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技神聖典―刀と少女と神の抒情詩―  作者: 一響 之
十三章 瀉炎の編
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十三章 第49話 最後にできることを

 アドニスの日記だという古びた本を手に、ホランは本棚の方を振り返る。


「どうやらご当主は日記を欠かさずつけておられたようです。あの棚はこのノートと同じもので埋め尽くされていました」

「うわ……」


 日記をつけていたのも意外だが、本棚を埋め尽くすほどの冊数がある方が驚きだ。相当デカい本棚だったぞ。本の方もノートと言い張るにはあまり分厚い。


「それで、ホラン。アタリというのは何のことだい?」

「これです。ここを読んでみてください」


 執事頭は手にした一冊を俺とビクターに見えるように広げ、もう片手である記述を示した。白手袋の指先には、このような記述が。


『稼働三日目。理論的な安定までもう三日。今の所、装置は問題なく稼働している。トワリ侯爵はあと一週間ほど様子を見て、障りがないなら引き上げるとのことだ。ありがたい。しかし本当にこれでいいのだろうか。セシリアの髪も、肌も、真っ白に色が抜けてしまった。まるで昔書庫で見た生体標本のようで、こんなことをしても無駄なのだと突き付けられているような気分になる』


 稼働三日で真っ白に色が抜けた。予想は正しかったようだ。


(……白か。つくづく祟る色だな)


 アドニスにとっては二重三重に嫌な話だったと思う。妻が標本のように白く脱色されていくのも恐ろしかろうが、白髪は自分が持っていなかったことで先代から暴力を振るわれる理由にもなった特徴なのだ。


「それにしても、随分しっかりした日記。これも昔から?」


 ビクターに視線を向けると、彼は苦笑を浮かべて肩をすくめた。


「日記は昔からだが、こんな詳細だったとは知らなかったよ。彼は頑として中身を人に見せなかったからね」


 日記だから当然かもしれないが。そう付け加えると彼はホランから分厚いそれを受け取り、ぺらぺらとめくり始める。


「一日のことを二ページも三ページも使って書いているんだね。それを毎日とは、本棚が一杯になるわけだ」


 濃い緑の目が驚くべき速さで左右に動き、紙をめくる心地よい音が一定のペースで繰り返される。凄まじい速読は高い文官系スキルのなせる業だ。


「ん? 」


 途中、ページを送る指がぴたっと止まる。


「これは、いやまさか……」


 いぶかるような声を漏らした男は、次の瞬間には日記を閉じて歩き出していた。


「ビクター?」

「ちょっとだけ待って!」


 顔を見合わせるホランと俺。とりあえず絵に白布を掛け直し彼を追いかける。向かうは本棚のある方だ。

 当然のようにビクターの背丈より高いその家具。幅もドニオン女侯爵の胴体くらいあって、パッと見の印象を超えて大きかった。その何段もある棚にぎっしりと日記が詰まっている様子は壮観……どころかちょっと引くほどである。


「次のは、これか」


 ホランがさきほどの一冊を抜いたのであろう、ぽっかり空いた場所の隣の日記を取り出す我が養父。彼は最初のものを小脇に抱えたまま、新しい方にまた凄まじい勢いで目を通し始めた。

 俺はその細い指先が紙の群れを一枚一枚はぐっていくのをじっと眺める。

 何を探しているのか。そんなことは問わない。彼が待てと言えば俺は待つだけだ。


「あった」


 たったのニ、三分で彼は目的のものを見つけたらしい。

 しかし紙面から顔を上げた彼に発見の喜びやスッキリ感といったものはなく、むしろより深い困惑で頬は強張らせていた。


「お嬢様、ちょっと衝撃的な記述があったのだけど……どうする?」

「私が見ないって言うと思う?」


 躊躇いがちな問いに俺がそう返しても、いつものお気楽な応えはなかった。

 代わりに先ほどホランがしたのと同じかたちで、開いた日記を差し出される。


「君とトレイス様の、出生について書かれている」

「……!」


 なるほど、そうきたか。確かに冗談めかすわけにいかない話題だ。

 俺は小さく頷き、日記を受け取った。そこにはこのような記述があった。


『トワリ侯爵からリスクの説明を受けた。やはり出産のために一時的とはいえ治癒溶液を抜くことは、セシリアの体を維持するうえで危険だという。それに侯爵の見立てでは双子の片方はまだ未成熟で出産に耐えられず、ほぼ確実に死んでしまうだろうと ……』


「待って、双子?」


 ページを一枚戻って日付を確認する。十六年前の冬の始まり頃。俺の生まれる少し前だ。

 だが意味が分からない。俺とトレイスは年子、つまり生まれに一年の差がある。


「読み進めて」

「……」


 あの一瞬で一通りを読み終えたのであろう養父に目で問いただしても、彼はそう促すばかり。仕方がないので俺は日記に意識を戻し、読み進める。

 答えはすぐ次のページに書かれていた。


『悩んでいると侯爵から、彼のスキルで強引に片方だけセシリアの胎に残すことを提案された。成功すれば彼女の『自己保全』でその子も救えるだろうと。当然ながら母体の負担は大きく、また次の出産に際しても溶液を抜く必要がある。成功率だけで考えれば一番ありえない選択だが、うまく行けば全ての命を守ることができると』


「……やったのか」


 俺は背筋がぞっと冷え込んだ気がして、自然と声が低くなる。

 狂気の沙汰だ。一度お産が始まればあとは上手く行くか、行かないか。それが世の常。それを途中で止めて、半分を一年後に先送りするなんて……。

 技術的に可能かどうか以前に、それを試そう思うほどネジの外れた輩はエクセララにもそういない。なにせ失敗すれば母子ともにどうなるか分かったものではないのだ。

 技術者がヒトであることを忘れないために己に課す倫理観という線引き。これはその遥か向こうにある試みである。


(だが、そのおかげで俺とトレイスは生まれた)


 彼らはやった。そして成功させた。俺とトレイスが姉弟として今この世にいるということが何よりの証拠だ。

 その点は彼らの狂気に感謝するほかないし、結果的にはトワリが正しかったということにもなってくる。


「……素直に認めがたい」


 苦い顔で唸るほか、俺にできることはなかった。


「なんというか、あまり驚かないんだね?」

「双子の話?驚きはした」


 ビクターの問いに首を振って答えとする。見ればホランはその横で固まっていた。常識人ほど頭が付いてこない類の告白だったろう。


「でも、腑に落ちる部分が多かったから」


 セシリアの状態をドニオンから知らされたとき、俺が最も気になったのは二点だ。

 一つ。俺が生まれる一年以上前にセシリアは脳死状態になっていること。これではどうやって俺を妊娠し出産できるというのか。

 一つ。トレイスが俺の一つ下の弟であるということ。俺自体がどう生まれたのか不明な中で、俺のいなくなった胎に誰が仕込み、どうやって生んだというのか。


「仕込むって……お嬢様?」

「んん。この際、そこは目を瞑って」


 口元を引きつらせるビクターの指摘を受け流し、俺は日記を軽く持ち上げる。


「その答えが、これで分かった」


 セシリアは脳死前から俺とトレイスを双子という形で孕んでいたのだ。そして装置とスキルの力で脳死後も母体と胎児は生かされ続け、産み落とされた。それぞれ自然に生まれるより大きくズレたタイミングで。


(影響したのは栄養状態か、それともスキルの性質か……その辺りは当事者が全員くたばってるからなぁ)


 おそらく解明することも、まして再現することもできないのだろう。

 医療技術のブレイクスルー足りえたかもしれないと思えば少し勿体ない気もする。得られるべきでないデータではあるかもしれないが、得られた以上は貴重な資源だ。


「ビクターはどこまで知ってた?」

「私はなにも。てっきり、最初のお子様は流産されたものだと思っていたんだ。その次にお嬢様を、そしてトレイス様をご懐妊されたと……まさか二人が双子だったなんて、夢にも思わなかったよ」


 彼は少なからずショックだったようで、深い息を吐いていた。

 驚くのも無理はない。乳幼児から育てていたのだから、むしろ疑念など挟む余地もなかっただろう。それがこんな形で突くがえったのだから。


「でもそれで何かが変わるわけじゃない。家督争いでもしているなら別だけど、私と彼が双子でも、年子の姉弟でも、別になんの問題もない話。でしょ?」

「それは……いや、まあそうか。そうだね。ただこの話は世の中に出さない方がいいと思う。人は常と違うモノを嫌悪し排斥したがる生き物だからね」

「それはそう。きっと使徒の私には言わないだろうから、ぜんぶトレイスにいくしね。そうなったら……残念なことが起きるかもしれない。ホランも、他言無用」

「は、はい」


 ほんの少し顔色を失くした執事頭が数度首肯するのを見届け、改めて日記に目を落とす。


「でもこれ、本当に情報の宝庫」


 アドニスには記録癖と言ってもいいほど詳しく日々の悩みや情報を記していた。出産関係の話題では、もう一つの選択肢が与えられていたことも続けて書かれている。それはトワリのスキルで逆に双子の生命活動を抑え込むというものだ。

 あの狂人の仮説では適切な時期に魂が定着しなければ肉体はただの肉のまま、命ある存在にはならないという。そのまま成長を抑止しておけば、妊娠状態のセシリアをリスクなく維持できる。理論的には。


(本当にマッドだな、あのオヤジ)


 双子の片割れを胎に残す選択共々、いずれにせよ調整の大部分を『自己保全』に頼るかなり博打性が高い提案だ。未知の部分が多すぎる。

 そもそも脳死患者を母子ともに永久に現状維持で留めておくなど、正気とか狂気とかいう次元を超えているのではないか。

 ……が、アドニスの中では最初、この案が一番の有力候補だったらしい。


『大切なものが何であるか、考えれば分かるではないか。こんなことにまで手を染めて繋いだセシリアを失えば、私に何が残る。上手く行けば全て守れるとトワリ侯爵は言う。だが最悪の場合、三人分の遺体とどうしようもない巨大な絶望だけが残されるのだ。耐えられるわけがない。明日、侯爵には子供を諦めると伝えよう』

『そもそも私は父親にはなれない。その資格も、資質もない。きっとこの選択でセシリアが死ねば、私はあの男のようになる。例え双子が揃って生き残ってもだ。そんな結末を迎えるくらいなら初めから止めておけばいい。簡単な話ではないか。明日には伝えよう。子供などいらないのだと』

『セシリア。君に相談できたならどれだけ良かったろうか。君はいつでも即決即断で、さらにすぐ行動に移せる人だった。通り過ぎているくらい真っ直ぐに芯が通っていた。君ならすぐに私の迷いを一蹴し、決めてくれたろうに。今、私は自分だけで何もかも決めなくてはいけない。だけど……いや、だから……明日は……』


 逃げるばかりの人生だったと自嘲していた通り、なかなか言葉通りの決断を彼は下せなかった。ここには繰り返し決意を固めては実行に移せない男の苦悩が、生々しく震える文字で何日にも渡り記録されている。

 それでも時間は確かに経過しているのだろう。しばらくして決断の時は訪れた。アドニスはトワリから最後通告を受けたのだ。


『成長を止めるにしても、維持できる範囲というものがあるようだ。侯爵はその期限が明日だと。もう少し早く教えてくれてもいいと思うのだが。まあ、却ってよかったかもしれない。これから彼の部屋に行って伝えよう。伝えるんだ。私に必要なのは妻だけだと』『ああ、だが……この子たちを諦めれば、セシリアは私を許さないだろう。彼女がよい母親になったかは、母などいないも同然であった私には分からないが。彼女はザムロ閣下のプロジェクトに入れ込んでいた。それこそ私以上にだ。これは世界を変える実験だと、私たちの子供はこの国の貴族の基盤をごっそり変えてしまうような存在になるのだと、そう興奮気味に言っていたのが懐かしい。ああ、懐かしい。セシリア、君に会いたい』


 あのアトリエの大きな丸椅子に座って、返事をしない真っ白な妻の肉体を見上げ、彼はこれを書いていたのだろう。そう思わせるスケッチを交えながら、その日の日記は八ページにも渡って続いた。

 その中に結論をどう出したのかは書かれていなかったが、俺が今ここに居るという事実から考えれば答えは分かる。少なくとも現状維持を頼みにはいかなかったのだ。


(問題は積極的にか、消極的にかだが……これも分からないな)


 小さく舌打ちをする。苦悩は書かれていても肝心の判断が書かれることがほとんどない。そのことを少し鬱陶しく感じ始めている俺である。


「はあ。ソリが合わないことだけは、なんとなく分かってきた」


 少しページを飛ばした。自分の生まれた頃まで一気に半月分ほど。

 目的の箇所がどこかはすぐに分かった。ここだけ紙が一度濡らして乾かしたとき特有の、波打つような質感に変わっていたから。


『生まれた。名前はセシリアと決めていた通り、アクセラとした。私などよりトワリ侯爵の方が大喜びだった。彼はこう言った。誰もが生まれたばかりはこのように柔らかく、熱く、そして儚いものなのだと。無垢で愛おしい、尊い存在なのだと。あれほど朗らかな顔で語る彼は私も見たことがないが……どこか狂気じみたものを感じた』

『しかし侯爵の言葉を聞き、生まれたばかりの我が子を腕に抱いて分かった。私はやはり父になどなれない。私はこの子に相応しくない』

『私が真っ先に思ったのは自分のことだった。私は?私は、生まれたときからそうではなかったのか?誰もが生まれながらに無垢で尊いというのなら、私もそうだったのではないのか?そんな疑問が沸き上がって、腕の中の小さな存在に嫉妬したのだ』

『娘の体温を感じ、私は胸に何かがこみ上げてくるのを理解していた。だがこの感情を同じように覚えたはずの父は、どうして私をあれほどに痛めつけることができたのだ。あの男は私を野良犬のように殴り、否定し、最後は捨てて見せたではないか。それこそ、この名前の分からない感情が一時のまやかしであるという証拠ではないのか』


 次のページには見開きを使って一枚の絵が描かれていた。

 穏やかに眠る赤子を抱えた恰幅のいい男。けれど男の頭は腐りかけの獅子のそれになっている。牙が抜け、目も落ち、それでもなお赤子を食らおうと口を開く姿はまさしく化け物だ。


(獅子は子を試すため殺そうとするという……あれは誤った俗説だが、その引用か)


 先代伯爵はまさにそういう男だったのだろう。そしてアドニスにとって己はそんな業だけを継ぎ、鋭い牙も機敏な瞳も失った獅子の腐肉だった。


『この体にはあの男と同じ血が流れている。あの男の振る舞いがこの心には刻まれている。私はあの男になる。きっといつかあの男と同じになる。腕に抱いた熱も、この感情も、きっと意味などないのだと切り捨てる日が来る』

『どうして許してしまったのだろう。セシリアを危険に曝し、自分を苦しめ、この子自身にも呪いを残すだけだと知りながら……』


 パタン。俺は日記を閉じて深く息を吐き出した。

 二十余年、誰の目にも触れることのなかった男の心情だ。あまりに苦く、濃く、そして昏い。つらつらと読んだだけで胸の中がドロドロとして気持ちが悪かった。


「……まったく」


 俺はもう一度大きく息を吐いて、そのまま絨毯に腰を下ろした。背中を本棚の横板にどっとあずけ、足を放り出して。

 土足で歩く場所にスカートで座るなと怒られそうだが、誰もそんなことが言える空気ではない。


(十分じゃないか)


 独善的で優柔不断な独白の中に、ほんのわずかな言葉の端々に、愛情があるのが分かる。

 セシリアへの愛と同時に、子供への曲がりえない原始的な感情が見え隠れしている。

 その上で彼が問うているのは己の資質だ。


(血が繋がっていようがいまいが、それを己に問わない親はいない)


 本当にこの子の親が自分でいいのか。自分はこの小さな命を一人の人間に育て上げられるのか。そんなだいそれたことを自分が成せるのか。成し遂げられるのか。

 俺だって悩んだ。きっとジンも、師匠も悩んだのだろう。ここにいるビクターでさえも。


(アドニス……君はそういう意味で、ちゃんと親になっていたんだ)


 彼は結果として俺たちを手放した。だが虐待された子供が虐待する親になることはままあること。一概に彼の決断が間違っていたとはいえない。

 あの男ならと、彼はビクターをそう思っていたようだ。ならアドニスなりに子供たちの最大の幸福を願って手放したのだと……まあ、そう受け取れないこともない。


「……やっぱり、どっちだか分からない」

「お嬢様?」


 俺はもう一度首を横へ振る。


「日記を見る限り、私の知る彼ほど狂っていたようには見えない」

「……聞いている話だと、そうみたいだね」


 黒いレースの長手袋に包まれた左手でこめかみをグリグリと押さえる。

 ほぐしておかないと頭痛がしそうだった。これからの作業を思えば。


「でも最後の最後、ザムロに説得されて以降の彼はこんな調子だった」


 自罰的で、内向的で、過去に雁字搦めにされた後ろ向きな男。日記の中の彼と晩年の彼はたしかに繋がる。本来の性格、本性とでもいうべきモノは、やはりこちらなのだろう。

 では間に横たわるギャップはなんなのか。すぐ激昂し、物に当たり、誰彼なく非難して遠ざけるあの激しい性格はどこから来たものなのか。

 それはきっと抱えきれなくなった罪悪感や後悔、過去の妄念によって『怒り』が限界まで暴走し尽くした姿だったのではないか。


「……きっとここに、全部書いてある」


 背後の硬い板材をコンコンとノックする。一番下から上の段の半分ほどまでぎっしり詰まった日記の中に、きっとアドニスの全てが詰め込まれているのだろう。

 これほど後悔してなお、トレイスの出産を許した理由も。俺たちに抱く考えの主軸が先代から継いだ呪いの話から、血統解放の成果に移っていったワケも。

 背負った『怒り』に蝕まれていく過程も。育った俺を再び見たときのことも。セシリアを失った日のことも。

 そう、全部が全部、ここにある。


(ぞっとしないな)


 アドニスにとっては日記でも、あとから読む俺たちにとっては違う。独りの男があまりに辛い人生の中で歪み、おかしくなっていく姿を現した伝記。長い、長い、長すぎるにもほどがある自伝だ。


「お嬢様。私が読んであとで報告することもできるよ」

「いらない」


 俺はビクターの痛みに満ちた言葉を即座に斬った。

 それは彼のためであり、俺のためであり、またあの男のためでもある。


「私はここに、アドニスを知りに来た。逃げるつもりはない」

「お嬢様……」


 それ がアドニス=ララ=オルクスの遺言なのだ。

 それくらいは果たしてやるのが、娘と生まれた俺の責任だ。


 とまあ、いい具合に俺とビクターの気持ちが通じ合ったところで。

 ぐぅ……と控えめな腹の虫が鳴いた。


「し、失礼いたしました」


 振り返るとホランが沈痛な面持ちで明後日の方を向いていた。

 なんとなくその姿に申し訳なさや羞恥以外の感情を感じ取る。ちょっとお腹が鳴ってしまって、というよりはもう少し切実な欲求の気配。俺は飢餓感に敏感なのだ。


「……もしかして食べてない?」

「うっ」


 言葉に詰まる執事頭。どうも準備に忙しくて朝と昼を両方抜いていたらしい。

 二食も抜いてこれだけ肉体労働をすれば、腹が鳴るのも道理である。


「はぁああああああ……気が抜けた」


 がっくりと肩から力を抜く。


「も、申し訳ございません」

「いい」


 本日最大の大溜息を長々と吐き切り、ひょいっと立ち上がる。

 体を反らすと背骨が伸びていく感覚。従って小気味のいい音が連鎖した。


「でも、疲れたからお茶淹れて来て」


 手をひらひらとやって、極めて雑に指示を出す。


「え?は、はい。あ、でもキッチンも灰に……いえ、隣でお湯と茶葉を借りてきます」


 急いで階段の方へ走り出すホラン。

 この国の貴族界には「一流の貴族たる者がお茶の準備を求められて断ってはいけない」という謎のしきたりがあるので、ニ十分もすれば隣から最高級の一式がやってくるだろう。その辺りは意地の世界だ。


「でも来るのはお茶だけ。菓子も欲しいよね?」

「ふふ、そうだね。私も小腹が空いたから、お菓子と軽食を用意しよう。頑張り者の部下を労わないといけないし……何より、我が乳兄弟が筆まめ過ぎて長丁場になりそうだ」


 ニッと少し無理して笑う男。彼は緑の瞳で小さくウィンクなど寄越しのたまう。


「エレナを呼ぼうか、あの子も貴族街で待っているんだろう?」

「ん、たまにはガッツリ侍女の仕事をしてもらわないと」

「それはそうだ。彼女は君の乳兄弟なのだから」


 俺たちはそれぞれ手にしていた日記をもとの場所に差し込み、一旦その場に背を向ける。


「お嬢様、ありがとう」

「……別に」


 小さく擦り切れるような呟きに、吐息ほどの返事をする。


「最後くらいは、ね 」


アドニスとビクターの関係って掘り下げると美味しいよなぁ。

そう思いつつ、あまりに本筋と関係ないのでかなり自省しました。

妄想で補完してください……。


面白ければ励みになりますので、評価&いいね&感想頂ければ幸いですm(__)m

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