
「どうしてそれを……」
「机の上、もう見える背丈だし」
ビクターの机の上にえらく高価そうな便箋がみえた。見える背丈になったと言ってもまだ背伸びなしだとかなり見づらいので、宛名や差出人までは読めなかった。それでもビクターの怒りようと併せて考えれば俺には1人しか思いつかなかった。大体、しばらく前にもあの便箋は見た覚えがある。
「そうでしたね。ついついいつまでも小さな子供だと思って接してしまいます」
嬉しいような寂しいような、ラナはそんな笑顔を浮かべた。
まだ小さな子供と言って構わない年齢なんだけど。
「なんて?」
「……誘拐事件のことを手紙で報告したのはご存じですね?」
重たい口を開いて彼女はそう始めた。たしかにビクターから報告したことについては聞いている。
「ギルドの公式報告書と同じ内容、だよね」
「ええ、使徒についても触れず、魔獣についてもCランク程度を複数人でと」
「それで、返事は?」
「いえ、特にそのことには触れられていなかったのですが……」
声と顔では言いにくそうにしながらも、ラナは手際よく俺の服を着替えさせていく。青いスカートと白のドレスシャツの組み合わせだ。ステラによるこの初夏の新作である。
「そのですね、誘拐事件があったのでお嬢様に何事もなかったか証明を教会にさせるようにと……」
「ん、どうせそんなことだと思った」
つまり攫われている間に傷モノにされていないか、純潔を教会にて証明しろということだ。教会は利権から距離を置いており、神官も医学的な知識をある程度仕込まれている。そのため昔から攫われた貴族の子女の純潔は教会が保証する仕組みになっているのだ。主にエカテアンサを祀る慈母教会がお産と合わせて司る職務である。この街には創世教会しかないのでそちらが代行しているわけだ。
「2人が怒っていたのはそのこと?」
「え、ええ」
「ふふ、ありがと」
にしても、娘の心の無事より膜の無事を真っ先に聞いてくるとはいい神経した親父殿だ。
純潔の証明は貴族にとってはたしかに大切な事。結果によっては結婚相手の選択肢が激変するだろうし、政治的切り札としての価値も変わってくる。もちろんあの自愛に満ちたエカテアンサが自分の教会で行わせるくらいなので、娘のためにも必要な検査だ。傷モノだと噂されれば貴族社会で幸せな人生を送れなくなる。それを防ぐためという意味も持っている。
「必要なこと」
「それはそうですが……普通はもう少し時間をあけて心のケアを尽くしてから言うことです。それも当主が自ら言い出すなど言語道断、年嵩の侍女から言い出させるのが筋なのです」
しかも当主はその侍女に不快気な態度を見せ、時には無礼者と叱責して見せるのだとラナは言う。そこまで茶番を打つのが果たして本当に娘のためになるのかはおいておいて、なんにせよ我が家じゃえらく無神経な対応がなされているというのは理解できた。
「もともと伯爵に期待はしてない」
「しかし伯爵はお嬢様のお父上ですよ?」
家族なのに。そんなニュアンスが込められたラナの言葉に俺は首を振る。
「私の家はここで、私の家族はこの家の皆」
「お嬢様……」
彼女は複雑な色味を帯びた声音で俺の名前を口にした。喜んでいるのに悲しんでいるような声だ。たしかにそれは伯爵とも面識のある彼女からすれば少し寂しいことなのかもしれない。それでも俺の知る家族はこの屋敷の人々だけだ。
父がどんな人物か結局ハッキリと聞いたことはないが、褒められた人種でないことくらい察しはついていた。どれだけ頭がキレるのか、どれだけ想像よりマシなのか……それが俺の関心事だ。
とはいえ麗しの親子対面が今から憂鬱で仕方ない。
「さ、行こう」
ラナに全て着せもらった俺は改めてそう声をかける。不愉快なことはさっさと済ませてしまおうと。
「ええ、そうですね。ご安心ください、本当にすぐ済むと思いますから」
母の顔から侍女の顔に一瞬で切り替えたラナが、含みを持たせた言い方をしたことに俺は気付かなかった。
なお、教会に行った俺たちは5分で帰宅を許された。シスター・ケニー曰く暴行を受けたような兆候が何もないので検査の必要もなく、よって証明は直ちに発行できるとのことだ。いくらなんでもそれはおかしくないかと尋ねると、「使徒への性的暴行など神がお許しにならないので大丈夫」というまたよくわからない返答が返ってきた。
いや、俺がお許しになるかどうかは置いておいて、それでいいのか教会……。
~★~
いささか苦しい理論武装で教会から帰された俺たちは、今度はビクターから折り入って話があると呼び出された。
「おかえり、2人とも」
会議室には呼びつけた本人以外に屋敷の取り纏め役が揃っていた。家宰であるビクターの補助をするラナはもちろん、侍女長イザベルに料理長イオや騎士長トニー、侍女長を補佐するアンナ、服飾関係を一手に握るステラなどだ。
その顔触れに俺はさきほど感じ取った波乱の予感が的中したことを悟る。というのも普段この面子で顔を合わせるのは、月初めの日にある屋敷全ての事を把握し相談するブリーフィングだけなのだ。俺とエレナが冒険者になると言った時もこの中で参加したのはビクター、ラナ、イザベルのみ。他の面子は屋敷の指示系統を束ねていても、意思決定に関与する立場にはない。
「とりあえず座って」
言葉少なに家宰が言う。俺とエレナはお互いに顔を見合わせてから勧められるままに席についた。
「さて、今日皆に集まってもらったのはとても大事な話をするからだ」
普段の軽い感じじゃない。どうにも話にくい話題を、しかしそれが責任であると腹をくくって話そうとしている。そんな重量感のある空気だ。
「ここにいるのは毎月の打ち合わせに参加するメンバー、つまりこの家の人員を全て把握している顔ぶれということになる。だからもし反対意見があれば言ってほしいし、自分の管理下で誰か反対しそうな者がいれば教えてほしい」
屋敷で働く全員を把握できる人間をあつめ、賛同できない者を事前にマークしておく。ビクターはそうはっきり宣言した。かつてないほどきな臭い気配だ。
「厄介って顔をしてるね、お嬢様……でもその通り。これから私が話すのはこのお屋敷の、ひいてはこのオルクス伯爵領の未来についてだ」
そう前置いて彼は、ゆっくりと話し始めた。この領地の歴史と、オルクス伯爵家のことを。
オルクス伯爵領は王都から西に2つ目の領地、特産というほどの物はないが複数のダンジョンから手に入る魔物の素材や昔ながらの農業で成り立っている土地だ。ただ歴史だけは古い。ユーレントハイム建国の立役者、四大英雄が1人の側近であった人物が興した家だという。
そんなオルクス伯爵はユーレントハイムの貴族社会においてレグムント派と呼ばれる派閥に所属していた。四英雄の直系であり、お家設立の頃から仕えている大貴族レグムント侯爵家を筆頭とする派閥だ。人道的革新派とも言われる、この国じゃかなり特殊な主義を現在掲げている。
他国はスキルに依らない力を育てている。奴隷や獣人に対する酷な扱いも禁止する風潮が強い。このままではユーレントハイムは国力も精神性も劣った後進国になってしまう。その前に「魔の森」の向こうとより強い結びつきを得て自らを革新するべきだ。
大まかにまとめると彼らの主張はこんなものだ。オルクス邸で働く者たちが技術的な考え方と技能を持っているのは、そんな主義を掲げるレグムント侯爵領で職業訓練を受けているからだ。
そしてレグムント家とオルクス家の繋がりだが、単なる主従にはとどまるものではない。幾度か直系同士の婚姻が行われているほどに両家は親密なのだ。先代の妻、俺とトレイスにとって祖母に当る人物がレグムントの直系であることは、ガックスから聞いて既に判明している。
さて、色々な噂だけが耳に届く我が父上、現オルクス伯爵についてだが……実は彼はレグムント派ではない。むしろその対立派閥であるザムロ公爵に今は頭を垂れる身らしい。
先代オルクス伯爵と現オルクス伯爵の間には大きな確執があったらしい。詳しいことはビクターが言葉を濁したのでわからないが、とにかく現伯爵は先代を凄まじく嫌っていたのだ。それでも先代が存命のうちは目立った対立もなく過ごしていた。
問題は先代が息を引き取ってからだ。家督を継いだ伯爵はレグムント侯爵家と絶縁し、領地をビクターに押し付けて王都へ籠ってしまった。彼は自分の父も、父が心酔したレグムント侯爵家も、父の治めてきたこの土地も……オルクスという血筋にまつわる全てを嫌っているそうだ。
「あの日、私と伯爵は1つの契約をしたんだ」
ビクターは契約書を収めるのに使われる薄べったい本を取り出した。彼の隣に座っていたらラナがそれを受け取って渡しに来てくれる。10年と少しの年月を感じさせる革張りの表紙を開くと、中には1枚の羊皮紙が収められていた。
ビクター=ララ=マクミレッツはオルクス伯爵領領主代行として領地経営に関する全権を委託され、その責任の下で領地を管理するものとする。
簡潔な文章の下にビクター=ララ=マクミレッツ、アドニス=ララ=オルクスと2つの署名があった。片方は目の前の家宰で、もう片方がオルクス伯爵だろう。何の変哲もないただの代官任命書類に見える。
あれ、でも伯爵のミドルネーム……。
「それが表の書類。こっちが本当の契約書類だよ」
俺が抱いた疑問を口にするより早く、ビクターはもう1つの本を取り出した。受け取って開いてみると、先程の文章の下にこう書かれていた。
ビクター=ララ=マクミレッツの所有する管理権限には屋敷内の人事やギルド、教会との最低限の交流も含めるものとする。
王国の法を侵さず、アドニス=ララ=オルクスへの負担を強いない限り、ビクター=ララ=マクミレッツは領地を自由に運営してよい。
アドニス=ララ=オルクスはオルクス伯爵領から得られたあらゆる利益を享受せず、また領地に対していかなる支援も行わない。
「……なにこれ」
それしか口を突いて出てくる言葉がなかった。これじゃまるで、事実上オルクス伯爵領の領主がビクターになっているじゃないか。一切の利益を享受しないなんて貴族として正気とは思えない。
「見ての通りさ。伯爵は領地からの利益まで拒むほどこの家を嫌っている」
「でもこれ……」
「さすがに公的な拘束力はない契約だよ、領地の実質的な譲渡なんて違法だしね。ただお互いの立場を明確にするために明文化してあるだけ。だから継承権がアクセラお嬢様……にはないんだったね、使徒だから。継承権がトレイス様にあることは変わりない」
俗物だ俗物だと言われ続けてきた父への印象が、俺の中でわずかに変わり始めた。これほどの怒りと苛立ちを示す人間はただの俗物とは言えない。なにかとても暗い執念のようなものを感じる。
それと同時になぜビクターが爵位を持っていないのかも理解した。彼はマクミレッツ子爵家の直系であり、長兄は死去し次兄は他家に婿入りしているにもかかわらず爵位を継いでいない。それはあとあとオルクス家で継承問題が起きた時にややこしい事態にならないようにという配慮なのだろう。実質領地を譲り受けたような状態で爵位まで持っていれば馬鹿な気を起こす輩がでないとも限らない、と。
「これを見てもらったうえで今までの領地の実情を聞いてほしい」
「ん」
ビクターは実質的にオルクス領の領主になりつつも、家宰の領分をできるだけ超えないようにふるまってきたと言う。俺たちの教育方針などは相当自由だったが、それ以外では基本的に堅実で領民に優しすぎず厳しすぎずな政治を行ってきた。領主の責任として諸々の事業はしっかり丁寧に行うが特別税を安くすることはなく、かといって搾り取れるだけ搾ろうともしない。領民にしてみればまずまずの暮らしやすさだったはずだ。
しかしその分他の領に比べて伯爵家は貧しかった。ダンジョンから得られる利益はギルドが掌握しているので実質領地の利益になる部分が少なく、農業が中心産業なので領主家の自由になる産業もない。せいぜいが農作物から作られる酒だろうか。
「貴族家としては羽振りがすこぶる悪かった理由だね」
「使用人が伯爵家としては少ないのもお金がないことと、領主に見捨てられた領地に貴族の家臣が残らなかったせいです」
ビクターが肩をすくめ、ラナが補足する。
彼等は財政的に苦しい中でそこそこうまくやりくりしていた。おかげで食うにも着るにも困ったことはないし調度を売り払うような目にも合っていない。年に一度の誕生日パーティーじゃ豪勢な料理も振る舞われる。出て行った昔の家臣たちから内情が他家に漏れた様子もないことを鑑みれば、むしろ彼は桁外れにうまく事態をコントロールしているとさえ言える。
「もう1つ、お嬢様に言っていないことがある」
伯爵と実質絶縁状態であることと金銭的に厳しい理由以外に隠していること。それを語るビクターの声音はさらに一段低いものとなっていた。
「私は伯爵が怒りと恨みで我を忘れているだけで、いつかは元に戻ってくれるのではないかと信じていたんだ。特にお嬢様が生まれた時は、子供ができれば正気に戻ってくれると確信してさえいた」
それは隠していたことを伝えるというより懺悔のようであった。
「お嬢様が生まれた直後、伯爵はお嬢様をこの屋敷に預けた。その……まともに言葉もかけず、使用人と護衛だけつけてね」
痛みをこらえるかのような表情で彼はそう言った。
「トレイス様のときは男の子だったからしばらく王都で治療にあたらせていたみただけど、結局それも途中であきらめるようにここへと預けた」
子供に対してすら無感情で冷たい態度だ。そのことが子煩悩なビクターには耐えがたかったろうことは想像に難くない。なにせいくら街道を使った護衛ありの旅と言っても危険がないわけじゃない。まだ物心つく前の子供にそんな旅をさせるということは、その命を心配していないという意味にもとれる。実際に心配していないのだろうけど。
「それからも私はことあるごとにお嬢様のことを書いて伯爵に送っていたのだけれど、返事が来たのは夏の事に触れていたしばらく前の1回だけだったよ。つい今朝までね」
思いだしたのか彼の拳に力が入る。
「お嬢様にこんなことを言うのは私もいい気分じゃないけど……オルクス伯爵はお嬢様やトレイス様のことを何とも思っていない。愛情など抱いていないんだ」
「父さま!」
ビクターが率直な感想という形をとった純粋な事実を言うと、それまで黙って聞いてたエレナが椅子を蹴立てて立ち上がった。頬は紅潮し目には涙が浮かんでいる。咎めるような眼差しで見つめられたビクターは眉根を寄せて、それでも口を閉ざすことはなかった。
「エレナ、私だってこんなことは言いたくない。でもね……」
「言いたくないならなんで言うの!?そんな言い方ひどいよ!」
「エレナ……」
困ったようにビクターが言葉尻を彷徨わせるので俺は彼女の袖をつまんだ。
「ありがと、エレナ。でも大丈夫」
「でも!」
「大丈夫」
「……むぅ」
俺が気負いのない態度で言えば彼女は不機嫌さもあらわに席に着いた。エレナだって分かってはいるのだろう、俺がそういうことを気にしない性格であることは。というより今まで何かを真剣に気にしているところなんてシュリルソーンの核の件くらいしか見せたことがない。それでも暖かい家族の愛に慣れている彼女には、ビクターの言葉がひどく冷たく悲しい響きを持って聞こえたはずだ。
「お嬢様、すまない。今のは私も少し言い方を考えるべきだった」
「別にいい。それで、どうするつもり?」
ビクターだって好きでそんな話をしているわけじゃない。それはわかる。だから早くこの話を終わらせるのが誰にとってもいいのだと俺は思う。彼も早く終えたいのは同じなのか、襟をただして咳ばらいを挟んだ後に口を開き直した。
「このままいけばお嬢様もトレイス様もある年齢になれば王都で暮らすことになるだろう。より伯爵に都合のいい婚約者と引き合わせるためにね」
土地からの税収すら蹴るほどオルクスの血を嫌いながらも、跡取りたちは道具として使う。その線引きの仕方は俺にはよくわからないが、ビクターがそう予測するならその確率が高いのだ。
「伯爵は領地を捨てた分の金とコネを商売で成り立たせている。数少ない貴族として切れる手札であるお嬢様たちをみすみす無駄にはしないだろうね」
そのくせ育てるのが面倒なのか、そこまでしてオルクスの血を持つ者を見たくないのか、手元に置かず半ば手を切ったこの屋敷に預けるのはどういうつうもりなのか。それが少し気になった。
「実際のところ、お嬢様は使徒だ。継承権はないし政略結婚もできない。でもとても強い力と冒険者としての立場がある。そしてその気になれば教会側に影響を及ぼせる。だがそれらのことを伯爵は知らない」
「ん」
「トレイス様は体調がよくなってから随分と多方面に才能を発揮している。特に物覚えがよく計算や暗記、歴史や詩に明るい。一言で言うならお嬢様とは違う方向の天才だと思う。そしてこれも伯爵の知らないことだ」
「ん」
ビクターの上げる要素を俺はただ頷いて聞く。
「私はもう自分でも望み薄だと思うことに希望をかけて、お嬢様やエレナやトレイス様の将来をあの男の手に預けるようなことにしたくはない」
「つまり?」
「トレイス様を立て伯爵を引きずり下ろす。交代劇、というより反逆だね。こちらのカードが多いうちに準備を始めたいんだ」
この言葉だけで十分反逆の罪に問われる。下手をすれば首を刎ねられるだけで済まなくなるような発言だ。それでも彼は躊躇いなく言いきった。
ふと周りを見ればここに集まっている者は全員そのことを承知しているのか、ただ黙してこちらを見ていた。質問があれば聞くとは言葉ばかりで、最初から彼等との話し合いは終わっていたのだ。
「お嬢様、手を貸してくれるかい?」
上手くいかなければ反逆罪。上手くいっても下手を打てば使徒の政治利用と言われかねない。そんな危ない橋だ。でも彼等は渡るつもりでいる。どのみち当主となるトレイスは問答無用で渡ることになるだろう。
……考えるだけ無駄だ。
俺の家はこの屋敷、俺の家族はここにいる皆なのだ。見捨てられるわけもない。
「ん、わかった」
俺が答えるとだれからともなくホッと緊張を緩める溜息が漏れた。俺が協力しないだけでかなり部の悪い賭けになるのだから当然だ。自分を過大評価するわけじゃないが、使徒は使徒であると言うだけでとても大きなコネを持っているのだから。誰も逆らえない、天の上に大きなコネを。
「ん、伯爵の商いって?」
領地からの収入もなく貴族らしい生活をしているくらいなのだからよほどの大商会を持っているはずだ。リオリー商会を足場に切り崩せるならその算段もつけたいところ。そんな軽い思いで尋ねた質問に、ビクター以下一同は固まった。
「……?」
「……その」
視線で促すとラナが青い顔で視線を逸らした。彼女が視線を逸らすこと自体が大いなる異常事態だ。
「……お、お嬢様。落ち着いて聞いてほしいんだけど」
「ん」
まるで危険物を取り扱うかのように慎重な態度を見せるビクター。そこにさっきまでの毅然とした風格はない。しかしそれも続く言葉を考えれば当然だった。
「オルクス伯爵の商会が扱うのは……奴隷なんだ」
この時、俺とオルクス伯爵の対立は片方の知らないところで決定的なものとなった。
実を言うともう幼少編は終わりです。
突然でもないけどこんなこと言ってみました、ごめんね。
でも本当です。
7日後にものすごくいつも通りな更新が来ます。
それが終わりの合図です。
ほどなく通常の長さの四章が来ます。楽しんで。
それが終わったら7日程あけて学院編が来ます。
~予告~
ビクターはついにその重い腰を上げた。
全ては愛する娘の為に。今、決別の時が迫る。
次回、反乱の始まり
ミア 「嘘予告が嘘じゃないのじゃ・・・」
テナス 「かわりに長ったらしいコピペをやりましたね・・・」
パリエル 「ネタがないのでしょう」




