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技神聖典―刀と少女と神の抒情詩―  作者: 一響 之
十三章 瀉炎の編
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十三章 第40話 復讐劇

 王都貴族街の一角に建つオルクス伯爵邸宅、その二階にある当主の執務室は、相変わらず誰が見てもそうと分かるほど歪な内装をしていた。

 机も椅子も、壁紙や本棚も、絨毯までもが適当に買い揃えたような、ただ高いだけの二流品。歴史ある伯爵家には似つかわしくない、他家の人間に見られれば恥となるようなモノばかり。

 けれど数点だけ飾られた絵画などの美術品は趣深く、それだけは素人の目にも本物と映る。そんな歪な部屋だ。


「年貢の納め時、か」


 ぽつりと呟いたのは部屋の主、アドニス=ララ=オルクス。金細工も麗々しい椅子に座した男は、人生最後と自ら心得る署名をたった今、書き終えたところである。

 ペンを置くその手は大きく、しかし色の悪い肌には筋が浮いていて、まるで病人のようだ。


「ふぅ」


 倦んだような息を吐いて伯爵は書類を丸め、加熱の魔道具から溶けた蝋を掬って数滴たらす。外してあった家紋の指輪で丁寧に封をすれば書類は完成、あとは蝋が冷めるのを待つだけである。


「……長かった」


 格式ばった羊皮紙を指で撫でながら吐き出したのは、心からの一言。一生分の疲れが滲み出た、まるで老人の最後の一息のような一言だった。

 事実、アドニスは疲れ切っていた。父との確執から継いだばかりの伯爵家を飛び出し二十余年。彼の人生は逃げることと、失ったモノにしがみ付くだけの日々であった。

 武門の名家としての責任から逃げ、苦痛の記憶から逃げ、民や家臣から逃げ、そして自分に手を差し伸べてくれたザムロ公爵ジョイアスや、当時生まれてすらいなかった二人の子供からすら逃げてしまった。

 そうしてしがみ付いた先が妻の亡骸と、どうせ逃げられないと分かっていた内なる怒りの感情だ。疲れるなという方が無理である。


「しかし、そうか……ふん、本当に逃げるばかりの人生だったな」


 一度自嘲を外に吐き出すと、なぜかアドニスは無性に笑いたくなってきて。


「ふ、ふふ、ふはは……ふははは……」


 力のない笑いが乾いた唇から零れ出る。

 滑稽で仕方がなかった。だがその笑いは自嘲を含みつつも、どこか晴れやかだ。


(これほど心穏やかな日が、くるとはな)


 もっとずっと若い頃、彼には自身の怒りを消そうと必死になった時期がある。

 心を静めるために冷水を浴び、瞑想し、聖書を読んで許しを学んだ。晩節を迎えた父や鬼籍に入っていた先代レグムント侯への恨みを捨て、全ては不甲斐ない己が悪いのだと、自戒を胸に刻もうとした。

 そう やってあの忌まわしいスキルが消えることを願ったが、朝起きて真っ先にステータスと念じて見ても、そこには必ず『怒り』の二文字があった。

 いつの頃だったか。彼は怒りを受け入れるしかないと知り、抵抗を止めた。それからずっとステータスは見ていない。代わりに元から好きだった絵に没頭した。感情を筆にゆだねている間だけは、心が安らかになったから。


(今とは真逆だ)


 今はもう、何もしていない時の方が穏やかで、空虚だった。まるで心の中の鬼が抜けてしまったようで、なにか激しいモノが胸の中にあるのを感じるのは、筆を握っているときだけ。そう、皮肉なことに絵を描いているときの方が心動いているのだ。

 どこまで逃げても手放したくなかった愛するセシリアの、その最後の(よすが)を喪ったほんの数日前からそんな調子だった。


(もし……)


 アドニスの脳裏にふとある考えが浮かぶ。

 ここで今からたった五文字の言葉を思い浮かべれば、神々の目でもって冷酷なまでに己の事が詳らかに記された、あの半透明の板を見てしまえば、決着がつくのではないか。何に、とは分からないが。何かしらに決着が。


「はは、ふはは……」


 しかし彼は、なおも壊れたように溢れる笑いに、その逡巡を溶かして吐き出す。


(……くだらないことだ。もう、どうだっていいのに)


 笑い声に含まれた自嘲の色が濃くなる。


(もはや未来などないのに、ここまで来て安らかさを手に入れたなど……)


 滑稽に過ぎる。こんなもの、笑わずにどうすることができようか。

 自分で自分を笑うよりマシなことが、他にあるだろうか。


「はは……まったく……こんな男、さっくりと死なせてくれれば楽なものを。それを、あの方は……ほんとうに……ほんとうに……」


 ありとあらゆる権力でもって自分を庇い立ててくれるであろう公爵の顔を思い出し、笑みの余韻が残る口元にアドニスは申し訳なさとも、悲しさとも、あるいは嬉しさともつかない曖昧な表情を浮かべた。

 アドニスがアドニスとしての一生に縛られるように、ザムロ公爵もまたジョイアス=カテリア=ザムロという一生に縛られている。だからきっと、もう止まらない。止まるには、もう遅すぎる。


 コンコン。


 怒りを一つも含まない感情は彼にとって新鮮なもの。その残滓を愛でるかのように、あるいは持て余すかのように、じっとしていた伯爵の耳をノックの音が打つ。

 彼はすぐに書類を机の引き出しに収めて指輪を填め直し、それから声を張り上げた 。


「入れ」

「失礼いたします」


 短い返事と共に入室したのは二人の騎士。鎧の上に濃い緑のサーコートを纏う彼らは、拘束期間中の護衛兼監視として法務局が寄越した者達だ。


「お前達か……時間か?」

「はい、閣下。お時間です」


 今宵、まさに今こうしている間にも、王家主導の大々的な違法奴隷商一斉摘発が実行に移されている。アドニスはこの一カ月ほど、その裏で内通者として協力しつつ、その事実を隠すためやや緩い蟄居を命じられていた。

 だがそれも終わりだ。一大作戦が実行に移されてそれなりの時間が経過した。これ以上はコソコソ屋敷に籠っておく必要もないし、匿われる理由もない。


「こちらが令状になります」


 騎士がそっと一枚の書状を机に置く。法務大臣の判と国王の玉璽が押された上級貴族の逮捕状だ。

 アドニスはこれから逮捕される。屋敷の門を潜った瞬間、護衛だった騎士たちの手によって。そして王宮へと連行され、裁かれるのだ。人狩りから不運な人間を大勢買い取り、悲惨な末路を辿ると知りつつ売り捌いていた違法奴隷商に出資した極悪人として。


「では、そろそろ参りましょう」

「大臣閣下がお待ちです」

「そうだな……」


 立ち上がったアドニスの声が、二十年余りを過ごしてきた執務室に冷たく響く。


「ああ、そうだな……」


 大きな手で机の表面を撫で、もう一度、今度はもっと小さい声で彼は繰り返した。


「身の回りの物は、本当にこれだけでよろしかったでしょうか?」


 騎士の一人が聞く。彼の手には小さなバッグが一つだけ握られていた。

 伯爵が拘留されるに際し用意した荷物はそれだけ。


「ああ、構わん。迷惑をかける」

「い、いえ。その……ご希望されるなら絵も何点か持ち出せますが」


 躊躇いがちな提案にアドニスは首を横へやる。


「いい。あれは、あれらは、ここにあるべきだ」

「そうでしたか。失礼しました」

「いや……ありがとう」


 ここ一カ月ほど寝食を共にしたからか、妻を喪って萎むように衰えた姿ばかり見ているからか、二人は伯爵をそれなりの人物として扱ってくれている。側にいて画家としての腕前を目にしていることも、一つの要素かもしれない。


 ごぉん……ごぉん……ごぉん……。


 王城の鐘楼から時告げの鐘の荘厳な音色が聞こえてきた。

 騎士との穏やかなやり取りを最後に、男の日常は終わりを迎えたのだ。


「では閣下」

「うむ」


 もう一人に促され、アドニスは頷く。


(さらばだ。もう二度と帰ってくることはあるまい)


 人生の半分を閉じこもってきた部屋。多くの敵を持ち、多くの恨みを買い、心の内にも敵対者を抱えて生きてきた彼にとって、ここは数少ない安全な場所だった。

 しかし同時にここは長年の怒りと寂寥と、捨てきれない夢と……様々な未練に縛り付けられて過ごした牢獄のような場所でもある。

 道を失って以降の歪みに歪んだアドニスという男の半生が詰まった執務室を、今ようやく後にする。

 感慨と言うには虚ろな、しかし無心というには尾を引く感情に支配され、小太りの男が踵を返した時だった。


 ドォン……ッ!!


「!?」


 遠くで爆発の音がした。窓ガラスがビリビリと震え、軽い衝撃と揺れが三人を襲う。

 それでも騎士は動揺することなく、咄嗟に伯爵と窓の間に割って入った。


「下がってください、閣下!」


 男たちが睨みつけた先、空の彼方には……美しい紫の火炎が広がっていた。


「あれは」


 まるで花火のように夜空を明々と照らしだす炎。

 あれほど高貴な色彩の火をアドニスは見たことがなかった。

 見たことがないにも関わらず、それでも彼は一つの確信を得ていた。


「あそこに、いるのか……」


 国王の用意した話し合いの席で、彼女(・・)は今回の戦いに参加しないと言った。

 だが、しているのだ。あの炎は紛れもなく……。


(そうだ。一度くらいは……最後に一度くらいは……)


 疲弊し、諦めを宿していた男の胸に、願いが生まれた。

 突然の感情。しかしそれは一度生まれてしまった以上、もう止まらないものだった。


「閣下、作戦が予想外の展開を辿っているようです。王宮ではなく先にザムロ公爵邸へ寄りましょう。護送の人員を増強した上で……」

「……すまん」

「は?」


 騎士が退室を迫ろうとしたとき、男は本棚に飛びついて飾ってあった贈答品のペーパーナイフを手にしていた。


「なにを!?」

「おやめください!」


 抵抗する気かと身構える騎士たち。だが彼らの予想に反し、黄金色の刃を伯爵は己の白い手袋に突き立てた。刃が貫通するほど深い一撃に血が噴き出す。


「ぐ、うぅ……ッ!」


 アドニスは奥歯を噛み締め悲鳴を殺す。そして突然の自傷行為に驚愕する二人へめがけ、だくだくと溢れる血を投げつけた。

 騎士たちの鎧へ飛び散る血液。金属の表面に弾かれ、サーコートを汚すそれが……ボッと音をたてて発火した。


「な、うわっ!?」

「熱ッ!!」


 魔法使いではない伯爵から浴びせられた、火炎という完全に想定外の攻撃。騎士たちは中途半端にアドニスを知るからこそ、その戦闘力を限りなく低く見積もっていた。そのような選択肢が彼にあることを考えられなかった。

 血液から吹き上がる炎の勢いは不自然に強く、すぐさま業火となって彼らを包み込む。あっというまに煤になるサーコートと、熱に負けて歪み、白熱して溶ける端から灰になっていく鎧。


「た、助けてくれ!助けてくれぇ!!」

「熱い!熱い!熱いぃ!!」


 火だるまになった男たちが悲鳴とともに絨毯へ倒れ転げまわる。なんとか消そうとしてのその行為は、けれど火の手を周囲に広げる結果となった。


(すまない!許してくれ、すまない!!)


 急転直下の地獄絵図。それを後目に伯爵は部屋を飛び出す。

 颯爽と、などとサマになる逃げ方ではない。転がるように、転ばないギリギリの急ぎ足で、ただただ不格好に、必死に逃げる。


「ぐ、くっ、うぅ……!」


 なおも傷口から溢れる血が廊下を燃やし、あっという間に炎は屋敷へ飛び火していく。

 裏口から燃える邸宅を脱した伯爵は、己のアトリエを目指して走った。

 その地下には隠し通路があるのだ。富裕街へと一路、真っ直ぐに繋がる隠し通路が。


「私は……私は……ッ」


 敬愛する公爵の期待を最後まで裏切る後ろめたさに苛まれつつ、それでも男は走った。

 夢のその先を、ただ一つの願いの結末を、一目見るために。


 ~★~


「ダルザ……ダルザッ……ダルザァアアアアアアアアアッ!!!!」


 大通りへ立つ妖艶な男。その笑みを認めるなり極大の紅蓮を放った俺は、直後に己の愚行に青褪めた。


(ま、拙い!?拙い拙い拙いっ!!)


 小屋ほどに膨れ上がる鬼力混じりの巨大な火球。それを閑静な富裕街の大通りに叩き込めばどうなるか。

 爆発力は一帯を薙ぎ払い、石造りの建物は瓦礫の波となって周囲を襲うだろう。正面に並ぶ店はもとより、水神神殿や民家にもひどい被害が出るに違いない。


「グ、ぐゥぬううウウ」


 空中で身を捻る。夜闇の中でこの体を縛るものはない。塔から俺を引きずり出した謎の力は、もう消えていた。


『俺を利用したと言ったが、まるっきり制御できているワケじゃなさそうだなぁ?』

「うルさいッ!!」


 楽しそうに囁く悪鬼に怒鳴り返し、やるべきことを頭の中で組み立てる。


(被害は、出させないっ!)


 右手を開き、左の爪を傷口に突き立てる。べっ甲色に輝く獣爪めいたそれは、見た目に違わぬ鋭さで塞がりかけた傷を深くえぐった。瞬時にどばっと血が溢れ出る。


「我ガ色を湛えル炎ヨ!」


 血液が燃え上がる。若紫の炎、それは火焔の形をとった技術神の力そのもの。

 エクセルという神の担う奇跡、その影たる炎が着弾寸前の火球に流れ込んだ。


「神ノ名ニおいテ、喰ラい尽くセッ!!」


 巨大な魔法の全てがエクセルの貴色に染まり……炸裂した。


 ドッ…ガァンッッッ!!!


 幻想的な淡い色の炎が強烈な光と共に大通りを満たす。それは業々と音を立てて細い通路へも雪崩れ込み、四方八方を美しい輝きでもって焼き払った。

 衝撃波で窓と言う窓が割れ、無数の屋根瓦が引き剝がされて宙を舞い、壁も古く脆い所からビスケットのように砕けて吹き攫われ……いつもつんと澄ましたような富裕街の一角は、完全に破壊の嵐に飲み込まれてしまった。

 その爆炎の只中へ俺は落下する。


「火ヨ……!」


 再びの爆発。しかし今度は制御に成功する。俺が小爆発を緩衝材に荒々しく着地するのを待っていたように、紫の炎は煙のように空気へ解けて、揺らめき消えた。


「ハァ、ハァ、ハァ……ッ」


 鬼面の下で乱れた呼吸を繰り返しながら、俺は周囲をぐるりと見まわした。

 大通りの建物には焦げ跡が斑に刻まれ、窓ガラスや花壇、看板、テント、洒落た鎧戸や雨どいといったあらゆる装飾が失われていた。だがそれだけだ。

 いや、おそらく窓は周囲数百メートルに及んで粉砕され、壁材など建物本体にも少なくないダメージが行っているのだろう。瓦も剥がれていたとこだし。

 だが見える範囲に、聞こえる範囲に、倒壊したものは一軒としてない。痛みや悲しみに上げられる慟哭も、やはりない。


「……ナんトカ、なッタか」


 安堵に浅い息を吐く。


『ああ、なんとかな。クハハ、だがあわや大惨事だ。分かっただろう?怒りをまるっきり制御できるなんてのは、人間の思い上がりだぜ』


 嘲笑う悪鬼。その忌まわしい声を無視し、もう一度深々と息を吐き切った。

 全身を支配しかけた激情が、その息に乗って体の外へと排出されていく。そんなイメージを抱いたときだった。


 パチパチパチ……。


 背後から聞こえてきた呑気な拍手に、俺はすぐさま振り向いた。

 そこに居たのは無傷のダルザ。火傷一つ負った様子なく、隻腕の女装家は左の鎖骨当りを叩いて器用に拍手の音を立てている。


「流石は技術神の使徒サマねぇ」


 ルージュの引かれた艶めく唇が、細く笑みの形に変わる。


「感心しちゃうわ。あんな差し迫った状況から、それも火属性を聖属性に組み替えるだなんて。神炎は邪悪だけを焼くから、実害が少ないと思ったんでしょう?でも発動後の魔法を、属性をまたいで変更なんて……っと!」


 踏み込んだ俺はペラペラと喋る男を紙一重で切り損ねる。

 バックステップで抜刀の一撃を避けた奴は、そのまま空中でギュッという音を残し後ろに加速。大通りの宙を滑るように距離をあける。


「逃ガすカ……!」

「あら怖いお面だと思ってたけど声も怖い!アタシは前のアンタの方が好きよ?」

「黙レ!」


 ふざけたことを言いながら空を飛ぶ敵に、俺は鬼力の雷を爆発させて一気に食らいついた。


「ちょっ、速いわねぇ!?」


 掬い上げるような軌道で放つ勢い頼みの二の太刀。

 ダルザは慌てつつも右手を広げ、指を複雑に躍らせる。


 ビン!ビビン!ビンビンビン!


 奇妙な音色が耳を打つ鳴り、三方から殺気が襲い掛かる。


「チッ!」


 嫌な予感を覚えて腰を落とし、突進の勢いをブーツとべっ甲色の蹴爪に任せる。石畳を踏み砕いて停止した俺の鼻先で、慣性に従い前に出た白髪が数本ぷつりと切れた。そのまま後ろへ跳ねれば、立っていた場所の割れた石畳みにザッと鋭い傷が刻まれる。


「勘がいいのねぇ!」


 俺が退くと同時に逃げるのを止めた彼は指を二本そろえて刀印にし、斬りつけるようにひゅっと振り抜く。

 彼我の距離は俺の跳躍によって五十メートルほど離れていたが、雨狩綱平の刃を天に向けて振り上げれば、何かと切り結んだような感触が一合だけ生じた。

 確かに刃の一振りを凌いだ実感。けれど殺気はそれで終わらない。


 ビン!ビン!ビビビビン!

 ザン!ザン!ザザザザン!


 鳴り響く音と同じだけ繰り出される不可視の斬撃。背筋に走る寒気に応じる様に、鬼面が顔に吸い付くような感覚がした。とたん、五感が一層クリアになる。

 解像度の上がった音と直観を頼みに体を捌いて回避し、殺気の空白地帯を搔い潜って前へと飛び出す。


「んふっ、アグレッシブぅ!」

「くタばレ!」


 踊る指先。密度を増す殺意の軌道。面により補強された戦士としての嗅覚だけで、繰り出される斬撃を潜り進む。

 躱し切れなかった攻撃が頬を裂き、手足の鎧の表面を削ぎ、それでも足を止めない俺はすぐに奴を間合いへ捉えた。


「掛ったわねぇ!!」


 今度こそ当てる。そのために下がる余地のないほど、一歩大きく前へ出ての弧月。横薙ぎの斬撃を、しかし奴は真上に飛び上がって回避した。


「チッ!!」


 まるで重力が上に生じたような、頭上へ落下するような趣での移動。さすがにそんな動きをされては捉えられない。

 空を切った俺の剣へ、今度は何かがギュギュッと絡みつく感触がした。


「綺麗に咲いて頂戴な、アクセラ=ラナ=オルクス!」

「グ・・・・・!?」


 体が動かない。その異変に気付いた俺は、針で刺されたようなかすかな痛みを全身で感じ取る。

 べっ甲色の鎧などお構いなしに、制服に赤い染みがポツポツと浮かぶ。それはまるで塔から投げ出されたときのようで。


花開きなさい(ブリューエン)……!」


(拙ッ!!)


 雨狩綱平に鬼力を流す。濃橙色の雷が刃を走り行き、切れ味が一段と増し、絡みつく感触がその圧力から自ずと切断される。すぐさま解放された綱平を引き戻し、ぐるりと回して俺は周囲の空間を薙ぎ払った。


 ブツブツブツ……!


 やはり何かを切る感触があって、体の戒めも消える。ただし、さすがに全てを切り払う時間はなかった。

 ばらりと、右腕の肉がらせん状に開いた。骨から切り離しつつも斬り落とさないような、まるで食肉を盛り付けのために美しく飾り斬りするかのように。


「がぁっ、ぅぐうううううっ」


 俺は喉から溢れ出る絶叫を奥歯で噛み潰した。

 水瓶でも割ったかのように大量の血が石畳にぶちまけられ、刀が手から落ちる。神経も筋肉も血管も滅茶苦茶に破壊され、骨が夜天光のもとへ露出し、五指がカクカクと勝手に痙攣を繰り返す。


「ぐっ、ふぅ、ふぅ、ふぅ……!!」


 肘から手首までが解体され、体が外へ開かれる痛み。鬼面による感覚拡張は痛覚にも及ぶのか、それは転生して以降に味わった痛みの中でも五指に入る激痛だった。

 頭がチカチカし、意識が急激に下がった血圧にもっていかれそうになる。それでも、全身に脂汗を掻きつつ、俺は意識を血液に集中させる。


「我ガ色を、湛えル、炎ヨ……!」


 心臓の拍動が直に伝わるほど激しく流れ出る血液が、音を立てて燃え上がった。

 眩く爆ぜるこの世のモノならざる神炎。俺の意思を、いや、本能的な欲求を映すその奇跡の焔に包まれると、すぐさま腕が元通りに再生していく 。


「しぶといわねぇ。それに鬼雷(きらい)まで使いこなしちゃって……もしかして使徒の力と相性がいいのかしら?ああもう、手札が多くて妬けちゃうわぁ!」


 鬼雷。それがこのべっ甲色の雷の名前らしい。

 随分と鬼力について詳しいようだが、丁寧に教えてくれるつもりはないだろう。

 俺も聞く気はないからどうだっていいことだが。


「じゃあ……これでどうかしら!!」


 頭上から声と殺気が落ちてくる。俺は路面を転がって刀を拾いつつ回避。石畳をピシピシと不可視の攻撃が貫き、そこを起点にズビン!とこちらへ斬撃が走った。

 地面を蹴る勢いで立ち上がりつつ後退。魔道具式の街灯の横をすり抜け下がると、目の前で金属製のポールが真っ二つに引き裂かれる。

 が、それだけでは終わらない。真後ろ、至近距離で風が揺れた 。


「!!」


 切り落とせない。振り向いた瞬間、そう直感した俺は両腕を交差させ、攻撃を受けた。べっ甲色の鎧を冷めきらない飴細工のように切断する不可視の刃。ざっくりと肉を裂き、骨まで深々と食い込んでソレは止まった。


「んん!?ちょっと、腕の二つ三つは切り落とす勢いなんだけどぉ!!」


 聖刻による骨格強度の増強がなければそうだったろう。鬼雷の鎧は、半実体の見かけ通りあまり頑丈ではない。


「ヨウやク、捕マエた……!」


 俺は血のだらだらと流れる腕をぐるりと回し、腕に食い込む見えざる刃を絡めとる。

 否、それは刃ではない。糸だ。こうして捕まえても赤銅色のきらめきが見えるか見えないかという、異様に細い、そのくせ強化した筋力でも千切れない、そんな特別製の糸。


(魔力が見えないから操作はスキル依存……そうか、『鋼糸奏者』か!)


 エクセルだった頃にも二度だけ戦ったことのある、極めて厄介なレアジョブだ。意思のままに金属製の糸を操り戦うスキルで、高い隠密性と異常なまでの殺傷能力を併せ持つ。

 神眼に映らず俺の気配察知にもほぼかからないため、『鬼化』と感覚を広げる鬼面がなければ回避すら危うかった。


「やぁん、もうバレちゃった。で?捕まえたからって何ができるわけでもないでしょう?」


 空中に立つダルザが笑う。建物と建物の間に張り巡らせた糸の上に足を置いているらしい。


「っていうかそんな風に持っていいのかしら、指が跳ぶわよ。なんたって切れ味抜群のヴルフラームスパイダーの糸だもの」


 ビン!


 彼は言うなり、俺が掴んだ糸を人差し指の一振りで締め上げた。

 手の肉に食い込む糸の刃。しかしそれが皮膚を破るより先に俺は刀で纏めて薙いだ。容易く斬れる感触があり、指にかかる圧力は消える。


「嗚呼……確カに、よク斬れルナ」

「……はっ、下手な煽りだこと」


 ダルザの笑みに冷たいものが混じる。


「まあいいわ。どうせこれしきの事でアンタを殺せるとはアタシも思ってないもの」

「正シい……認識ダ……ぐっ」


 頭の奥で何かが疼く。血の滴る手を首元、面に覆われていない肌に当てる。


(熱い)


 体が異様に熱くなっていることに、俺は今更ながら気が付いた。

 悪鬼が静かにしているからといって『鬼化』が落ち着いているわけではないのだ。

 怒りを制御できるというのは、人間の傲慢。奴の言葉が脳裏に木霊する。


(このままだと拙い……もうあんな暴発は、許すわけにいかない……)


 時間経過とともに野放図な拡張と強化を施されていく感覚は、周囲数百メートルの気配を片端から拾って俺の頭に叩き込んでくる。だからこそ分かる。大通りの建物はほぼ無人だが、その向こうは違うのだと。逃げ遅れた人間が、まだまだいるのだ。


(そりゃあそうか。作戦は極秘だったし、俺がここに落ちて来てからまだ五分と経っていない。衛兵は……ああ、向かってきてはいるが、動きが遅いな)


 もしここで暴走すれば、何の罪もない富裕街の人間を大勢巻き込んでしまう。それだけはなんとしても避けなくてはいけない。


「んふふ、生意気なのが言葉だけでないといいわね。なにせアタシの舞台はここからが本番だもの!」


 熱に喘ぐ俺を見下ろしたまま、ばっと手を開くダルザ。相変わらず魔力は感じられないが、一瞬だけ、赤銅色のスキルの光が糸を伝って全方位に散らばった。


(このまま戦うのは、まずい……ちっ)


 大技がくる。その直感に従い、俺は自分の主義を一つ曲げることにする。


「ダルザ……ナゼだ……?」

「あん?」


 俺の投じたシンプルな問いに、工作員が眉を寄せた。


「んん、何か言ったかしら?まさか命乞いとか、興醒めなコトしないわよね?ああ、辞世の句とかなら書き留めてあげても……」

「違ウ。ナゼ、戦うノカ……そレを聞キタい」


 面の下で煮え立つような息をゆるゆると吐き出し、もう一度質問を投げかける。

 すると細く整えられたヤツの眉が意外そうに跳ね上がった。


「え、動機ってこと?アタシの?あら、あらあらあら……ここまで来てお喋りに興じるタイプだとは思ってなかったわね」


 返ってきたのはそんな言葉。挑発的だが、実際かなり驚いているのが声音で分かる。


「……コレかラ斬る相手ノ……心中ヲ、少し聞コウと、思っタ……だケ」

「はっ、馬鹿仰い」


 重ねたこちらの言い分に、ダルザは一転して嘲笑をぶつけてくる。


「アタシはこの半年、ずっとアンタを分析してきた。だからアンタがアタシみたいな相手におセンチかますタマじゃないことくらい、よぉくよく知ってるわ。特にこういう場面ではね。となると目的は何?ベタなのは時間稼ぎかしら?」

「……」


 俺は答えない。それが何より雄弁な返事だったとしても。

 代わりにゆっくりと呼吸を駆息から制息へ切り替え、体内のボルテージを下げにかかる。


「ふぅん。優勢だと思っていてなお時間稼ぎねぇ。援軍を期待して、じゃなさそう。なら……ああ、『鬼化』を抑え込むための時間が欲しいのね?」

「……チッ」


 さすが俺より『鬼化』や鬼力に詳しいらしいダルザ、こちらの浅い思惑をすぐに見抜いて来た。


「言ったでしょう、分析してきたって。今のところ上手い具合に使いこなして見えるけど、アンタさっきから戦い方に躊躇いがあるわよ」


 舌打ちを聞いて奴は隻腕の指を頬にあて、嫣然と喜色を露わにする。


「第一フェーズだったかしら、最初にやらかしたのは。あのときや、さっきオトモダチを助けに行ったときみたいな、『鬼化』の出力ありきの力強さがない。言い換えるならいつも通りの戦い方に無理して拘ってるってワケ。使えるモノはなんでも使う主義のアンタがね。らしくない戦い方だわぁ……ミスって街を吹っ飛ばしかけたのが、そんなに怖かったの?」


 クスクスと忍び笑いが夜風に混じる。しかしダルザはというと、なぜかあっさり手を下ろしてみせた。


「まあいいわ、乗ってあげる。幕間には丁度いい頃だもの、お互い少し休憩といきましょう」

「ナニを、考エテいル……?」

「さぁ、なにかしら。んふふ」


 彼は本当に休憩でもするように、見えざる糸にゆったり腰掛けてみせた。すらりと長い脚を組む姿にはありありとした余裕が浮かぶ。

 どこまでも上から目線の態度だが、苛立ちよりも意図が読めない気持ち悪さが際立つ。


「で、動機よねぇ?これは言ったと思うけれど、アンタが憎いの。ゼーゼルの仇だもの、当然よ。だから徹底的に、容赦なく、尊厳を叩き潰した上で、その命を摘み取ってあげる」

「ゼー、ゼル……」


 俺を殺そうとして暗躍するも、魔獣・灰狼君の目覚めによって死んだ貴族風の男だったか。幼少期に発生した誘拐事件の主犯の。

 たしかにそれは聞かされているが、見当違いの嫌疑だと何度も主張している話題である。


「オイ。アの男ハ」

「アンタが殺してないって言いたいんでしょ?聞いたわ。でも、それも言ったじゃない。どうでもいいことだって……アタシの動機が聞きたいなら黙って聞きなさいな。わざわざそっちの思惑に乗ってあげてるんだから」

「……んぅ」


 足を組み替えて尊大に呆れて見せるテロリスト。

 俺はひとまず口を噤み、肌に刻まれた雷へと意識を向ける。『鬼化』の段階が上がるとともに浸食の範囲を増していくコレは、きっとよくないものだから。


「お察しの通り、アタシたちはジントハイムの工作員よ。まあ、アタシはもともと研究員だし、どっちにしろもう止めちゃったけど」


 隻腕でごそごそとポケットを漁った彼は何かをこちらに投げてよこした。

 俺の目の前に落下したそれは魔物革のキーホルダーのようなもので、拳とその甲に描かれた歯車の図案が刻印されている。


(琥珀の歯車、だったか)


 目の前の工作員がスプリートで初めて相対したときに口にし、後にネンスからジントハイム公国内に実在する組織だと教えられたその名前。


(研究員……やはり)


 エクセララの技術の象徴が刀なら、格闘家であったアディナが開祖となる彼らの技術は拳に象徴されるのだろう。そして歯車も同じく技術を思わせるモノであり、つまり「琥珀の歯車」とは研究機関なのだ。


「ゼーゼルはアタシの前任を務めていたわ。最後の仕事は実験中の魂熟薬……あの頃は湖楽って呼んでたかしら?その流通とデータ収集。で、その最中、製造と流通を丸ごと吹っ飛ばす事件がおきた。分かるわね?」

「……薬師マルコス=ルンベリーを、私タチガ、捕まエタ」

「そ、正解」


 記念すべき俺とエレナの初依頼主であり、初手柄の犯人でもあった愚かな男だ。

 ケイシリル沼地の毒性植物からあのおぞましい薬を作っていた。


「ゼーゼルは発端であるアンタたちを始末して流通経路を担っていた裏社会に示しをつけようとしたわ。当時は根を張れていた層がヤク絡みの連中だけだったから、軽んじられると諜報や今後の活動にも影響すると危惧したのね」


 それが俺たちの誘拐事件の背景か。今さら興味もないが。


「あとはアンタも知っての通り。彼は魔獣に襲われて死んだ」

「……把握シテ、イたノ?」

「ええ、バッチリね。必死になってあれこれ調べたもの。おかげで人脈もぐっと深まった。恋心ってすごいわよねぇ」


 あっさりと俺のせいではないことを認め、けらけらとおどけてみせるダルザ。

 しかしその目は笑ってなどいない。冬の湖の、切りつけるような冷たさを湛えている。片時も変わらず、ずっとだ。


「アンタが起こした問題を解決しにいって死んだんだから、アンタのせいみたいなモンよ。少なくともアタシはそう考えることにした」


 断固たる口調で言い切るその台詞には、断固たる意志が込められていた。


(こいつ……)


 とんだ 暴論、逆恨みの類だ。そうは思うが、それが錯乱の結果ではなく明確な意志の基に下された逆恨みであるなら、もうどうにもならない。奴が言った通り、自身でそうと決めているのだから、理屈で覆せるわけがない。


「迷惑な、ヤツ……」

「んふふ。さぁ、ここまでで嫌というほど分ったでしょうけど、もう一度今夜の演目を確認しておきましょう。そう、コレは復讐劇よ。一世一代、愛憎の全てを賭けた復讐劇」


 そこで一度区切った彼は、赤い舌で赤い唇をちろりと舐めた。


「嗚呼っ!」


 突如として声を張り上げ、ダルザは隻腕を勢いよく天へと伸ばす。


「故国の政治と技術に革新をと立ち上がった偉大なる軍人ゼーゼル=フォン=グラハイト!しかし彼は遠く離れた異国で凶刃に見舞われ、志半ばに散った!!」


 まさしく芝居がかった台詞が夜の戦場に反響する。

 一帯に息を潜める全ての人間を観客と見做すように。


「その無念を晴らすのは恋人であり、彼に見出された者であるアタシ……ダルザ=フォン=オベールを置いて他にはいないわ!亡骸すらない彼に弔いを捧げるため、そしてこの悲恋を克服するため、アタシは仇に挑んでいく!!」


 糸の上から長い脚を跳ねさせて腰を上げ、大舞台の主演になったような口上を歌い、万感の思いをかみしめるように胸元を押さえてみせるテロリスト。

 妖しくも美しい化粧の施された精悍な顔に笑みが浮かぶ。単なる陶酔とは似て非なる激情を含んだ、凄絶な笑みだ。


「ソウいウ、筋書カ……くだラなイ」

「ふふ」


 ぐっと、場に伸し掛かる圧が高まった。


「さあさあ、敵役の準備は済んだかしら?幕間のお喋りはもうおしまい、主役はバッチリ、鋼糸(オーケストラ)もスタンバイしてるわ。愛の復讐劇(ヴェンデッタ)の第二幕と洒落こみましょうよ?」

「……アァ」


 その言葉に俺は綱平を構え直した。たしかにインターバルはもう十分だ。

 内側で蠢く『鬼化』の息遣いは最初に比べると随分ささやかなものになってきている。

 神炎と鬼雷を纏わせると、海色の刀に神経が通ったような感覚が生じた。


「ねぇ、アクセラ=ラナ=オルクス」

「……」


 俺の闘志を受け、一転して甘く感じるほどに語気を落としたダルザ。

 俺はただ目を細め、次の動きを注視する。


「アンタはスプリートで顔を合わせたときからずっと、ずっと、ずーっと、殺し殺されの状況でも酷く冷静ね。顔色一つ変えないで、まるで血が通ってないみたい」

「……ヤカまシい」


 自分から再開を宣言しておきながらベラベラ喋る。それはまるで除幕の口上を述べる狂言回しのようで、迫りくる新たな展開を予感させた。


「丁度そう、今もそんな顔をしているわ。自分が一番上だと思ってるような、状況のコントロールを握っているような、傲慢なツラ……んふふ、見てみたいわよねえ。アンタが顔を真っ赤にして、感情を剥き出しにして、怒り狂ってる無様なところ」


 楽しそうに舌が動き続け、戯言に合わせて隻腕がゆらりと掲げられた。

 初めてそこに魔力が灯る。奴の唇と同じ鮮やかな紅色の魔力。手のひらから、マニキュアの塗られた指先へ、そして鋼糸へ伝わっていく 。


「アタシはアンタの尊厳を踏みにじりたい。でもそのためには尊厳を、そのクソムカつくお澄まし顔を取り戻してもらわないと、踏みにじり甲斐がない。それが休憩につきあった理由よ」

「何ヲ、言ッテいル……?」

「言ったじゃない。日取りも全部アンタへの嫌がらせだって。アンタが一番苦痛に思うのは何かって考えれば、おのずと答えは出てくるわ」


 俺の問いに正面からは答えず、奴の目玉が焦げた富裕街を視線で舐めていく。


「アンタほどの達人ならもう気づいているわよね?まだ結構な逃げ遅れがこの辺りに居ることも、トロ臭い衛兵どもがせっせと集まってきていることも」

「……まサカ」


 まるで獲物を品定めする肉食獣のような眼差しと、それにその勿体ぶった言い方。俺は背筋がぞっと冷えるのを感じた。


「アンタにはもっと怒ってほしいの。それこそ、取り返しのつかないラインを越えるくらいに……知ってるかしら?『鬼化』って第七段階を過ぎると心を鬼に食われるのよ」

「よセッ!!」


 ダルザの台詞に耳を貸す余裕などない。最悪の想像に、未来予想に、俺は力強く踏み込んだ。

 路面を割って奴のもとへと飛び込み、隻腕を切り落とすべく刀を下段から救い上げ……ようとしたその時。


 びんっ!


「グっ!?」


 動きが止まった。手足に走る細い痛み。鋭いが無視できないほどではない。なのに、走る姿のまま俺はその場に縫い留められる。


(これ、は!)


 すぐに理解する。見えない糸が無数に巻き付き、服を破り、肉へ食い込み、そのまま骨まで絡みついて俺を縛っているのだ。


「ぐ、グゥ……ッ!」


 力を込めて無理やり動こうとすれば糸は引き千切れる。だが切れても切れても新しいものが巻き付いて来て、拘束は重くなっていくばかりだ。


「見えなかったでしょう?アタシが糸を張り続けているの、その綺麗な真鍮色の目でも」


 もう三歩。もう三歩あれば届く。その距離で赤い唇がニィっと吊り上がった。


「ヤメろッ!!」

「やぁめなーい。繰血奏糸・忙しい処刑人(ビシャフティヒ・ヘンカー)


 俺の咆哮を味わうように、これまでで最も嗜虐性に富んだ笑みを浮かべるダルザ。

 奴はこれ見よがしに赤いマニキュアの輝く五指を、ギュッと折り畳んだ。


 ギュィびぃイイイィイィイィイン!!!!


 赤銅色のスキル光と鮮紅色の魔力が再び全方位に伝播し、街一帯を震えあがらせる様な強烈な音が奏でられる。


「あ……」


 鬼面により拡張された鋭敏すぎる感覚は、周囲の気配を余さず拾ってしまう。

 それが突然、ぷつりと途絶えた。知覚できる範囲にあるほとんどの気配が、一斉に。


「アぁ……」


 仕事で残っていた商人たちが、夕食を取りに出ていた住民が、逃げ遅れたその人たちを救うために動き出した衛兵たちが、建物の影で縮こまっていた犬猫までもが……不可視の糸により命の灯火を吹き消された。それが分かる。分かってしまう。


「アぁ……アアあ……アアアァ……ッ!」

「そして、繰血奏糸・紅の監獄(ロート・ゲフェングニス)!」


 唇をわななかせる俺の目に、三つ目の赤が浮かんだ。

 それは四方八方から、街中から、ダルザ目掛けて伸びていく濃い赤の線。


 ヴ、ヴ、ヴ、ヴ……ッ。


 邪悪な生物の鼓動のようなおぞましい振動音とともに増えていく。増えていく。赤い線が増えていく。十本、百本、千本と。


「ぅんー、これだけ一気に刈り取ると爽快感あるわぁ」


 嬉しそうに奴は隻腕を広げ、鼻歌でも歌いそうな声色で息を吐いた。

 線は全て奴の鋼糸だ。そして赤は、血だ。スキルの赤銅色とも、魔力の鮮紅色とも違う、濃密な赤。視認も困難なほどの糸が、犠牲者の血を吸って染まり、夜天光に輝いているのだ。


「オ前ぇエエエえエエエエエエェエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!」


 一瞬の内に五十近い命が消えた。 その事実が鮮明な情報として、直接神経に注がれる。

 心臓が凍り付いて、鉛になって、どこかへ落ちていくような錯覚。細胞が震えるほどの寒気と怒り。それ以上のなんと評していいのか分からない激情に憑りつかれ、意識が真っ白に染まっていく。


「アぁあアアァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」


 頭が沸騰する。神経が焼き焦げるような没入感が生じる。鬼面が皮膚と同化するほどぴったり張り付く。

 力を引き出すのではない、その力が溢れ出し、俺がその中に沈み込んでいく感覚。五感が夜風の下で剥き出しになる。


「んふふふふふ!んふはははははは!!そう、その顔!その顔よォ!!邪魔くさいお面があってもそうとわかる怒りの形相!澄ました無表情なんてどこにも見当たらない、激情に呑まれた一匹の鬼の顔!!」


 ダルザも叫ぶ。叫びながら笑う。

 人をおちょくる軽薄な笑みではなく、血を吐くような痛みの宿る狂笑。


「ダルザァアアアアアアアアアアアアアア!!」

「そう、そうよ!アタシよ!アタシがやった!アンタの街を、アンタの仲間や恋人を、アンタの全部を台無しにするためにここまでやってきた!アタシを見ろッ、このアタシを!!」


 もはや奴の口から垂れ流れる音を理解することは、俺の頭ではできない。理性が紙切れのように焼け落ち、全身を駆け巡る怒りというエネルギーが俺と言う人間の本質を塗りつぶしていく。

 気が付けば体に絡みついていた糸は燃え落ち、この体は狂ったように燃え猛る神炎と鬼雷に包まれ、輝きそのもののようになっていた。


「さあ、最後の一押しをしてあげるわ!それで修羅に落ちなさい!アタシを殺しに来なさい!返り討ちにしてあげるから!!尊厳も、希望も、未来も、何もかもをグチャグチャに踏みにじってあげるからァ!!」


 ダルザがポケットから何かを取り出す。琥珀だ。銀の粒子を孕む大きな琥珀。

 奴はそれを俺目掛けて指で弾いて飛ばした。


「ガァ……!!」


 次々絡む戒めの糸を肉が削げるのも気に留めず引きちぎり、ほぼ反射的にそれを斬り捨てる。すると琥珀はまるで最初からそうなる運命にあったように、木っ端微塵に砕け散った。


 バキンッ…キン……きん……きぃん……きぃん……いぃん……いぃん……いぃん……。


 音が周囲の糸に吸われ、増幅されて返ってくる。


 いぃん……いぃん……いぃん……。


 幾重にも重なる脳の歪みそうな残響と反響の中、中に舞った琥珀の粒子が俺の胸に飛び込んできた。俺の体は、俺の意思に反してそれを受け入れ、そして……。


『鬼化第七段階、解放』


 そんなアナウンスが聞こえると同時、肌を蝕む雷の根の模様がメキメキと全身へ広がる。

 意識が反転し、俺の思考に反して前へと踏み出す足。


「ルぅうォアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!」

「うふははっ、んぅふははははははははははははっ!!!!」


 喉を振るわせる咆哮とともに、雷の根が這い回る海色の刀を掲げる。

 魂が雷鳴渦巻く闇の中へと落ちていく感覚がして、悪鬼の声が最後に耳朶を打った。


『眠れ、エクセル。お前の体は、お前の怒りは、俺が上手に使ってやる』


あやうく今月の予約投稿を忘れるところでした……あっぶね。

なお。次の章のプロットは暗礁に乗り上げておりますことを

コッソリここでだけ、ご報告いたします。


面白ければ励みになりますので、評価&いいね&感想頂ければ幸いですm(__)m

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― 新着の感想 ―
いやダルザうぜぇ…。的確にこっちがされて嫌なことを… ていうか流石に死んだやつ全部アクセラのせいにならないよね?なりそうだな…。 ここからアクセラ指名手配→国外逃亡一人旅とかなったら鬱すぎる。やめてく…
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