十三章 第48話 一人芝居
エントランス から入って右にいくと狭苦しい備品倉庫がある。奥まで入ると描きかけの絵画を乾かすラックがあるのだが、それと顔料の保管棚の間の壁にひっそりと引き戸が設けられていた。地下への階段があったのは、その向こう側だった。
「随分と凝った隠し方だったね」
「それに異様なほど堅牢です」
階段を下りながら俺たちの交わす言葉が、硬い岩肌と乾いた空気に反響する。
足場も壁も天井も全て茶褐色の岩が剥き出しで、まるで地下牢へ続いているようだ。とてもあの画廊の一部とは思えない。
「しかも狭い」
隠し階段なのだから当たり前かもしれないが、やたらと窮屈にできている。俺が片側に寄って腕を上げれば反対の壁に……はギリギリ届かないが、惜しいところまではいける。
骨格のしっかりしていたアドニスや、まして大柄なザムロ公爵などが通ることを考えれば随分と余裕のない設計だ。
(これはどう考えても一人用の階段だな。しかし、それならどうやって装置を組み立てる部材や、ユキカブリの実を搬入していたんだ?)
地下からまた別のどこかへ、物資搬送用の通路が設けてあるのだろうか。
昔、オルクス領に居た頃に俺が潰した違法奴隷商はそうだった。
「そもそもここを建てたのは誰か。その辺り、ホランは知っているかい?」
「いえ、私も地下の存在をこの騒動まで知りませんでした。ただ、可能性が一番高いのはザムロ公爵閣下ではないかと」
「まあ、そうなるよね。屋敷自体、鞍替えの跡に公爵の支援で建てたのだし 」
家宰と執事頭の会話を聞きながら俺は頷く。
アドニスの根底に先代の暴力があったとしても、それは遠因にすぎない。
(直接的に彼の状況を作り出したキーパーソンは三人だ)
まず彼を自派閥に引き込み、血統解放実験を企画したザムロ公爵。
次に死にゆくセシリアを肉体だけでも長らえさせる装置を作って見せたトワリ。
そしてその維持に必要なユキカブリをネタに違法奴隷商を斡旋したドニオン女伯爵。
この中でオルクス家の地下大きな施設をつくれる者となれば、それはザムロ公爵を措いて他に居ない。時系列的にも、資産的にも、また状況的にも。
(けどそうなると、ザムロはアドニスに逃げ道があると知って放置したことにならないか?)
本気であの男を救いたいと願っていたなら、不確定要素になる別の通路は王宮に報告するのが正しい行いだろう。あるいは先に潰してしまうかだ。
「さあ、お嬢様。どうやらついたみたいだよ」
「……ん」
考えに耽っていた俺をビクターの声が呼び戻す。
言われてみれば階段は残り数段で、先を行く二人はもう床に足を下していた。
踊り場のように狭い空間。 その先にまた扉がある。今度は立派なやつだ。
「……」
暗がりに立つ今生の養父は、恐る恐るといった様子でその扉に手を当てる。
が、押し込もうとはしなかった。ただ掌を添えて、その冷たさに感じ入るように黙りこくってしまう。
「ビクター?」
「……ああ。すまないね、少し尻込みしてしまっただけだよ」
俺が声をかけると、彼は数秒の沈黙を、頭を振って追い払う。
「尻込み?」
「彼とは、君の父上とはもう二十年以上も話をしていなかった。奥様に至ってはほとんど顔を合わせたこともない。私が知っているのは幼い頃の幻影にすぎないのだと……そう突き付けられるのが、今更になって怖くなってきたらしい」
心情をつらつらと吐露するビクターの手が、扉から滑り落ちる。
今日の彼はいつもの切れ者という印象から遠く、疲れ果て、怯えていた。孤独がその身から溢れ出しそうになっていた。
(本当に怖いのはアドニスが自分の知る男ではなくなっていたと、そう理解する事じゃない。むしろ彼が自分の知る男のままだったなら……それをこそ恐れているのだろう?)
民のため、娘たちのため、見限って反旗を翻すと決めた。その相手が幼い頃と変わらない乳兄弟だったとすれば、自分は一方的に見捨てて、見殺しにしたのではないか。
ノルス=ソディアクとしてアドニスが発表してきた絵の数々を目の当たりにし、この情深い男はそんな思いにとらわれているのだ。
(優しい男だ。優しすぎるくらいに)
俺は最後の一段を下り、仕立てのいいジャケットの背に片手を添える。ぎくりと身を固くした男に優しく言い、筋張った背中を軽く撫でてやる。
「怖いね。それは、怖いね」
寄り添う言葉を呼び水に、俺の鼻腔の奥に焦げ臭さが蘇ってくる。
熱に揺られてなびく朱色の長髪。火を閉じ込めたようなルビー色の瞳。
硝子状に溶け固まった砂漠の真ん中で嫣然と微笑む褐色の女の幻影。
ああ、そうだ。決別したものと向き合うのがどれほど恐ろしいかは、俺にもよくわかる。
「選ばなかった方を目の前に突き付けられるのは、選択と決断を重ねて来た者にとって最大の恐怖だ」
何かを選んだことのない者には知る由もないだろう。決断したことのない者には想像もつかないだろう。そんな痛みを俺たちは一生抱えて生きていく。そこから逃げる術はない。
それでもと、かじかんだ彼の手をもう片手に取り、持ち上げ、扉に当てさせる。
「お嬢様……?」
「ん、でも大丈夫。私がいる」
例えどれほど選ばなかった方に心が残ろうと、選んだことは間違いなどではなかったと思わせてみせる。そういう意味を込め、俺はビクターの手を強く握りしめるのだ。
すると家宰は目を丸くし、それからへにゃっと笑み崩れた。
「あはは。これじゃあどっちが大人なんだか……お嬢様には適わないな」
「ならこれもビクターの成果の一つ。私はビクターに育てられた」
「それは……どうなんだろうね?」
我が養父は苦笑を浮かべて肩をすくめよった。
子供らしく家族の心配をしてやったというのに 。
(まあ、茶番はいいや)
俺は調子を戻したビクターの背中をぽんぽんと叩く。
「ビクター、開けて」
彼は一つ頷いて、ぐっと大扉に力を込めた。すると扉はすっと開く。しっかり手入れをされていたのだろう、軋み一つ立てなかった。
「うっ、眩しい……!」
どうも『暗視眼』を発動させていたらしいホランが目を押さえて呻く。
たしかに意外な明るさが差し込んできて、俺も慌てて『暗視眼』を不活化させたところだった。それでも少し目を眩まされつつ、執事頭を抜いて向こう側へと一歩踏み入る。
「これは……」
「ん」
ビクター の呆然とした声。俺は内心でその驚きを共有する。
地下施設は目的から考えて、てっきり実験室のようなモノだと思っていた。細い廊下と複数の部屋からなる、アリの巣のようにこぢんまりとしたラボのようなものだと。
だが目の前に広がっていたのは、全く違うタイプの空間だったのだ。
「こんな巨大なドームが、屋敷の地下にあったなんてね」
彼はどうにかそんな言葉を絞り出した。
そう、確かにドームだ。ボウルを伏せたような大空洞。頑丈な石材を組み合わせて作ったアーチ構造の集合体を、同心円状に配置された柱が地上部諸共支える形で成り立っているのだろう。
(いや、建築的にはそこまでおかしなモノじゃないんだろうが、それでも……)
目の前のサイズ感には圧倒されてしまう。これくらい、熟練の『建築』系スキル持ちなら難なく作れてしまう程度のモノだと知っていても。
(それに、なんだこの内装)
ドームの立ち上がり部分は全てクリーム色の壁紙に覆われ、柱に取り付けられた魔道具から降り注ぐ燦々たる柔光を受けて、ここが地下とは思えない穏やかな広がりを演出している。
心安らぐウッド調のほのかな香りは各所に散りばめられた木製の家具からだろう。大型のクローゼット、食器棚、テーブルセット、ベッドに鏡台。どれもこれも色艶がいい。一目で有名な香木の類だと分かった。
灰と消えた屋敷の、金だけかけて適当に揃えましたみたいな三流成金とは、描く曲線の美しさが段違いだ。
足元を見ればこんな際まで毛足の短い赤の絨毯が敷き詰められていて、靴越しにも地下独特の詰まったような硬さは感じられない。端は見苦しくないよう真鍮の押さえで床に固定までされている。
(本館よりよほどちゃんとした貴族の家だ)
石がむき出しの天井以外、全てが一流の品で固められた上級貴族らしい空間。
ますますここが何の施設なのか分からなくなってくる。
「なんというか……いや、外にいるように温かいね。空気も爽やかだ」
一週回ってそれくらいしか言うことがないかのように、ビクターが小声で苦笑した。彼の口元はわずかに引き攣っている。
「あれとあれ、それにあれ。棚じゃない。環境系の魔道具がいくつも使われてる」
俺は点在する家具をいくつか指さして見せた。
中の見えないタイプの戸棚やえらく端の方に設置されているクローゼットは、香木のガワを被せた魔道具だ。耳を澄ませば低い駆動音のようなものが聞こえてくる。
「光は、太陽光を再現するタイプの魔道具ですね。私が言う事でもないでしょうが、あまり直視されませんように」
目頭を揉みながら言う執事頭に、俺は無言でヒールをかけてやる。
(しかし太陽光を再現する魔道具か)
灯り魔道具の方式にそういうものがあるのは知っていたが、あまり俺としては馴染みがない。日射の過酷なエクセララに夜まで太陽の顔を拝みたい奴はいないからな。
「本来は貴族の温室で使われる物だね。特に日照の少ない北方では重宝がられると聞くが、どうしてこんなところに?」
「吸血鬼対策とか?」
「そんな馬鹿な……いや、と、とりあえず真ん中まで行こうか」
「ん」
ビクターの提案に、俺たちはようやく足を動かし始めた。
遠目に眺めて困惑していても仕方がない。
(しかしまあ、家具はやっぱり一級品揃いだな)
背もたれの高い椅子の横を通り過ぎながら思う。
ここにあるのは俺の愛するフェルマー工房の作品ほどではないにしろ、いずれも一流の職人がスキルを振るったハイブランドの家具ばかりだ。
(だからか。余計に生活感がないというか、これではまるで)
「まるで舞台ですね」
「ん」
同じことを考えていたらしいホランの言葉に頷く。
さっきの椅子を含む立派なテーブルセットと食器棚は食卓の風景。あちらにあるのは鏡台といくつかのクローゼットで作られた化粧スペース。他にも書斎や談話室、寝室などを思わせる組み合わせがある。
壁に遮られない広々とした空間にそうした家具の組み合わせがポツン、ポツンと存在している様はまさに舞台上のセットのようだ。
(孤独な板に立って、お前は何を思ったんだ。アドニス)
顔を上げる。答える者のいない問いに応じるが如く、ドームの中央へと辿り着いた俺の前へぬっと聳えるガラスの柱。
これまでの洗練された調度品とは絶望的なまでに噛み合わない、無骨で大振りな物体はシリンダーだ。詰めれば人が三人は入れそうな、大きな大きなシリンダー。
「これはまた……随分と複雑な装置みたいだね」
やや驚き疲れたようにビクターが後ろ頭を掻く。彼が見ているのはガラスの柱ではなく、その根元を飲み込むように生える黒い箱の方だ。
黒鉄の筐体に収められた何かしらの魔道具。おそらくはコレの制御系だろう。それが大小合わせて二十個ほど。諸所のインジケーターやダイヤル、スイッチ、メーターを備えてはいるが、その一切が今となっては沈黙している。
死んだ機械が角を寄せ合ってごっちゃりかたまっている姿は、まるで深夜の新市街をやや大きめのジオラマにしたようだ。
「ん、確かに複雑。私も全部は理解できないくらい」
側面にスリットの入った一際大きな箱から伸びる、二本のとても太いパイプ。赤いラベルの付いた方がガラスの柱の土台に繋がり、青いラベルの方が筒に沿って天井へと這い上がっている。天井からも下にあるのと同じような装置群がわさわさ生えているので、これはおそらく溶液の循環に必要なものだろう。
あとはケーブルのいくつか、ボタンのいくつか、インジケーターのいくつかについてはなんとなく意味が察せられる。ただそれ以上は分からない。触ってみるか、あるいは分解してみないと。
「でも一つハッキリしている。アレのプロトタイプだ」
見覚えのある一連の装置群はトワリ謹製の生命維持装置だ。彼の砦で見たモノより数世代古いもののはずで、そのせいか記憶にあるよりも大型で雑然としている。だが俺の技術者としての目には、両者を結ぶ技術的な血筋のようなものがくっきり見えた。
「そうか、これが話にあった奥様の延命のための……」
「ど、どうやってこんなモノを地下に設置したというのですか」
「さあ」
よく目を凝らせば筒に一定の長さで継ぎ合わせたような、溶接の跡が見て取れる。持ち込んでここで組み上げたのだとしても、搬入路が別にあるのは確定だ。
「それに、遺体をどうしたのか」
「……そうだね」
装置の中には誰も、そして何も入っていない。遺体はおろか溶液も抜かれて空っぽだ。使われていた痕跡といえば、ほんのりと爽やかな香りが周囲に残っている程度。
コンコン。
俺は指で表面を叩いてみる。硝子は独特の歪みとムラのある、かなり厚手のものだ。中がよく見える程度には透明で、けれど反対側の景色は色とおおよその輪郭しか掴めない。
極めて質がいいかと言われれば微妙だが、その代わりに頑丈。そういう類の品である。
(耐久力もあって綺麗なガラスを用意するには金がなかったのか?いや、なかったのは時間かもしれないな)
セシリアが亡くなってからこの装置を完成させるまでに、どれくらいの猶予があったのかは俺には分からない。分かるのは、随分と急いで作業を進めたのだということだけだ。
(溶接部分が不必要に分厚いし、鋼材の重ね方も明らかに無駄がある。装置のレイアウトも二の次で、パイプやケーブルを繋ぐことを最優先したんだろう)
トワリの技術が洗練されていなかったという事ではない。正しい設計よりすぐに出来上がることを、整備性より頑丈さを重視しただけ。引き算の美学ではなく足し算の確実性、これはれっきとした思想だ。
(救おうとしたんだ)
セシリアの命をか、アドニスの心をか。どちらにせよあの狂人トワリは、これを造った瞬間は必至に救おうとしていたのだ。
彼女の『自己保全』なるスキルがどの程度、脳死状態に影響を与えるのか。そもそも脳死状態の人間が自然にどの程度生きられるのか。なんのデータもない中で……。
(そして俺がいる)
妙な巡り合わせだ。
時期からして俺とトレイスは脳死状態のセシリアの胎から生まれているはずで、それはつまりトワリのおかげで生まれてこられたとも捉えられるわけで。
「……ん?」
思考を纏めるべく硝子の表面を指でなぞっていると、ふと向こう側に見えるモノに違和感を覚える。白い何かがいくつも置かれているようなのだが、どうも輪郭的に家具には見えないのだ。
「お嬢様?」
「ビクター、来て」
「ビクター様、私は本棚の方を」
俺は装置から手を離し、裏側へとぐるっと回り込む。言われた通り、ビクターだけが付いてくる。果たしてそこにあった物とは。
「これは……アトリエ?」
「ん、みたい」
そう、アトリエだ。画家ノルス=ソディアクの、あるいはアドニス=ララ=オルクスの、貴族界を風靡する人気物の仕事場……と言えば聞こえはいいが、あるのは大きいが簡素な丸椅子と、それを取り囲むように並べられたいくつもかのイーゼル。あとは道具類の納められた素っ気ない木箱が二つ。それだけだった。
(でも、凄い数の絵だ)
イーゼルはどれも硝子の筒に背を向ける形で置かれており、絵の面は見えない。だが木箱に重ねて立てかけられたものや、椅子の後ろの乾燥棚に並べられたうちの数枚は見える。荒々しくも精緻な、ノルスの絵。アドニスの絵。
愛しい妻の傍ら、彼女のための部屋の片隅にかき集められた、たったこれだけがアドニス=ララ=オルクスの全てだ。装置の影にすっぽり収まってしまうような、そんな狭い空間だけが。
「……」
イーゼルが見えるよう、ビクターは椅子の側へと移動した。今度は俺がそれについて行く。
「この絵は ……?」
「私の母、セシリアじゃない?」
椅子の真正面に置かれたイーゼルには、大き目のキャンバスに描かれた女性の姿があった。白銀の髪と白い肌をしているが病弱な印象はなく、むしろキラキラと輝く不思議な絵の具の効果で溌溂として見える。
赤いドレスの裾を翻し、気の強そうな緑の目でこちらを捉える彼女は、初めてこの屋敷に来た俺にホランが見せてくれたセシリアの絵にそっくりだった。あちらはたしか青いドレスで、もう少し世間知らずそうにも見えたが……それでも間違いなく同じ女性だ。
「え、奥様?しかし奥様の髪は茶色だったはずだよ」
「んん……?」
それはおかしい。そう言おうと思った矢先、ビクターが別の絵を指さす。
「ほら、これもそうだろう?」
そこには安楽椅子に座る、お腹の大きなセシリアの姿が。確かに髪の色は茶色だ。
「……たしかに」
茶色い髪のセシリアは白い髪の彼女と違って、優しそうな表情を浮かべている。
(いや、しかし)
俺はキャンバスの横、木枠に布を留める鋲を兼ねて打たれた金色の銘板を見て、少し違うことが気になった。そこに刻まれた題名は「不安」となっていたのだ。
優しく微笑む妊婦の絵が「不安」とは、縁起でもないというかなんというか。言われてみれば家具や敷物の色調がえらく暗く、なんだか不穏なものを感じさせる絵ではある。
(そういうところは確かにアドニスっぽいな)
臨月の妻を美しく優しく描きつつも、心の中の昏いモノが視界を蝕んでいるような配色を選んだ。そこに自分のことを父と同様の化け物だと思っていた男の、大きすぎる恐れの一端が見える。
「それにこれもだ。こちらも。これと、これと、これも」
ビクターはイーゼルの上のモノも、そうでないモノも、一つ一つとって見せてくれる。
セシリアの思い出を辿る絵の数々。そこから見えてくる今生の母の像は、子供っぽくて少々激しい性格の女性というイメージだ。そしていずれも髪が茶色い。
しかし重ねて置かれた絵も含めれば、本当にすごい枚数が眠っているではないか。まとめてノルスの絵として売り払えば一体いくらになるのか、ちょっと考えてしまう。
(まあ、とてもそんな気になれないけどな)
俺は養父が薔薇園に立つセシリアの絵を退けたところでふと手を止めるのを見て、邪な計算を頭から追い出す。
「これ、は……私か?」
「ん、若いけどビクター」
ビクターが見ていた一枚に描かれていたのは若き日の彼自身と、よく似た年上の男が二人。片方は少し巻き毛で、もう片方は口髭を生やしている 。
「……兄さん」
わずかに目を見開き、我が養父は愛おしそうにつぶやいて口髭の男に指先を這わせた。
若くして死んだマクミレッツの長兄か。子爵家を継ぐはずだったという。
(それなら巻き毛の方はカールトン子爵家に婿入りした次兄だな)
言われてみれば似ている。そちらは元気に存命で、幼い頃に数度訊ねてきたので面識もあるのだ。ビクターより背は低いがガッチリした体の、気のいいおっさんだった。
「私が二十歳ぐらいの頃かな。四人で揃いのブローチをあつらえてもらってね。うん、下の兄さんが結婚する少し前だった」
記憶を呼び戻すように言葉を紡ぎながら、くしゃりと表情を崩すビクター。
「はは……家族の絵なんてケイサルにいくつでも残っているのにね。ここに彼の手で描かれた兄さんが、私たちがいることが……ああ、なんだか変な気分だよ」
彼が映っていた絵はそれだけではなかった。いや、彼だけではない。知った顔、知らない顔がいくつも描かれた、様々な情景がここには保管されている。
優しい絵は優しい色彩で、力強い絵は力強いタッチで。アドニスの油絵はどれも変幻自在の技法で仕上げられていた。
「これもビクター。こっちは私。風景、トニー、セシリア、私、知らない人、知らない人、知らない人」
「ぐす。ああもう、歳だね……その人はイオの前の料理長だよ、お嬢様。そっちは私も知らないが、次の人は若い頃のザムロ公爵閣下じゃないかな?」
「ん、たしかに面影がある。で最後は……また私?いや、男の子 ?」
俺とそっくりの顔で髪も同じ乳白色。ただ毛質は似ても似つかないほわほわのクセ毛。それに目の色は真っ赤で、魔力過多症であることが分かる。となれば考えられるのは……トレイスか?
恨みがましい目でこちらを睨みつける、俺とよく似た顔の少年。煮え立つような怒りが伝わってくるその赤い眼差しは、本当の彼を知っていれば想像もできないモノだが。
(ああ、そういうことか)
題名を見ると「面影」とある。自分が瀕死のままに領地へやったトレイスはきっと恨んでいるだろうと、先代を恨んでケイサルを去った自身と重ね、己の面影を投影してしまったのではないだろうか。たぶん。
「題名が端的過ぎて、意味が分かりづらい」
「それはそうだね。昔からそうだったよ」
「……ん、題名」
自分で言って、ふと思い至った。
俺は絵を割れ物でも扱うようにそっと元に戻し、発端である白髪のセシリアへ歩み寄る。
「どうかしたのかい?」
「髪色の話、題名がヒントになるかも」
絵の枠をぐるりと見ながらそう答える。
「ああ!」
言われてみれば、と納得顔でビクターも手伝い始めた。背の関係で担当は彼が上半分、俺が下半分だ。けれどそれらしき金属片は見当たらなかった。普通の鋲が打ってあるだけだ。
「ん……書き終わったまま置いてあるみたいだし、まだ題名がないのかも」
俺の言葉に男は首をはっきり横へやった。
「昔とルーティンが変わっていないなら、彼は描くものを決めて筆を執っていたはずだ。題名も決めておいて、どうしても噛み合わないなら付け直していたからね。だからどこかに……あ!これじゃないかな?」
周囲にまで目を走らせた彼は、すぐに木箱の縁に乗せられた銘版を見つける。用意だけしておいて、取り付けるのを忘れたのだろうか。そこにはただ「おはよう」とだけ、短く刻まれている。
「これが題名?」
「のようだね」
おはよう。いつかふと目が覚めて、その一言を言ってくれるのではないか……そんな淡い期待を抱き続けて男はこの二十年近くを過ごしたのだろうか。
「寂しいハナシ」
「そうだね、お嬢様。本当に、その通りだ」
なら白髪のセシリアは死にゆく彼女をそう表現しただけなのか。いや、きっとそうではないだろう。本当にその姿を見て書いているとしか思えない、何か説得力のようなものが「おはよう」からは感じられる。
一方、思い出を描いた絵の中の彼女は必ず茶色の髪をしている。雨の日のクヌギの幹を思わせる深くて落ち着いた色合い。これが生来の色であることはほぼ間違いない。
そもそもだ。すっかり忘れていたが、思えば白い髪とはレグムント家に連なる者の色だ。セシリアがそれを持っているというのは道理が合わない。
「装置かスキルか、延命の影響で色が抜けた?」
そう考えると、肌の色もほんのわずかに違う気がしてくる。日に焼けているとは言わないが、茶髪のセシリアは肌も健康的な色をしているのだ。
「その推測はアタリのようです、お嬢様」
俺 とビクターが無言で白皙の母を眺めていると、本棚を調べに行っていたホランが戻ってきてそう言った。彼の手には一冊の分厚い本が握られている。随分と使い込まれた様子の、草臥れた本だ。
「ご当主の日記を見つけました」
神妙な表情で、ホランはそう言った。
一響でございます。
旧年中は大変お世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
そんなわけで初更新です。
通常通りのスケジュールで、あと4話お送りする予定です。
その後についてはまた活動報告などで書こうかと思っています。
よろしく!!
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