三章 第22話 飢狼の咢
!!Caution!!
このお話はお盆一週間連続投稿の6話目です!
魔物と魔獣。これらは獣と魔物以上に離れた存在だ。
魔物は動物が多量の魔力を体内にため込み、魔石という核を生じて変異する。変異元が同じなら高確率で同じ魔物になるし、一個体が変異するような環境なら群れ自体が変異する可能性も高い。魔物同士が交配して種として定着することもよくある。
対して魔獣は悪神が創造した生物兵器だ。善神の創造物、とりわけヒト種を襲うことを定めとして生まれ、邪悪で獰猛で狡猾な殺戮生命体として活動する。固有名と固有能力、言語能力、思考力、膨大な魔力と魔石の代わりそれを制御する魔獣角を持つ。彼等も交配を重ねてはいるが、絶対数と生殖能力の乏しさから定着という恐ろしい事態には至っていない。そもそも魔獣はオリジナルから世代が下るほどに弱体化していくためあまり繁殖することを良しとしないという説もある。
そんな魔獣の末裔が、今俺たちの前にいた。元からいたのか、どこか俺たちが落ちてきた穴とは違う場所から入り込んできたのか。とにかく、ソレは強烈な殺気と邪悪な気配をまき散らしながら俺たちを睨みつけていたのだ。
「グォオオオオオオオオ!!!!」
「ひぃっ」
「きゃぁ!!」
「うっ」
「……」
唐突な咆哮に変態とエレナから悲鳴が上がる。剣士も喉に唾を詰まらせたような声を洩らし、俺も体が強張るのを感じた。生前に限れば魔獣と戦闘を繰り広げたことは何度もある。辺鄙な遺跡や人跡未踏の秘境に分け入るとたまに潜んでいたりする。だが、この体になって魔獣を見たのは初めてだ。しかも今のまま戦って勝てる相手とは到底思えない。
「い、いくぞ!」
「ん」
恐怖に呑まれて言葉も失っている変態を捨ておいて剣士は戦闘態勢を整え始める。体を赤や青、紫に黄色のスキル光が包んでいく。強化系のスキルをかけているのだ。
「エレナ、お願い」
魔力ポーションを貰って少し休憩したとはいえまだ俺の魔力は空同然だ。
「巡れ、熱き血潮よ!赤き火よ!満たせ、麗しの泉よ!冷たき水よ!速き風よ!」
エレナは俺に杖を向けて目を閉じ、短縮詠唱でヒートブラッド、ヒートヴェール、バイタルフラックス、ウォーターヴェール、ウィンドヴェールと強化や防御の魔法を重ね掛けしてくれる。そして仕上げにこの状況で最も大切な魔法、ハイドロステップがかけられる。
「満たせ、生命の水よ、麗しの泉よ。其は水の中にありて水より高く、水より軽き物也。水の理は我が手に依らん」
胸まで水に浸かっていた俺の体が急に浮き上がり、水を地面のように踏みしめた。水魔法中級・ハイドロステップはつい最近エレナが使えるようになった魔法の1つで、水の上を歩くことができる。
「行ってくる」
「……うん」
消極的な見送りを受けて俺は水面を蹴る。エレナにハイドロステップだけかけてもらったらしい剣士も俺の後を追うように走り出した。
俺も剣士の男も共闘とは言ったがお互いの手札をほとんど知らない。そして土壇場でタッグを組めるほど奇跡的な相性を持っているわけでもない。なので攻撃はバラバラに行う。連携できるところやカバーに回れるところはそうする程度だ。
「グルル……」
喉を唸らせながら、迫りくる俺たちを見下すように睨む魔獣。灰色の体毛に身を包んだその姿は堂々としているが、生前出くわした魔獣の中ではまだマシな方だ。
「見える?」
「ああ」
硬いとも柔らかいとも言い難い水面を駆け抜けながら訪ねる。彼も『暗視眼』はあるようだ。
「魔獣角を探して」
「魔石みたいなものか。どんな形をしている?」
「まちまち。でも結晶状で必ず体表に出てる」
「わかった」
体内にある魔石と違って魔獣角は体外に出ている。それを砕けば大きく力を削げるはずだ。売ればとんでもない利益だが、命と天秤にかけるほどではない。
「くるぞ!」
剣士が警鐘を鳴らす。いきなり魔獣が突進の姿勢に入ったのだ。体毛に赤い線が走る。
「能力が来る」
俺の言葉が終わるより早く、魔獣の体の線が一際大きく光る。そして大通りの先にたたずんでいたソレは地面を蹴った。
「は!?」
剣士の男が声を上げる。それほどの速度で魔獣は突進してきたのだ。しかも悠々と水の表面を踏みつけている。
「ちっ」
重たい筋肉の塊が駆ける音とともに、異様なほど軽やかな動きで、憎悪と嗜虐に塗れた獣の瞳は迫る。咄嗟に右に抜けつつ、足を狙って紅兎を抜刀する。しかしすんでのところで軽やかに飛び上がって躱される。そのまま俺たちを無視してエレナたちへ向かおうとする魔獣。
さすがは悪神の生物兵器、狡猾で最低の手段を取ってくるな!
「行かせない、輝け!」
刀を振ると同時にばらまいておいた魔力糸に指令を出す。俺が滅多に戦闘で使わない光の魔力糸だ。宙を舞う5本のうち、魔獣の顔の近くにあった3本が魔法化する。
「ギャウ!?」
真夏の太陽を直に見るような強烈な光が音もなく炸裂。いくら頑丈で俊敏な魔獣でも光はよけられない。たっぷりと目を焼かれたことで動きが止まった。
「はぁ!!」
「や!」
俺と剣士が背中から斬りかかる。咄嗟の判断で彼も目を守ったようだ。
紅兎に切れ味を上げる赤いスキル光を纏わせながら、このチャンスにできるだけのダメージを与えるよう。強化された筋力で飛び上がり、上から長い毛でおおわれた首を狙う
ギン!
「硬い……!」
赤い尾を引きながら食らいついた刀はわずか一握りの体毛を斬り裂くだけに留まる。しなやかに見えるそれも魔獣のものとなると頑丈な鎧なのだ。
このまま相手の前に着地するのは拙い。魔獣の頭頂部に渾身の蹴りを叩きこんで横へと避ける。
「グルァ!」
体重が軽すぎて蹴りは全く効いていないらしい。足場もないので当たり前だが。
「ゴォ!」
「!?」
着水した瞬間、音で場所を割り出しただろう魔獣がこちらにその咢を開き、燃え盛る火を吐いた。魔法か固有技能かはわからないが、直撃は死ぬ。
どうせ下は水だと思い切り体を横へ投げ出す。直前まで俺のいた水面に炎は着弾し、後ろから焼けるような水蒸気が殺到する。ウォーターヴェールとウィンドヴェールが熱と衝撃を抑えてくれるが、それでも俺の体は突風の中の布のように吹き飛ばされた。
「わぷっ」
頭から水面に叩きつけられる。首の骨を折らない幸運の代償に、俺は水切りの石のように十数回跳ね返りながら飛ばされる。
「けほけほ……」
呼吸器に入った水に咽つつ、半透明な足場に手をついて立ち上がる。見ればかなり遠くに飛ばされたらしい。今は剣士が1人でなんとか戦っている。
例の紫のスキル光を纏って繰り出される攻撃はどれも基本的に対人戦闘に特化しているらしく、小回りが利いて手数が多い。毛皮の防御は貫けていないが、その機敏な動きで攻撃もほとんど喰らっていない。対人スキルならデバフ付与能力があるかもしれないが、それが蓄積しているのか無効化されているのかはともかく、今のところ影響を与えているようには見えなかった。
ちらっと見ればエレナの階段建設はゆっくりとだが進んでいる。作業ペースが上がらないのは1段ごとに作る土壁の大きさも凍らせる範囲も大きくなるのが原因だ。
「がんばって……」
小さくそう口に出して、俺は戦場へ戻るため走り出した。
~★~
紫の光と灰色の毛がぶつかる。弾かれた手はさすがにしびれてきた。足どりもわずかずつ重くなっている。先の見える奮闘に心が折れそうになる。
俺は対人専門の剣士でバケモノは職分違いだ!
そう叫びたい衝動に駆られるが、そうしたところで役所の窓口でもあるまいし、魔獣がバケモノ専門のところへ行ってくれるわけではない。
貴族の娘を1人攫うからその護衛をしろと、ただそれだけの仕事を頭領には与えられていたはずなのに……なにがどうしてこんなところで魔獣なんて滅多にお目にかかれない存在を相手にしているのやら。
気を紛らわすためにそんなことを考えつつも『殺人剣』を叩きつけ、『体術』で躱す。目の前のバカデカい狼は俊敏で、そのくせ強靭な体をしている。だが大きい以上は至近距離で躱しながら戦うということも不可能ではない。というより、離れれば火を吐かれかねない。
攫ってくるはずの小娘と共闘していたのだが、狼の吐いた火が小さな水蒸気爆発を起こしてどこかへ吹っ飛ばされていった。たぶん死んではいない。もう1人の小娘がやたらと色んなバフ魔法をかけていたことだし、一度手合わせしてみて分ったがアレはかなり強いはずだ。
「ガウ!」
「くっ」
避けきれない軌道で迫る爪を『剣術』でパリィ、続けざまに『殺人剣』で魔法毒を流し込む。
この毒にしてもそろそろ常人10人分の致死量なはずだが……。
「剣がっ……クソ」
足を掻い潜ってさらに毒の切っ先を突き入れると、最悪なことに刃がこぼれた。引き戻された足を避けて、さらに毒を盛る。これで12人分、いい加減少しは衰えてほしいものだ。
しかし意外と魔獣相手にもなんとかなっている。攻撃が効かないのでジリ貧もいいところだが、死ななければなんとかなる可能性もある。たとえば小娘たちを探すために派遣された騎士団とか。
攫ってここまで連れてくる役割を負っていた不良冒険者どもは素人にしても酷く杜撰で、俺たちが来る途中ですでに捜索隊と思しき連中がダンジョン周りをうろついていた。あれがここを突き留めて、街に知らせに戻りさえすれば救援が来る。俺にとっても逃げるのが困難になるわけだが、こんな穴倉で魔獣なんかに食われるより人の手で裁かれた方が100倍マシだ。
愚かにもそんなことに思考を割いてしまったからだろうか、それとも単純に俺の運が尽きたのだろうか。魔獣の全身に赤い筋が浮かんだ。
「しまっ……!」
気づいたときはもう遅い。魔獣の体から灼熱の炎が噴き出した。
「守りたまえ!」
生存本能のままに鎧の下、胸元に下げたペンダントにキーワードと魔力を与える。それはダンジョンクリスタルでできた、我が祭神たる新月神キプニモの聖印。そこに込められた魔法を発動させる。
目の前の狼の体毛からオレンジの光が吹き上がる。視界に映る全てが遅く見えた。一拍遅れてキプニモ神のペンダントから白い光があふれ出す。オレンジの炎が先か、白い光が先か、そんな状況に俺はなすすべもなくただ目を見開いていた。
「あぁあああああ!!」
全身を焼き尽くすような激痛が体を襲う。キプニモ神の守護結界はたしかに間に合った。それでも余波だけで俺の体は焼かれていく。目の前では白く清らかな光の幕が禍々しい火焔の放射を押しとどめてくれているが、そんなことは関係ないとばかりに神経が絶叫を伝えてくる。
「うぁああああああ!?」
喉から苦悶の叫びが迸る。
焼ける。灼ける。ヤケル。
血が沸騰するような熱、神経が爆発するような痛み、急速に失われていく力。剣が手から落ちたことすら気づけなかった。次に俺が理解したのは、自分の頬が水面を打ったこと。
冷たい……ああ、つめた……い……
そこで俺の記憶は途絶えた。
~★~
『完全隠蔽』が姿以外の全ての痕跡を消す。
『剣術』の斬撃強化が刀の切れ味を上げる。
『体術』と『身体能力強化』が瞬発力を水増しする。
ここは崩れかけた建物の上。先に足場はなく、5メートルほど下には灰色の魔獣が見える。剣士の男が奮闘してくれている間にそっと移動したのだ。
そして、音もなく、声もなく、俺はその1歩を踏み出した。
『完全隠蔽』は匂いも音も気配も視線も、あらゆる物を内側にて隠してしまう。しかしそれを戦闘で使うことはできない。効果範囲の指定が曖昧になるのか、戦闘中は大した影響を及ぼさないのだ。それでも2つだけ、このアビリティを有効に使う戦い方がある。一撃離脱戦法において逃げるとき、そして奇襲の初撃がそれにあたる。
「……!」
落下の浮遊感に息をこらえ、刀に魔力を纏わせる。闇属性、それも眠りの力を帯びた魔力を。
仰紫流刀技術・闇巫装の変化、睡花刃。
残り少ない魔力をつぎ込んだ刃を真下にむけ、落下の速度と諸々の強化を込めた切っ先を……
ドッ!!
「ギャウゥゥウ!!」
獣の口から慟哭があふれ出る。剣士を屠った炎を収め、吹き飛ばしたはずの敵と何やらコソコソやっている敵のどちらへ向かおうか。そんなことを思って立ち止まっていたのだろう。その背中に、渾身の一撃が深々と刺さる。
毛の流れに平行に突きたてられた刀は諸々のスキルと物理エネルギーによって半分以上飲み込まれる。肉を絶ち、内臓にも達しただろうか。骨は避けたというのにひどく硬い。
「ガァ!ガゥア!!」
俺を背中に乗せたまま魔獣が暴れる。地震より激しい揺れに俺は柄を握って耐える。そうすれば耐えただけ奴の傷口は抉れて重傷化するのだ。
「ガァアアア!」
「くっ」
差し込んだ傷口から赤黒い血がドバドバと噴き出しては手や顔にかかる。柄巻きや毛皮が湿り、握ったも踏みしめる足もぬめって振り落とされそうになる。
こいつの魔獣角はどこだ!
なんとか両手で柄を握りしめ、でたらめに振り回されながらも体を観察する。
「ガゥ!」
上から見える範囲にはない。そう判断して次の行動に移ろうとしていると、魔獣は自らのダメージも顧みず近くの建物に体当たりをかました。
「かはっ」
振り子のように勢いをつけられた俺の体も色を失った壁に叩きつけられる。肺の中の空気が絞り出される。視界が霞み、指に込めた力が抜けていく。
それでもなんとか刀を離さないよう意識をまとめ上げ、もっと深く力を籠める。まともな足場もないまま腕の筋力だけで押し込めば、スキルとヒートブラッドの魔法で強化された腕が軋みを上げる。ゆっくりと、だが確実に刃は沈み込んでいく。
「ギャォオオオオオン!!」
「!」
太い血管を斬った。ブチンというなにかが千切れる感触に続いて血が吹き上がった。人のソレより断然黒みを帯びた粘度の高い液体が押し寄せる。生臭く、鉄臭く、そして熱い。切っ先が押し戻され、匂いと液に息が詰まる。
「ガァッ!」
もう一度魔獣が建物に体当たりした。今度は近すぎたのか大きく振り回されることはなく、そのかわり肩から壁面に叩きつけられる。湿った中に硬質な響きを孕む音がした。
「あぁ……っ!」
悲鳴が漏れる。骨が折れる激痛に意識が遠のきかける。幼い体が痛みから逃げようとしているのだ。しかしそれでは困る。幼くとももうこの肉体は戦士のもの、ついて来てもらわなければ困るのだ。
血の勢いと遠心力で抜けかけた刀を引っ張り、てらてらと光る毛皮を頭側に走る。栓の役割を果たしていた紅兎が抜けた傷口からはさらに血があふれ出すが、魔獣が出血でふらつく様子はない。
疼痛を訴える足も、焼けるように痛む肩も、全て無視して魔獣の額を踏み台に宙へ跳ぶ。ようやく離れた俺に魔獣は嗤った。牙でも炎でも殺せる。一撃でおしまいだ。そんな勝ち誇った嘲笑が確かにその獣の顔には現れていた。
ちょうど目の高さまで落ちるころ、俺は体を捻って視線を合わせた。焼き払わんと口を開く魔獣に獰猛な笑みを返し、手を差し出す。残りの魔力を贅沢に注ぎ込む。呪文は早く、それでいて丁寧に。
「天より賜りし白き火よ、澱みを焼き払い、清きを守る灯と成りたまえ」
聖魔法中級・ホーリートーチ。
突如として魔獣の顔から火の手が上がる。一切の煤をださず、ただ真っ白な光を放つ不可思議な炎。聖魔法の神炎だ。
「ギャァァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
それまでとはケタの違う叫びを上げる魔獣。神炎は邪な物だけを焼く聖なる炎、邪神をルーツに持つ魔獣にはただの火の何十倍も効くはずだ。
「う……ぐはぁ!?」
衝撃が体を襲う。魔力が枯渇ギリギリまで減った反動で注意が散漫になっていた。顔の右半分を焦がす白い炎に悶えながら、魔獣はまだ空にあった俺の体を地面に叩きつけたのだ。
「う、くぅ……」
経年劣化の著しい石の舗装が砕けて背中に刺さる。折れた右肩が千切れたかと思うほどの痛みを発する。首から嫌な音もした。
「くそ!」
悪態を吐きながら、手は迅速に紅兎の鞘を抜き放って納刀する。まだ顔を燃やしながら、魔獣がその巨大な前足を振り下ろしてきたのだ。
「ぐぅううう」
納刀した紅兎でその爪を受け止める。繊細でともすれば脆弱な刀身で受けるにはあまりにも豪快な足だ。伸し掛かる凄まじい重圧になんとか耐える。
さすがは魔獣、とんでもないタフさだ。しかも顔が半分燃え上がってるくせに俺を殺すことを優先してきやがる!
今の一瞬で不幸中の幸いだったのは、ようやく魔獣角の位置が分かったことだ。踵部分に縦長の赤い結晶が隠れているのがこの状態でやっと見えた。だがそれを攻撃する方法が見当たらなかった。
魔力はすでにない。刀で反撃するには動けない。最初の衝撃でなんとか動いていた右の肩も死んだ。左腕の骨格も耐えきれない重さにミシミシと音を立てている。手も足も痛いやらそうでないやら分らなくなるほどに怠い。意外と出血も多いのか、頭まで重くなってきた。
「きゃ!?」
進退窮まった現状からどう脱却するか回転の遅くなった頭で考えていると、遠くで聞きなれた声が悲鳴をあげるのが聞こえた。続いてなにかが水に落ちる音。
「エレナ……!」
なんとか頭だけ動かしてそちらを見る。真っ先に目に入るのは俺たちが落ちてきた穴にもうすぐ届こうかという土の階段。そしてその1段目に足をかける例の変態紳士。ここからは見えないが、おそらくエレナはアレに突き落とされて水に落ちたのだろう。
お前が1人で上がってもダンジョンの外まで出られないだろうが!
余りの愚かさに怒りが湧く。
「グルル……ガゥ!」
獲物が逃げる。そう判断した魔獣が動いた。俺に反撃の隙さえも与えない速さで走りだしたのだ。
「まずい……エレナ……」
頭で思うように動かない、襤褸雑巾のような体を叱咤して立ち上がる。砕けた通路から水の上に足場をうつし、必死に走る。
俺よりはるかに先行している魔獣は、あれだけの血を失ったくせに軽やかな走りで水面を駆け抜けていく。片目を俺の神炎に潰されて方向の安定感はないが、それでもあの巨体にとっては大差ないこと。
「エレナ……防御!」
聞こえるかどうかも分らないまま叫ぶ。直後に氷のドームが階段のすぐそばで作られた。
よし、まだ無事だ。
魔獣はその防壁を飛び越え、階段を上る途中だった男へ襲い掛かる。
「うわ、うわぁ、やめっ、やめろ、やめてく、げぇっ」
魔獣の前足が階段に叩きつけられた。嫌な音がした。土と氷の階段は砕けて飛び散る。俺の『暗視眼』はその残骸の中に直前まで人だったモノを見た。
次に襲われるのはエレナだ。
「うぉおおおおおおおっ」
雄叫びを上げながら水面を走る。回復速度の速い俺の魔力でもまだ牽制すらできない量だ。ただ走ることしかできない。
一撃で死んでしまった獲物に興味を失った魔獣は砕けた階段の上に立ち、足元の氷のドームに視線を落とす。無造作に振り上げた前足が叩きつけられる。
バリン!
1枚砕かれる。しかしエレナはその下にまだいくつも防壁を張り巡らせているようだ。時間を稼ぐ。そのことに専念している。
バリン!
2枚目が砕かれる。内側から氷の刃が生えて魔獣を襲うが、簡単に3枚目ごと砕かれてしまう。
バリン!バリン!バリン!
足の一振りでどんどん防壁が崩れていく。その都度新しい反撃が繰り出されるが、どれも魔獣の頑強な毛皮を打ち破るには至らない。
もう少し、もう少しだ。あと少しで割り込める。
そんな距離までがまるで100キロの道のりにも思えた。たどり着いたところでこの満身創痍の俺が何をするというのか。そんな疑問も湧きおこるが関係ない。たどり着かなければいけないのだ。守らなければ。理由なんていらない。
バリン!
大きく振るわれた足に外側数枚の防壁が跡形もなく砕け散る。見ればエレナを守る氷の壁はあと1枚だ。
「グルグルグル……」
嗤うようないやらしい唸り声。邪悪な魂に刻まれた殺戮の愉悦を全面に押し出した魔獣は、勿体ぶるように足を振り上げる。
「火の原理は我が手に依らん!」
詠唱が叫ばれる。油断していた魔獣の体に青く輝く火の玉が撃ち込まれた。
「ギャウン!?」
腹の毛皮が目の覚めるような青い炎に焼かれて炭化するのが見えた。エレナは最後1枚の防壁を捨てて最大火力の魔法を放ったのだ。魔法だけで言えばエレナは俺を超える。その渾身の青い火球は魔獣と言えど無視できるものではない。
「ギャン!ギャオン!」
毛皮を焼くだけでは飽き足らず、その下の肉にも青い炎がまとわりつく。そのまま内臓まで焼き尽くす勢いの魔法に危機感を覚えた魔獣は水の中へ飛び込んだ。神炎は水では消えないが青い炎はあくまで炎。ジュッという音をたてて消されてしまう。そしてちょうど神炎も注いだ魔力が切れて空気に溶ける。
意外なほど魔獣は深手を負っていた。背中から内臓まで貫かれ、大量に血を失い、腹を焼かれ、体には大量の毒が注がれている。それでも根本的に普通の生物と違うのか、多少ふらつく以外に目に見えるダメージが感じられない。
「グゥゥウ……ガォオオオ!!」
ただ嬲るだけの獲物と思っていたエレナに文字通り大火傷を負わされた魔獣が怒りの咆哮を上げる。
「ひっ」
それだけでエレナの体から力が抜ける。安全な冒険しかしてこなかった少女にその恐怖は大きすぎた。自らが溶かした最後の氷壁の残骸に背中を預けないと立っていられない彼女に、次の攻撃を準備する余裕はなさそうだ。
「ガァアアアア!」
水面も大気も遺跡も震え上がるような恐ろしい声を放ち、魔獣がエレナに飛び掛かる。逆上しているからか俺には気づいた様子もない。俺のほうが早い。少しだけ、だが決定的に。
少女の体と魔獣の爪の間に割って入る。左腕でエレナの胴を抱き込む。そのまま横に押し倒して……踏み出した俺の最後の1歩が、沈み込んだ。
「え……」
ハイドロステップが効果を失ったのだと、俺は理解できなかった。エレナの体も一拍遅れて沈み込む。危険域から逃れるためのふんばりが効かない。俺たちは互いに縋りつくような姿勢で水面へと倒れ込む。
倒れ斬る寸前でさらに後ろから重たい衝撃が加えられた。
なにか硬い物が肌を食い破り、肉を引き裂き、血をかき混ぜ、神経を断絶する吐き気を催すような異物感。頭の中で体を構成する繊維が千切られていく音が聞こえた気がした。
次いで襲ってきたのは熱。焼ける。左肩が、背中が、腰が焼ける。斜めに、一直線に熱が爆発する。焼けた鉄さえ今なら冷たいと思えるのではないかと、そんなことを思うほどの灼熱だ。
最後に痛みがやってくる。それは今まで経験したことのない類のものだ。脳に直接痛みというものを焼きつけられるような、ただ斬り裂かれただけでは絶対に感じ得ないシロモノ。激痛という言葉が陳腐にさえ思える。
意識とは無関係に体が強張る。エレナの細い体に思い切りしがみついてしまう。そこでようやく気付いた。俺の背中を斬り裂いた爪は彼女の肩をも抉っていた。
獣のそれとは全く違う匂いが鼻を満たす。血の臭気と嗅ぎ慣れた汗の匂い、いつも使っている石鹸の匂いが混じり合った生々しく痛ましい空気。少女の優しい香りと残酷な現実の鉄臭に溺れながら、俺は自分の命が流れだすのを感じた。
背中からだくだくと溢れる俺の命。
「おわ……れ……る……か」
エレナは。エレナだけは家に帰す。
全ての感覚が曖昧になる中で、それだけが強烈に俺の意識を占拠した。
「どう……にでも……な……」
あまりの痛みに意識を手放したエレナの横顔に重ねて、俺の視界にはスキル欄が開かれていた。今日何度目かの意識の暗転。ギリギリのところで俺はある項目に手を触れていた。
『使徒』【限定封印】
第一使徒:初級(特例)
・聖魔法:上級
・聖魔法詠唱短縮
・神託:Lv6
・加護代行:Lv10(MAX)
・アップデート
存在を更新する。特例スキル。<アップデートしますか?> [はい]/いいえ
~予告~
ついに目覚める、真の力。
アクセラにもたらされるのは起死回生の光か、破滅の闇か。
次回、スワンソング
パリエル 「縁起が悪すぎます!」
シェリエル 「顔中出血しそうですよね」




